北辺の海の民・モヨロ貝塚の発見(米村 衛)
オホーツクの海辺
日本列島の最北端の海、北海道のオホーツク海の沿岸には、宗谷岬、納沙布岬にわたる長い浜辺が広がっている。
冬の北西風が吹きつけるこの海岸線は、500キロにもおよび、緩やかなうねりを持った小砂丘とミズナラ、ハルニレ、ハマナスなどの潅木を中心とした疎林が続く。南北に弧状に伸びる海辺の南東岸、知床岬近くに網走市モヨロ貝塚はある。
北の厳しい自然の中で育まれた古代文化、オホーツク文化を代表する遺跡である。
1月から3月にかけて流氷が押し寄せるオホーツク海沿岸は、流氷の接岸する世界で最も南の地域にあたり、国内でも特異な自然環境にある。
一年は陸も海も白く覆われる最も長い冬に始まり、新緑がまぶしい春、一斉に咲き誇る花々と動物たちが活発に活動する夏、紅葉を見せる広葉樹と深い緑の針葉樹がモザイクを織り成す秋、そしてまた流氷に覆いつくされ、全てが白一色となる冬という、激しく厳しい四季の移り変わりが見られる土地である。
こうした豊かな自然の恵みを包み込む沿岸部には、古代からの遺跡が数多く発見されている。
特にモヨロ貝塚のある網走は、長く延びた海岸線にあって唯一、大きく突き出た岬、能取岬の南東側の内湾した場所に位置し、冬の厳しい北西風を防ぎ、和らげてくれる居所に適した立地をもつ。
モヨロとは、アイヌ語の「モイ・オロ」から転化した地名といわれ、その意味は「湾の内側」。まさにその名が示すとおり、最も内湾したあたり、オホーツク海へと注ぎ込む網走川の河口に貝塚は残されている。
モヨロ貝塚ではこの恵まれた条件のもと、オホーツク文化を中心に、縄文から続縄文、アイヌ文化と各時代にわたり、集落が形成された。
北海道の最初の居住者は、約二万年前、北方の大陸方面から渡来してきた旧石器時代人といわれている。その後、本州に若干遅れ八千年前に縄文時代が始まり、本州が弥生時代に入った頃、稲作の伝播が見られなかった北海道では、二千年ほど前に独自の続縄文時代が始まる。そして、本州が古墳から平安、鎌倉時代へと移り変わる1.400年前から600年ほど前に擦文時代をむかえ、その後、アイヌ文化の時代へとつづいていくことになる。
五〜六世紀ごろ、続縄文時代から擦文時代にかけて、北方のサハリン(樺太)方面から渡来してきた外来系の文化があった。
貝塚と集落跡の発見
網走は天然の良港。オホーツク海へと注ぐ網走川を左手に、川を併行して東西に伸びる通り。河口が望める辺りで対岸の森が目にとまる。川を挟んだ対岸一帯は、モヨリ村と呼ばれている原野で、本来の地形が多くの残されていた。
係留されている漁船の合間を縫って下流へ歩いていくと、背丈よりも高い草が生い茂る砂丘である。丘は高さ10m近くもあり、その裾は川の浸食を受けて急な崖になっている。
草を掻き分けて見ると、崖の断面に貝殻が層をなして露出していた。
近づくと貝は二重三重にも重なり、厚さが1mにも及んでいた。自然の堆積ではなかった。 貝層を壊してみた。その中から土器や石器、骨角器をはじめ、獣骨の破片が数多くあらわれた。まさに貝塚の発見であった。
又その崖を登っていくと、砂丘の上に大きな竪穴の跡が埋まりきらずに残る窪地がいくつも目に飛び込んできた。
貝塚を伴った集落跡の発見である。
発見した土器を詳しく見ると、従来の土器とは違って、全体黒褐色で、その表面には縄目や刷毛目が見られず、細い粘土紐の貼り付け文様がみられ、特異な土器であることに気づく。
これまで知られていない未知の文化との出会いではないかと驚かされた。
この日から60年間、モヨロ貝塚の調査と保存を生涯の目的にした米村喜男衛氏の歩みが始まった。(抜粋)
理髪店を営む米村が、モヨロ貝塚と出会った大正初期。発見から二ヵ月後、空き家を借り、小さいながらの理髪店を開店させた。当時は冷夏による大凶作で、入植者に深刻な状況が待ち受けていた。
第一次世界大戦が起こり、突然の好景気に沸き、豆成金がうまれ、北の町は活況を呈した。
1920年(大正20)には、遺跡に隣接して築港工事が行われ、数多くの遺物を採集できた。
河岸に沿う厚い貝層の中から、土器や石器、骨角器と共に人骨も発見された。
モヨロ貝塚の発掘
