環濠遺構―A

 縄文時代中期の遺構と遺物

 環濠―遺構

 南北に長い、総延長約170m、70×60の大規模な溝状遺構である。検出面での幅は最大4,0m,平均2,53,0を測る。深さは最大1,62m、平均1,3m前後あり、En−aバミス層深くに達し、丘陵東肩では一部En−aバミスを貫き、支笏意湖火山灰風成二次堆積層に達している。

第一層樽前a降下軽石(Ta−a層)。 1793年の樽前山の噴火により降下しバミス。 厚さ約60cm堆積し丘陵の最上層として全域を覆っている。無遺物層である。

第二層第一黒色層(TB層)。第一層と第二層の間にある腐食土。若干の     Ta―aバミスを含む。 縄文時代晩期末葉から1973年の間に形成さ れた土層である。当遺跡では主に続縄文・擦文時代の遺構・遺物が存在する。厚さ約20cm。

第三層樽前c降下軽石(Ta−c層)縄文時代晩期末葉(約2,000年前) 降下したと言われているバミス。丘陵上の平坦面では5cm程斜面では 20cm程の厚さに堆積している。

第四層 第U黒色層(UB層)。第三層と第五層の間にある腐食土。縄文時代早 期から晩期末葉間に形成された土層当遺跡では縄文時代各期の遺物が出土しているが、主に縄文時代中期末から後期初頭にかけての遺構・遺 物が検出された。丘陵上の平坦面では約20cm、斜面では30〜50cm程堆積している。

第五層恵庭a降下軽石層(En−a層)約15,000年前の恵庭岳の噴火により降下したバミス。丘陵上の平坦面で約2m堆積し、最上面は風化し厚さ20cm程がローム化している。ローム層の上面では細石刃を伴う石器群が出土した。

第六層茶褐色の火山灰層。支笏火山灰が風化した土壌であると言われている が、堆積原因、成因等が不明なため仮称とした。厚さは約80cmあり、 肉眼では複数の堆積層や明瞭なインボューションが観察できる。上面よりエンドスクレイパーを伴う石器群が出土した。

第七層支笏火砕流堆積物風成2次堆積層。31,000〜34,000年前に噴出した.支笏第一テフラに起因する。古砂丘を形成し本丘陵の基盤をなしている。

 断面の形状はV字形が多いが、逆台形状を呈する部分もある。平坦部では整った形状であるが、特に東斜面部では斜面の下側で急斜度をなし、上側では緩やかな傾斜となる。 

 掘り残した部分は6ヶ所あるが、出入り口と考えられるのはU19,20区の部分である。

 G15,16,17区の3基はUH20竪穴に切られている。いわゆるTピットとも異なるこれらの遺構は環濠の作りかけと判断される。覆土は人為堆積で、掘削途中で埋め戻されたと考えられる。

 当初はGライン付近で環濠を収束させることを意図したのであろうが、何らかの原因で更に北に延長したものと推定される。

 このことは環濠の東側G19区において、北西方向に延びて来た壕が、かなり急激な角度をもって西に方向を転換した直後に掘削が中止されていることからもわかる。

 この後、C,D,E,ラインにおいて壕の掘削が行われたが、G−19区との間に大きく空白部が残されている。このような大きな空白部は可也多く、環濠自体が完成され、当初意図された機能を果たしていたかどうかについては疑問もある。

 環濠出土の遺物は非常に多い。次ページへ


 千歳市界隈の環濠について!

(「丸子山遺跡における考古学的調査」千歳市教育委員会)

 丸子山遺跡は、縄文時代の環濠として、隣接する苫小牧市の静川遺跡に類例があるだけである。

 苫小牧市の静川遺跡は、総延長138,5m、長さ66mの瓢箪型を呈する。壕は上場が23、底は場0,5、深さ1〜2mを測る。又、断面形状はV字であり、三ヶ所の切れ目があり、出入り口と考えられている。

 環濠の内部には2軒の竪穴が検出されている。環濠及び竪穴は縄文時代後期の余市式期とされ、丸子山遺跡例よりも時期的に下る。

 この遺構・静川遺跡は、いわゆる環濠集落とは考えられず、マツリ場としての機能が想定される。

 丸子山遺跡例では、環濠の内部にはこれに伴うと考えられる遺構は確認されなかった。このことより、日常的な活動の場と考えることは、静川遺跡のようには考えられないだろう。

 但し、この遺構が完成し、本来の機能を果たしていたかについての疑問もある。

 環濠は本来Gライン付近で収束することが意図されていた。しかし、何らかの理由で計画が変更され、更に、Dラインまで延長されることになった。

 ところが丘陵北西部では延長して掘削が成された形跡が見られず、当初の計画が中途で終わってしまっている。

 したがって環濠は完結せず、北西部は大きく空いた状態となっている。この部分はやや急峻な斜面となっており、壕を構築する必要がなかったことも考えられるが、防禦的な意味合いが無い以上、静川遺跡のように完結することが本来意図されていなかったのではないだろうか。

 いずれにしても、環濠に区画された内部は何らかのマツリの場として意図されたのであろう。

 丸子山遺跡は、遺構の全容が明確であるにも関わらず、環濠によってその内外で空間的に分割される要素が検出できない。

 静川遺跡では環濠の立地する丘陵とは別の隣接する丘陵上に集落が確認されており、これと環濠内とを区画するという意図があったのかもしれない。

  丸子山遺跡ではこの環濠の後に、後期に至って2基の環状土?が構築されたが、この時期の竪穴も検出されていない。又北側のはキウス周提墓群があり、近年さらに多くの環状土?がこの近辺に存在していることが判明している。

 この地域が、非日常的な場としての性格を断続的に維持されたのではないだろうか。