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キウス4遺跡・千歳IC建設・調査

 千歳IC建設に当たり

  北海道横断自動車道(千歳〜夕張)建設。

  縄文時代後期の周提墓や盛土遺構が広範に分布し、土器・石器の遺物も多量に出土することを確認した。

  キウス4遺跡は石狩低地帯に面した馬追丘陵の西側緩斜面(標高9〜19m)に立地し、北東方向約300mには国指定史跡「キウス周提墓」が位置している。

 調査地区を含む一帯は山林と農地に土地利用されており、耕作による均平化のため地表面からの遺構確認は難しい状況であったが、地表では縄文時代後期の遺物が多数採取された。

  調査の結果、縄文時代後期末を主体とする遺構・遺物が多数出土した。

 当初、耕作や心土破砕による遺構の破壊が懸念されたが、周提墓と盛土遺構の頂部・住宅跡の壁が消失していた以外は良好であった。

 一次調査では調査区東側で3ヶ所の周提墓群、西側では住居跡群及び南側の盛土遺構を確認した。

 二次調査では住宅周辺に分布する6ヶ所の周提墓群と北側の盛土遺構を確認した。

 建物は縄文時代後期末(堂林式)を主体とする土器・石器が大量に出土した。

堂林式土器、三ツ谷式土器、御殿山式土器 展示の様子(北海道埋蔵文化財S展示より)

  それ以外では縄文時代早期末(東釧路W式=撚糸文系土器・東釧路V式、コッタロ式、中茶路式、東釧路W式=鵡川町宮戸4遺跡)の遺物が少量出土している。

 今回の調査で確認された9ヶ所の周提墓は、国指定史跡「キウス周提墓」と地形的には同じ面であり、一つの大きな群れを構成しているものと考えられる

試掘抗と遺構の位置   遺跡は東から西に向かって徐々に低くなる丘陵裾野の緩斜面上にあり、西端部と南端部は低湿地に面している。  周提墓群は調査区東側、住居跡群を囲むように南と北で検出されている。
各遺構の時期は同じ縄文時代後期末であるが、重複関係から若干の時間幅を持つと考えられる。


  周提墓(1)

  全部で9ヶ所の周提墓を確認した。 1〜7号は周提と竪穴の掘り込みから明らかな輪郭を示すが8・9号は心土破砕の為1〜7号と比較してやや明瞭さにかける。 
  規模は大小様々で最大は4号(外径約41m、内径約27m)、最小は9号(推定外径17m、内径11m)である。 周提内の中央に盛り上がった部分(マウンド)が確認されたのは、1・4・6号の三ヶ所で、1・4号ではマウンド上に石(立石)が確認されている。又、6号の周提内側の壁際には堂林式土器が2個体出土している。

  下記周提墓1号は、周提の外形は約33mと今回確認された中では中規模のもので、中央のマウンドに土坑墓を有する。削平を受けていない北側の周提頂部と内側との比較差は約50cmである。
  マウンド周辺には黒色土の入った不整形の落ち込みが認められるが土坑墓かは不明である。

周提墓(2)   周提墓4号は外径が約4mと今回確認された中では最大規模。

  これは現在知られている周提墓の中でも5番目くらいに相当する規模である。  周提墓内では中央のマウンド(第一マウンド)の北側に、もう一つの別の小規模なマウンド(第二マウンド)が確認されている。このような形態は過去に例がない。
 墓と思われる土坑は中央マウンド上のものも含めて9ヶ所が確認されている。いずれも平面は隅丸の長方形で、長軸の方向はほぼ東西である。


住居跡    住居跡1号
  遺跡の西側で検出したもので竪穴の壁は耕作によって削られている。
  環状の巡る小柱穴群と主柱穴の配置から2〜3回の改築が行われたと考えられる。平面が円形で最大径が約10mのものは東側に出入り口様の土坑があり、小柱穴群の内側には炉と径約40cm、深さ60cmの主柱穴が4ヶ所見つかっている。 一部の主柱穴内には焼けた覆土が認められることから,火災を起こした住居もあったと推定される。
  時期は周提墓や盛土遺構と同じく縄文時代後期末(堂林式)である。  周辺には別の住居跡のものと考えられる柱穴や炉が点在している


 盛土遺構      調査区域の南北両端で確認された二つの盛土遺構はいずれも今回の調査地域外へ広がっている。
  規模はともに幅10〜50m,長さ150m以上に及ぶ長大のものである。  一次トレンチにかかる盛土遺構(南側)の一部一部分を調査した。盛土の下に他の遺構は認められなかった。


土坑