恵山文化と弥生文化

 恵山文化と東北地方の弥生文化との交易

   続縄文文化

  恵山文化と周辺文化(伊達市教育委員会)

 恵山文化は続縄文時代の前期(約2.3001.700年前)に、主に北海道渡島半島から石狩低地帯までの地域に広がっていた文化である。

 恵山文化の名は、恵山町にある北海道指定史跡恵山貝塚に由来する。

  縄文時代以来の地域差の原因は自然環境の違いと共に、道南西部が本州と、道東北部がサハリンなどの北方地域とそれぞれ関係しやすいという地理的環境にあることは明らかである。

 更に、両地域の中間に位置する石狩低地帯は、東西の文化が融合される地域であると共に、両者を分断する「文化境界帯」の役割を果たしていた。

 恵山文化の南には稲作農耕を主な生業とする弥生文化が本州、四国、九州に広がっている。最近は弥生文化を「大陸系弥生文化」と「縄文系弥生文化」の二つに大別して考える試みがなされている。

 恵山文化の南に隣接する文化とは縄文系弥生文化に属する東北地方北部の弥生文化ということになる。

 この東北地方北部の弥生文化と恵山文化は土器やその型式変化に類似性が見られるほか、碧玉製管玉の墓への副葬などの共通性も見られる。

 だが、大きな違いは、東北地方北部には青森県弘前市砂沢遺跡や田舎館村垂柳遺跡で水田跡が発見されたように、水稲農耕を生業とする村があったことである。

 これに対し、恵山文化の村々では、水稲農耕は行われず、狩猟・漁労を主な生業としていたことが多くの貝塚や骨角製漁労具、石製ナイフの存在から判る。

  両文化は水稲農耕の受容・非受容の違いとそれに伴う社会変化の違いがありながら、土器や祭祀などは共通している。

 このことは縄文時代において両地域は共通文化圏であったことから、農耕文化の波及以後も土器製作技術などの伝統は変わることなく、受け継がれたと考えられるのである。

 恵山文化と東北地方北部の弥生文化に挟まれて、例えば、弥生文化らは鉄製品や本州産の装飾品を受け入れているが、砂沢遺跡で行われたような水稲農耕は受け入れてはいない。しかし、雑穀農耕が行われた可能性が高く、僅かではあるが農耕社会的な要素が現れる。

 文化の交流は隣接する地域だけとは限らない。伊達市有珠モシリ遺跡出土の南海産のイモガイ製貝輪は恵山文化と九州の弥生文化との交流を示している。

   恵山文化の生業

 恵山文化の主な生業は狩猟と漁労であり、勿論、採集活動や若干の雑穀農耕も行っているが、縄文時代以上に海への依存度が強くなったと考えられている。

 それは、日本海側の海蝕洞窟や噴火湾を中心とした太平洋岸に多くの貝塚が残されていること、釣り針や銛などの漁労具が増加すること、そして、動物解体用とされる定型的な石製ナイフが多く出土することが証拠として挙げられる。

 又、遺跡立地は縄文時代後・晩期にもまして砂丘上に位置する割合が多くなることも理由の一つである。

 恵山文化に雑穀農耕が行われていたことは炭化種子及び栽培種花粉の出土によって指摘されている。

   他地域からもたらされたもの

 恵山文化の遺跡では他の地域から運び込まれた品々が多数出土する。

本州以南からもたらされたものとしては佐渡嶋産の碧玉を加工した管玉、南海産のイモガイやマクラガイ、ホタルガイなどの貝製装飾品、そして鉄製品が挙げられる。又、恐らく東北地方北部で作られ、運び込まれたと考えられる弥生式土器や土製紡錘車もある。

  原産地が小笠原諸島及び琉球列島に限られている南海産の貝製装飾品は伊達市有珠モシリ遺跡からイモガイ製7点(3組)、テングニシ製1点など。

 特に注目されるのはイモガイ製の腕輪で、長崎県佐世保市宮の本遺跡で出土したものと形態が同じであることから、琉球列島で採取されたイモガイが北九州で腕輪として加工され、北海道にもたらされたものと考えられる。

 鉄製品としては、続縄文時代前期に限ると道内の11遺跡から15点が出土している。このうち、12点が石狩低地帯以西から出土している。

 鉄製品については、本州からのルートのみならず、サハリンを経由した北周りのルートも考えられている。

 羅臼町植別川遺跡では鉄製刀子が、鞘(さや)の装飾と思われる銀製品に伴って出土した。本州で銀製品の出土例がない時期だけに、これらは北周りのルートで伝わった可能性が高いとされている。

 石狩低地帯以東、道東北部及びサハリンからもたらされた可能性が在るものとしては琥珀製玉類が挙げられる。

 琥珀製玉類は縄文時代晩期から主に墓の副葬品として出土し、石狩低地帯以東に広く分布している。それが、時期が下がるにつれて、恵山文化圏でも出土するようになる。

 恵山文化と東北地方北部の弥生文化の関係は、土器型式や碧玉製管玉の墓への副葬など、縄文時代以来の共通の文化伝統に由来する要素が多い。だが、生業や遺跡立地、墓の形態など社会・文化の根幹に関わる部分が異なっている。

 両文化の地域的な区分については、線で区切られるというよりも、むしろモザイク的な状況であり、その濃淡は時期ごとに変化することから、一概に区分できない。

 しかし、狩猟採集社会から農耕社会への変化という大きな流れから見ると、この時期の恵山文化と東北地方北部弥生文化の生業の違いは非常に大きな差といえる。

 それは、その後における両地域の歴史変遷の違いに表れているからである。

新北海道古代史―2 続縄文・オホーツク文化(野村 祟  宇田川 洋編)