死後の世界・墓地・擦文時代は墓制に関して
死は人間にとって誕生と共に最も基本的な通過儀礼の一つである。
人間がその生の終焉に伴い墓を作るようになったのはいったい何時のことだろうか。
墓の形態が時代や地域により異なるように死に対する考え方も千差万別である。
古代人の疾病や天災による不意の死の訪れに対する恐怖は現代人より遙かに強かったと思われる。
人間の死を悲しみとしてとらえる感情が芽生えた時、死者を葬るという行為が生まれると思われる。又、それと同時に死者の霊の復活を恐れる感情も生まれたのである。
前者は「墓」となり後者は「信仰」となるのである。 墓はいわば被葬者の生前における社会的機能を集結したもので、1個の墳墓から出土した土器、日用利器、絵画などの副葬品からその副葬品の製作技術や、副葬するという埋葬習慣、又、当時の人々の生活まで類推、検討するなど実に有為な歴史的資料であるといえよう。
苗別川流域からは、ウサクマイA遺跡から擦文期、ウサクマイB遺跡からアイヌ期の墓がそれぞれ発掘されている。
ウサクマイA遺跡は擦文初期の墳墓群で、この遺跡発見以前には擦文時代には土葬は行われなかったのではないかという考えがしばしば提示されるほど、擦文時代は墓制に関しては謎の多い時期であった。
この遺跡の発見はこのような疑問点に可成り具体的な解答を与えたばかりではなく、擦文文化の成立の一端さえ窺わせるなど学術的にも極めて価値の高いものである。
今回の調査では縄文時代前期及び擦文期と推定される墓が可成り検出されたが、中でも縄文時代前期の縄文期の墓は3基の内1基から副葬土器が検出された。
(千歳市教育委員会)
北海道の儀礼と祭祀
大島 直行 伊達市教育委員会文化財課)
貝塚のようす
北海道の貝塚は、数の上では本州とは殆ど比較にならない。
北海道の現存する貝塚は、十数年前に調査した際には、134ヶ所であった。全国一貝塚の多い千葉県では800ヶ所であるから、その差は歴然としている。
本州の貝塚とは数だけではなく内容も異なる。まず、作られた時代が違う。
本州では、縄文時代以降、生業の中心は農耕にとって変わる。貝塚は一部の地域を除いて殆ど作られなくなる。これに対し、北海道は農耕に移行せずに縄文以来の伝統的な狩猟採集の経済が続く。
北海道では、続縄文、擦文、そして中・近世のアイヌ文化期まで依然として貝塚は盛んに作られる。
更に、本州とは貝層を構成している堆積物も大きく異なっている。
この違いを説明する時には虻田町の入江貝塚が便利である。
入江貝塚は、前期中葉から後期前葉にかけて形成された貝塚。
「黒い貝塚」と呼ぶように、貝層断面は貝殻が少ないために黒く見える。
貝層を構成しているのは実は貝殻ではなく、魚骨とウニ殻、動物骨、特に多いイルカの骨だからである。更に、貝層をことさら黒く見せているのは、焼土や灰や廃土、多数の土器や石器などの遺物類である。
こうした貝層断面は、北海道では珍しいものではなく、貝殻中心のいわゆる純貝層が一般的な本州の貝塚とは大きく異なる点である。
勿論、そうした背景には、本州と北海道の生業、食生態の違いがあるのだが、北海道の貝塚の分布の状況は下記の図面である。
貝塚が最も多く分布しているのは噴火湾の東部沿岸である。
中でも分布は伊達市に集中しており、全道の貝塚の実に五分の一が伊達市に所在する。特に有珠地区には僅か2Kuの範囲に28ヶ所が分布しており、まさに貝塚密集地帯の観がある。
噴火湾に次いで多いのが、釧路地方の厚岸湾沿岸である。東釧路貝塚は、道内では最も早い時期の貝塚である。
網走地方の貝塚も少なくない。多いのはオホーツク期と近世アイヌ期である。貝塚に関して意外に少ないのが渡島半島である。
特に、津軽半島に面した沿岸地方には、戸井戸町の戸井戸貝塚と、続縄文の貝塚ではあるが、恵山町の恵山貝塚、近年大規模な発掘が行われた函館市の石倉貝塚、松前町の寺坂貝塚がある。
