ウサクマイN遺跡・(Ta-a層・樽前a降下軽石層)宝壽神宝

  ウサクマイN遺跡出土の富壽神寶(ふじゅしんほう)

  樽前a降下軽石層・Ta−a層:1739年降下

  地形的に大きく谷底平野平坦部と内別川旧河道部にわけられ、遺跡全体は樽前a降下軽石層に覆われています。

  平坦面では、Ta−a層下の黒色土層から擦文文化期の住居跡11軒、アイヌ文化期の建物跡2軒、道跡1列、墓1基などが検出されています。

 特筆すべきこととして擦文文化期の竪穴の堀上げ土付近から富壽神寶が二枚発見されました。

 

  富壽神寶とは

  富壽神寶と皇朝十二銭

富壽神寶は皇朝十二銭の五番目の銅銭で、鋳造期間は818年から834年。

  皇朝十二銭とは、奈良から平安時代前期まで凡そ3世紀の間に律令国家が発行した銅銭の総称です。

 銅銭以外に銀銭の和同開珎・太平元宝、金銭の開基勝宝も発行されているのです。そのうち、広く使われたのは銅銭で、その銅銭が12種類あるため、皇朝十二銭と呼んであるのです。

 

 皇朝十二銭の流通

 8世紀では畿内主要部で貨幣として流通し、畿外では貨幣というよりむしろ、宝物もしくは厭勝品(えんしょうひん)として用いられていたらしい。

 9世紀に入るとその流通範囲は、平安京とその周辺に次第に限られてきます。

畿外では宝物、厭勝品以外に地鎮具として用いられていたようです。

 10世紀後半には京内でも銭貨は使用されなくなったものと思われます。

富壽神寶は15年間の間に一億一千万枚発行されています。

 9世紀に入ると、皇朝十二銭の粗悪化(含有成分において鉛が増加し、銅が減少する傾向をさす)が進行し、次第に小型軽量化する。原料銅の産出不足に原因があるようです。

 そして、粗悪化・小型軽量化が目に見えてくるのは、皇朝十二銭の4番目の隆平永宝の頃。

 富壽神寶の「大様」「小様」で、ウサクマイN遺跡出土の富壽神寶の二枚は小様です。

 東北地方の秋田県、多賀城出土の富壽神寶も小様です。

 

 富壽神寶の「普及」

 ウサクマイN遺跡では、富壽神寶の他に須恵器など当地以外で作られたものが出土している。

 須恵器は搬入品で、その肉眼観察から秋田城周辺が供給地と考えられています。多分、富壽神寶も須恵器と共に当地にもたらされたものと思われます。

 その用途は、9世紀に入ると富壽神寶の流通範囲が平安京とその周辺地域に限られることから「流通貨幣」としてではなく、建築儀礼(地鎮具など)に関わるものと推測しています。

 東北地方においては古代銭貨が8世紀代には主に末期古墳に埋葬されていましたが、9世紀代になると建築跡に関係する遺構を中心にとして出土する例が多くなることから北海道においても同様の傾向を持っているのではないかと考えられます。

 いずれにしても富壽神寶にまつわる諸々の問題は、今後の研究の課題となるでしょう。

(「teeta」、第4号、北海道埋蔵文化財センターだより)