北海道 独自の文化

 続縄文文化と海・河川の利用

(続縄文文化と擦文文化)

  紀元前1世紀頃、縄文文化を継承して北海道に現れた続縄文文化は、本州の弥生・古墳文化に並行し、八世紀の奈良時代ごろに擦文文化が現れるまで続く。

 続縄文文化の新たな模索は、併行する弥生文化から鉄器を採り入れることであった。しかし、その気候的条件からか、弥生文化の特徴である稲作を導入することはなかった。

 ところで、この続縄文という呼称には、稲作を採り入れることができず、縄文文化から完全離陸しきれなかったという「稲作中心史観」の考え方が見え隠れし、守旧的で停滞的な文化という評価が読み取れる。

 しかし、この文化には、農耕という生産手段を選ばずに漁労の方法を改良し、新しい漁場を開くなど、北海道という寒冷の環境に適応する生業体系を生み出すという積極性を見ることができる。

 この漁場への開発が基になって、そのあとに続く擦文文化・アイヌ文化など、「北の文化」の基礎が作られたとして高く評価されている。

 続縄文文化は土器の様相から前半と後半に分けることができる。

 前半期(紀元前一世紀〜三世紀)は地方色豊かな時代で、渡島半島に縄文晩期亀ヶ岡式土器を母胎とする恵山式、道央部に江別式、北見、網走のオホーツク海沿岸に宇津内式、釧路地方に興津・下田ノ沢式の各土器が分布圏を形成している。

 恵山文化の由来にもなった渡島半島の東端にある恵山貝塚は、前半期の代表的な遺跡である。多様な骨角器が出土し、魚形石器が見つかっており、海を積極的に利用する生活を送っていたことが窺える。


魚形石器

 噴火湾には恵山文化の時期にも多くの貝塚が作られた。伊達市有珠モシリ遺跡がそれである。精緻な彫刻を施したヤスや釣り針など、柄頭にクマ・クジラを彫ったスプーンなどが出土している。特に注目されるのは九州地方を生息域とするイモガイで作られたヨコ型の連結式貝輪や首輪などが多量に出土している。

 古代において西日本と北海道を結ぶ“貝の道”を想定し、海を生活の場とする人々の存在があったと見られている。

 江別文化とは、道央部の河川に大きく依存する文化である。代表的遺跡の江別太遺跡は、江別市の東部を流れる千歳川(石狩川支流)の東岸、標高約4mの低地に立地する河川漁労の遺跡である。

 後のアイヌがサケの遡上を止めて捕獲しようとした「テシ」(アイヌ語で魚止めの堰を意味する)と同じようなものと考えられている。

 続縄文文化後半期(三世紀末〜八世紀)になると江別C2〜D式土器と北大式土器が全道をおおうが、前半期、海に進出していた渡島半島(=恵山文化)と釧路・根室地方(=下田ノ沢文化)は、ともに遺跡数の減少、遺跡規模の縮小が著しく、かわって後北文化の遺跡が石狩低地帯を中心に全道の河川沿いに立地し、サケ・マス漁への依存が高まった様子が察せられる。

   オホーツク文化の成立

 オホーツク文化は五世紀から十世紀頃にかけて、サハリン南部から北海道・南千島のオホーツク海沿岸部に展開した高度な海獣狩猟・沿岸漁労の文化である。

 住居は海岸の砂丘上に、1.5mほどの深さを持ち、中には長軸15mを越す大型の竪穴住居もある。家の壁沿いには、クマなどの頭蓋骨からなる骨塚がある。 

 遺物には東北アジアが起源と見られる青銅製の帯飾り・耳環など出土する。本州方面から蕨手刀・刀子の鉄製品などを入手していた。骨角器の出土も多く、海の生活の重要な舞台になっていたこと窺わせる。

 土器の文様は前半のものは沈文(爪もしくは施文具を押し付けたりして付けた沈んだ文様)で、後半期のものは浮文(粘土紐などを貼り付け浮き立たせる文様)で飾られる。

 ところで、この文化を世に紹介するのに功績のあった考古学者。網走市在住の生涯モヨロ貝塚に従事した米村喜男衛氏。河野弘道氏はオホーツク文化という考え方を提唱した人で、さらにオホーツク系文化は縄文系もしくわ擦文系文化と全く異なり、広く北東アジアの亜寒帯地方に広がっていた北方系文化と位置づけた。

 現在オホーツク文化の起源の見解は大きく三つの分かれている。

アムール川下流域から「まっかつ(ウリチ民族)が直接やってきたとする説、サハリンのアイヌ民族(樺太アイヌ)とする説、サハリンのニブフ民族(ギリヤーク)とする説などがある。

 従来から指摘されているように、オホーツク文化はアムール川河口域で発生する流氷域とほぼ重なることから、北方から北海道へ南下してきた外米の文化であることは間違いない。

 道北部の枝幸郡の目梨泊遺跡は、オホーツク文化期最大規模の集落跡である。

目梨泊(めなしどまり)遺跡(H-05-42)

 北海道の歴史を捉える際に、オホーツク海・日本海に隔てられた対岸地域の様々な民族集団との交流を視野に入れなければならないことを示唆している。又、この遺跡はから本州で作られた蕨手刀などの鉄製品が出土していることは、続縄文文化・擦文文化、更に本州文化との多様な交流を無視できないことを示している。

 (北海道の歴史・山川出版社・県史シリーズ@ 2000年刊行)