面白いのは南茅部の沿岸。 南茅部町には86ヶ所もの遺跡があり、その大半が縄文であるにも関わらず、不思議なことに貝塚は一ヶ所も無い。恐らく、海岸の環境によるところが大きいのではないかと思われる。
この地帯の海岸は岩礁性の海岸が殆どであり、砂浜が少ないため生息する貝の種類が極端に少ないのである。大船C遺跡の調査でも、土坑の中から巻貝のブロックが発見されており、貝塚の形成されない理由が次第に明らかになりつつある。
貝塚が形成されないことにとり、遺跡から消されてしまうものがあるから気をつける必要がある。それは骨である。
ハマナス野遺跡では、竪穴住居の床面から4本のクジラの肋骨があたかも敷き詰められたように出土しており、又、大船C遺跡でも巻貝のブロックなどの中から、オットセイなどの海獣類や魚の骨が発見されている。
このことは、貝塚遺跡はないものの、この地域が伊達や虻田などの貝塚分布地帯と同じように、海産資源に大きく依存し他生業活動によって生活が営まれていたことを物語るのである。
貝塚の分布に関して「縄文海進・海退」の現象は重要である。地球規模で起こった温暖化現象による海水面の上昇とその後の寒冷化による海水面の降下である。
千歳市の美々貝塚は、この現象を説明する際に良く使われる遺跡である。
縄文前期初頭に形成されたこの貝塚は、現海岸線から約20kmの距離にある。つまり、当時はここまで海で、大きな浅瀬を形成し、ヤマトシジミやウネナシトマヤガイの生息地だったのである。
儀礼と祭祀の場としての貝塚
貝塚研究のもう一つの意義は、縄文人の宗教観の解明に大きく役立ってきたことである。
貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、アイヌ民族の「送り場」と同じ性格を持った神聖な祭祀の場でもある。
貝塚は遺骸を主体とするものだが、面白いのは動物骨の構成である。トド、アシカ、オットセイといった海獣類が多く、シカなどの陸獣骨が少ないのであるが、興味深いのは、むしろ、そうした遺存する骨の部位のバランスである。つまり、海獣とイヌの骨については、体の骨の量に比べ圧倒的に歯が多いのである。このことは、この貝塚から出土した道具とおおいに関係している。
興味深いのは、貝塚からは人骨も出土しているのだが、いずれも乳歯なのである。イヌについても乳歯が多数出土しているのである。
結局この貝塚は極めて儀礼的、祭祀的な性格を持っていることが理解できる。
特に、動物にしろ、人間にしろ、歯に非常にこだわっている点は見逃せない。イノシシやサメの歯など本州の動物儀礼体系が持ち込まれていることは古くから知られていたが、こうした北海道独自とも思える儀礼体系が存在していることを示す重要な事例といえよう。
伊達市の北黄金貝塚出土の刀の形をしたクジラ骨製のいわゆる「骨刀」は、実用品ではなく、祭祀のための道具とみてよいが、これは貝層中の厚い灰のブロックの中から出土したものである。
同様な例は戸井戸町の戸井戸貝塚にも認められた。この後期初頭の貝塚では、本州と同じような儀礼が持ち込まれていることがわかった。貝層中から、土器に入れられた多数のアワビが出土した。関東地方のこの時代には、土器に入れられた貝輪の出土例が少ない。
戸井戸貝塚ではアワビであったが、アワビは、この時代に北海道の太平洋沿岸では生息した形跡が無い。つまり、日本海沿岸から持ち込んだか、或いは、想像たくましくするなら、本州から持ち込んだ可能性だって否定できない。
この遺構の祭祀的な性格を指摘すると同時に、これがこの後に出現する環状土?の「盛り土」につながるのではないかと予測した。
つまり、環状土?も貝塚も、何かを盛り上げることに意義があるのだと言うことが見えてくるのである。
いずれにしても、「貝塚は縄文人のゴミ捨て場」という解釈は、まだまだ一般的であるようだ。
(大島 直行 伊達市教育委員会文化財課)
新北海道古代史―1 旧石器・縄文文化(野村 祟 宇田川 洋編)