博物館も開館した1930年後半、第二次世界大戦。1941年(昭和16)太平洋戦争が開戦すると、隣接する内陸に航空基地を持つ海軍は、モヨロの海岸に軍事施設の計画をした。遺跡のほぼ中央が占拠されるこの計画は、遺跡を消滅させる危機に直面した。計画を知った米村は、早速モヨロの重要性を軍関係者に訴えた。
結果、文部省を動かすこととなり、工事は着工寸前で急きょ変更された。一部は史跡指定されていたのが失われたが、遺跡破壊は最小限におさえ、遺跡の主要部分は当時の姿をとどめることとなった。
調査は米村が中心となり、北海道大学協力で、貝層や住居跡が発見された。100体を越える人骨と共に、縄文文化、擦文文化、そしてオホーツク文化にわたる多くの遺物が発見された。
主体はオホーツク文化期のもので、完形の土器が約180点、骨角器が約1.500点、石器約1200点、鉄刀、鉄鉾などの金属器が約60点といわれている。
米村は「古代文化」誌上に「北方日本の古代文化」と題して、網走地方の古代文化を概観すると共にモヨロ貝塚の概要を報告した。
墓坑を中心とした調査の成果の中から、その墓のあり方を次のように捉えた。
「死者は西北を頭位とし、背面を下部として迎向けとなし、両手は胸部に回すものが多く、膝は腹部の上に二肢共に折り曲げており。(中略)その死体の副葬品は石器、土器、骨器であるが、中には鉄器も伴う場合がある」
オホーツク文化の墓製の特徴が、ほぼ指摘されていた。
サハリンや千島列島における調査が精力的に進められ、その結果、オホーツク文化、オホーツク式土器については理解が得られた。
即ち、サハリンから北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に分布をもつこと、北方的な要素を強く備えた文化であること、その時期が古代文化の終末に近いことなど、オホーツク文化研究の基本的な枠組みが確立されたのである。
モヨロも風景
戦後の大規模な調査を通じて、豊富な貝層と共にオホーツク文化から続縄文、縄文文化にかけての多くの遺物と遺構が検出された。
遺跡は網走川の河口に位置し、オホーツク海と網走川に挟まれた三角形状の砂州に貝塚と竪穴は広がる。海側に向かって緩やかに傾斜する標高6mほどのほぼ平らな砂丘で、北側に海、南側には河川をのぞむ場所に立地している。本来的には潅木と草地からなる比較的見通しのよい林であったといわれる。
貝層
砂地の表土から30cmほどのところでいくつもの層をなして発見。ウバガイ、アサリ、ホタテガイなどであり、とくにウネナシトマヤガイなどの温暖水系の貝類が含まれていたことは、現在よりも当時の気温が平均して高い状態にあったことを示していた。
クジラ、アザラシ、トド、エゾシカ、イヌなどの獣骨片のほか、土器や骨角器、石器などの数多くの遺物も混在しており、その内容の豊富さが驚き。
大型集居跡
貝塚に隣接する地点には大型の住居跡が点在する。貝塚と同じく、網走川に沿う形で砂丘南側の縁片部に集中して残されていた。
史跡指定当時は28軒確認されていたが、戦前の工事などにより砂州先端部の竪穴は失われ、現存しているのは20軒ほどである。
土の家
屋根は土で覆われ、その上に礫を乗せ土の家とも呼べる特異な外観をもつ住居が想像された。こうした特徴的なあり方が北方諸民族のものと共通していることから、彼らと同じように、竪穴への出入りは、ときに梯子を使っていた可能性も探られる。
貝塚の中の墓
墳墓の調査は住居跡の東方、貝塚が見られる辺りを中心に行われた、墳墓が貝塚の分布域と重複して存在し、総計30基にも及ぶことが確認された。
迎臥屈葬
オホーツク文化は、死者の埋葬に際して、両手足を折り曲げ縛られていたのであろうか。背中を下に迎向けに寝かせ、両腕は肘を曲げて両手を胸部の上に合わせておき、両肢は股関節と膝間接をそれぞれ曲げた形で葬られていた。
こうしてまとめられた遺骸は、ほぼ長方形に掘り込まれた土坑の底に収め、その上は砂や貝殻で被い、頭の上にはオホーツク式土器を伏せて被せられる。時には胸部上にも小型の土器を伏せて置かれていることもある。
被葬者の頭は、殆ど北西に向けられ、遺体の横には生前に使用した日常品が副葬される。男性は骨角器や鉄器、石鏃、女性には刀子や骨製の装身具類などが共に葬られるのが一般的であった。