(旭川市教育委員会調査報告書の一部抜粋・1990)
神居古潭ストーンサークルが発見されたのは、1952年(昭和27)7月5日、当時の神居村神居古潭(現旭川市神居町神居古潭)在住の中西一による。
神居古潭地区は、道央と道北を結ぶ大動脈である国道12号線に接する旭川有数の景勝地と知られているが、ここは又、植物地理学上では温帯と寒帯の移行帯として、更に、地質学上では神居古潭ストーンサークル変成岩の存在により、学術上極めて貴重な地域とされている。
さらに、道指定文化財「神居古潭竪穴住居遺跡」をはじめとする埋蔵文化財、即ち、原始、古代の人類の足跡が多く残され、石狩川沿いには市指定文化財「神居古潭おう穴群」が分布するなど、歴史と自然の両面にわたる多くの文化財が残されている。
<神居古潭竪穴住居遺跡>
概要
石狩川の左岸,神居古潭つり橋から約1.5kmの地点に所在し,その面積は約3.5haで,現在この地域内には竪穴二百数十基とチャシコツ(砦跡)1カ所が存在している。昭和33年以来そのうちの数基が発掘調査されている。住居は,一辺の長さ約5mの正方形で深さ約1m,内部には炉,柱穴,カマドが作られている。主な遺物は擦文式土器,紡錘車などがあり,使用された時代は奈良の末期から平安時代にかけてと思われる。
<神居古潭おう穴群>
概要
このおう穴群は,神居古潭変成岩層が石狩川に浸食された部分にみられ,全長1,200mの間に大きく分けて7つの群をなして分布している。大きいものは直径5mあり,規模からみてもこのおう穴群は地学上貴重な存在である。
<アイヌ古式舞踊>
概要
北海道一円に居住しているアイヌの人たちによって伝承されている芸能で,祭,祀の祝宴や様々の行事に際して踊られる。アイヌ独自の信仰に根ざしている歌,舞で,信仰と芸能と生活が密接不離に結びついているところに特色がある。
旭川市の指定文化財
(平成14年12月末現在)
遺跡の環境
神居古潭地区は、旭川市域の西端に位置し、石狩川を挟んで深川市と接する標高83m前後の低山地帯である。
一般に神居古潭といえば、石狩川が大雪山系と天塩山系との間を貫いて形成した渓谷を指し、地質学的には、複雑に変成岩が発達したか神居古潭変質岩として知られている。
神居古潭は植物地理学上、温帯から寒帯への移行帯であるといわれ、神居古潭を境にして南に広がる一帯は黒松内低地帯、北に広がる地帯は寒帯林トドマツ帯である。
神居古潭ストーンサークルの所在する一帯は、ミズナラ、カンバ類、カツラ、ホオノキ、ヤチダモなど天然の広葉樹林に覆われ、トドマツ、エゾマツなど寒帯林の代表種である針葉樹が自生しているところは稀である。
広葉樹は樹齢200年以上、径級60cm以上の形質良好な大径木に飛んでいる。
この地域は、旭川市域でも遺跡の稠密なことで知られており、縄文時代後半からアイヌ期までの遺跡が、石狩川両岸を中心に分布している。
特に著名なのは、道指定文化財で縄文時代の竪穴219基が確認されている神居古潭1遺跡である。
神居古潭ストーンサークルが形成された縄文時代後期とほぼ同時期と考えられる遺跡は、神居古潭地区では3箇所知られている。
一つは、神居古潭3遺跡(F−01-51)で、神居古潭ストーンサークルの石狩川を挟んで対岸の狭い低地段丘面にのり、かつて神居古潭駅の職員住宅が並んでいたところである。1980年に範囲確認調査が行われているが、縄文時代後期を主とする遺物が検出されている。神居古潭ストーンサークルの直線距離は、0.7kmである。
もう一つは、神居古潭6遺跡(F−01−54)で、石狩川が神居古潭渓谷を抜け5kmほど下った、内大部川との合流点近くの河岸段丘上に位置する。縄文時代後期以降の資料が確認されている。これらの資料は、北海道開拓記念館に寄贈・保管されている。
もう一つは、神居古潭7遺跡(F−01−56)で、神居古潭6遺跡から内大部川に沿って上流に0.5kmほど遡った、内大部川に向かって舌状に張り出した段丘上に位置する。本遺跡には、かつて長円礫を用いたストーンサークルがあったといわれ、現在でも開墾の際ん抜き集めた長径60cm前後の多数の礫が置かれたままなっており、こうした礫の状況や出土遺物の時期から、ここにストーンサークルが所在したことは間違いない。神居古潭ストーンサークルからの直線距離は約2.0kmである。
神居古潭7遺跡が、ストーンサークル遺跡であることが疑いないものとしたとき、神居古潭地区には2箇所のストーンサークル遺跡が所在することになる。
この半径1.5km程の狭い範囲内に所在する2箇所のストーンサークルについて、神居古潭3遺跡、6遺跡といった推定される縄文時代後期の集落遺跡群が、共同で場所を変えつつ設定した共同墓地であり、同一集団(群)が設置した共同墓地の時間的な変遷の様相を示すものである、ということが成り立つのである。