第U黒色層(UB層)竪穴住居跡写真と土器

  UB層の遺構と遺物の写真集

   本層から縄文時代(縄文土器を指標とする時代。縄文土器の変化によって草創・早・前・中・後・晩の6期に分け、放射性炭素年代によると、紀元前1万年前後に始まり、前4世紀頃まで継続して、弥生(やよい)時代と交代する。主に竪穴(たてあな)住居から成る集落を構成し、採集・漁労・狩猟の採取経済の段階にあり、農耕の存否については議論がある。遺跡・遺物は千島から沖縄まで分布している)  の住居跡・土坑・環状土?・環濠・炉跡などの遺構と、中期末から後期初頭を中心とする土器・石器など、多量の遺物が発見された。

 環状土?は2基が確認された。丘陵北東部の端に位置し、低地部や馬追丘陵が見渡せる見晴らしの良好な場所を占めている。

 環状土離―1(下記環状土?参照)は竪穴経16,5m・竪穴壁高50cm・周提外形26m・周提高50cmの規模を有する比較的大型のものである。

 竪穴中央には直径5m・高さ25mのマウンドが床面を掘り残して設けられている。

 マウンド上には長軸240cm・短軸長95cm・深さ120cmの暮抗が1基ある。

人骨は確認できなかったが、抗底からはベンガラとその下から木製の棺(浅い樋状)の存在を想像させる有機質土が発見された。

 この他に抗底からは、赤漆が塗られた長さ約1,7mの弓が一張り出土したが、木質部分は既に無く、漆の膜だけが確認された。

 床面にはマウンド暮抗の外に18個のピットがあり、いずれもEn-a層(恵庭a降下軽石層・約15,000年前の恵庭岳の噴火により降下したバミス。)のロームを用いて人為的に埋め戻されていた。

 環状土離―2(下記参照)。竪穴内から4基の土坑墓を検出した。人骨が遺存している暮抗はなかったが、ヒスイ製の玉が1個、環状土?―1と同じサイズの赤い漆が塗られた弓が一張り出土した。

 墓内から墓標の柱跡と考えられる柱穴が見つかっている。柱穴は堀り方を持たず内部が一部空洞化しており、遺骸埋葬と同時に墓抗内に柱を立てたことが考えられる。
(千歳市埋蔵文化財センター・田村俊之・調査概要より。註=電子辞典検索より)