千歳川・オルイカ川と丸子山遺跡

千歳川・オルイカ川と丸子山遺跡

  千歳市街の北東部に位置する中央地区は、東側に馬追丘陵、西に長都沼を中心とする大規模な低地が存在していたが、現在、長都沼は排水と客土によりビート・麦・小豆・馬鈴薯などが植えられた広大な畑作地帯に変容している。農地の間には、取り残されたように小さな林が点在している。

 馬追丘陵の西裾は良好な段丘が形成されている。丘陵部から西に向かって流れる小河川・沢などが多数あり、段球上には史跡「キウス周提墓群」を初めとする多くの遺跡が立地している。

 丸子山遺跡は、この段丘からやや西に離れたオルイカ川左岸に位置する独立丘陵上に立地する。

 昭和631988年8月、土地所有者である遠藤ヤイ子より畑地造成に伴う「埋蔵文化財保護のための事前協議書」(第一次)が北海道教育委員会に提出された。

 工事の内容は、独立丘陵を削平して周辺の低地に盛り土を行い、耕地の平坦化を計ろうとするものであった。工事予定地の大部分は、既に遺跡として登載されていた丸子山遺跡であったため、 昭和631988年9月、北海道教育委員会による埋蔵文化財範囲確認調査が実施された。

 テストピットは13ヶ所に設けられ、いずれも遺構・遺物が確認された。この範囲確認調査で出土した遺構・遺物は、丸子山遺跡が旧石器時代〜擦文時代に至る複合遺跡であることを示していた。

 「埋蔵文化財保護のための事前協議について」回答で、協議区域全域が埋蔵文化財包蔵地であり、現状保存が出来ない限り事前の発掘調査が必要であることであった。

 営農者である協議者は、畑地の造成に強く希望し早急な事前調査を希望した。遺跡の規模が大きく、個人による調査費の全額負担が困難であることから国庫補助により調査を実施することとした。

 平成2年(1990)6月、国宝・重要文化財等保存整備費補助交付金申請書が文化庁に提出し、7月に交付された。

 この初年度の調査において、分布調査の予測通り丸子山遺跡が旧石器時代から縄文・続縄文そして擦文時代に至る規模の大きな遺跡であることが明らかになった。

 三つの大きな成果があった。

 一つは7世紀後半〜8世紀初頭の可能性がある擦文時代の竪穴住居跡の発見である。石狩低地帯の最深部に位置する擦文時代最古の集落の検出が予想された。

 もう一つは、縄文時代の環濠の発見である。縄文時代の環濠の完全な発掘調査がなされたのは、千歳市に隣接している苫小牧市の静川16遺跡である。本遺跡の環濠は立地条件などの類似性が認められ、同様の規模が予測された。

 第三には、En−a層下位の層からの旧石器発見である。過去に、祝梅三角山下層遺跡などの同じ層位から凡そ2万年前の旧石器が発見されている。

  千歳川は、樽前山、風不死岳、恵庭岳など七つの頂に囲まれた支笏湖を源とする。

 峡谷は東に向かって流れ、右岸に千歳台地、左岸に北信濃台地、ウサクマイ台地に挟まれながら徐々に川幅を広げ千歳市街地に至る。

 丘陵部は東西に間隔を広げ、川は沖積地の平野部に入って行く。市街地を抜けると北に流路を変え、石狩低地帯に流入する大小の河川を吸収しつつ江別市で石狩川に合流する。全長約72kmの河川である。やがて石狩川には日本海に注ぐ。

  丸子山遺跡はこの千歳川に形成された中流域の一角に位置する。中流域は、石狩低地帯の最南部を占める沖積地である。大小の沼が点在していた大湿原地帯であった。のち、沼は姿を消し、湿原地帯は耕地化していった。