「苫東遺跡を考える会」・ニナルカに原始の灯がともり!

 苫東遺跡を考える会・ニナルカに原始の灯がともり!

 時は価値を変える。

 かつてゴミにも等しいものが、10年、20年後には至宝と化すということは、我々の周辺に、枚挙に暇が無い程転がっている。

 勇払原野は、その典型といえよう。たんぼの畦や庭先の空き地にまで豆や菜っ葉を植えて育った私の目には、この荒涼とした大地が勿体無い空地としか写らなかったことを思い出す。

 そして今、開発で荒らされた原野の真っ只中から発見された我が国最古の環濠集落の保存に痩身を晒している。

 四千数百年も火山灰の中に埋もれていた貴重な文化遺産。この遺産を市民のロマンの里として保存できないものかと願わずにはいられない。

 価値あるものを保存するということは、やがて、掛け替えの無い創造へのステップになるだから。

 かねがね勇払原野の中に縄文時代の遺跡があるということは知っていたが(昭和3年頃、静川小学校のグラウンド造成が行われた時土器が出土しているし、遺跡発掘調査も行われている)、これほど大掛かりな遺跡が火山灰の下に眠っていようとは、知る由も無かっただけに驚きである。

  石油備蓄構想が急ピッチで進められつつあった時期1976(昭和51)年から開発優先順位に従って、基地内の埋蔵文化の発掘調査が行われ、1979(昭和54)年には、静川8遺跡から縄文早期の大集落が発見されている。「遺跡の宝庫次々に――大集落の発見の可能性――」(苫小牧民報のコラム)

 関係者の期待は大きかったが、何せ開発に追われていての行政発掘調査である。8月末には、調査地域を周辺に拡大するどころか予定地内さえ十分に調査する余裕も無く、調査完了後早々にブルドーザーのカタピラに踏みしだかれている。

 若し今後この原野からこの種の遺跡が発見されたら、現地保存すべく最善を尽くさなければならないという事であり、もう一つは勇払の野に生きた縄文人の生活をモチーフにした小説を書いてみたい。

  その後、静川8遺跡に匹敵するような遺跡の発見が無く、静川16遺跡が発見された1982(昭和57)年頃には、この願いも半ば色あせつつあった。

 その矢先。「遺跡の発掘作業が続けられている静川22遺跡で最近、夕方から火の玉が舞い上がるようになり、気味悪がる作業員やトラック運転手が最初に気付いて市教育委に「何としてくださいよ」と泣きつき、この話を聞いた発掘作業委員も動揺を隠せなくなってきた。

 人魂は、高圧線によるプラズマ状態で起こるとする説が最も有力だった。

その時、はからずも、北海道大学助教授の吉崎昌一氏「日本考古学会にとってもビッグニュースだ」(北海道新聞8月10日)と言わしめた我が国最古の環濠集落を含んだ静川16遺跡(約4,000年前)。

 日本には、古来様々な壕が掘られているが、大別すると防禦用の壕と生活の場と聖域・霊域を区別する為の壕の二つに分けることが出来る。

 前者に属するものに、城郭やアイヌのシャシの周りの壕、集落の周りの壕、及び都市の周りの壕等などがあり、後者に属するものに、墳墓や祭祀場の周りの壕がある。

 若し、静川から発見された環濠が我が国最古のものだとするなら、これらの壕のルーツであると考えられるが、果たして、何の為に構築されたのか。現在決め手になる遺物が出土していないのでその目的は定かでないが、今後の調査が進めば、どんな世界が開けるか、謎につつまれている縄文人の生活を解く一つのカギにもなりかねない貴重な遺跡である。

  しかし、このままで放置しておけば、前記静川8遺跡のようにブルドーザーのキャタビラに踏みしだかれることは目に見えていた。

 開発側に埋蔵文化財の発掘を厄介視する姿勢があったからだ。

 苫小牧民報は、1979(昭和54)年8月、静川8遺跡(キャタビラで潰された?)が発掘された当時、それを予想してこう報じている。

 「今回発掘された縄文早期住居跡群は、8月の調査終了と共に、石油備蓄基地として破壊されるが、今後発見される埋蔵文化財、遺構も開発の前に同じ運命をとるものと容易に推測される。調査が開発のペースに合わされて、追われる様に行政処理されていく現実についても再考されるべきではないか。かっての発掘調査は、地域の歴史を膚で感じることができる、生きた社会教育の場だったが、現実の発掘調査では、体験的な歴史教育の素材として生かしきれていないし、また、開発に追われる調査では出来るはずがない。

 苫東開発会社社長曰く「ガラスや瀬戸物の破片が出ればよいと思っていたが、数千年前の石器などが出てしまった」と今回の埋蔵文化財の発掘調査を評するほど、開発側が文化財に無理解であったということは、今後の調査に大きな問題を残しそうだ」

  しかし、こうした開発優先、文化財軽視の姿勢は、一人開発側の姿勢ではなかった。それは、同時に、玉虫色の夢を追う地域住民の共通した姿勢でもあったのである。

 「ブラックホール」の著者で知られているD女史が、「若し、今後このような遺跡が苫東から発見されたら保存運動を起こすつもりであるというようなことを言われるが、私はその時(静川8遺跡発見・壊された当時の話)、内心苫東に遺跡を残すなんてとんでもないことを言う人だと思いました」

 又、考える会発足直後の3月13日、

 S氏「これはまさに詩だ。やってもダメなことをやって居るんだからね!」

 M氏それに和して「しかし、国家とたたかっているんだから、たいしたものだよ!」

  こうした考えが市民の大半を占め、私のような考えは、極く特殊な考えだったのである。

  私の身辺にさえ、こんなことをして何になるんだと疑心暗鬼に駆られながら運動に参加していた人さえいたのである。

 私が己の力も顧みず、環濠集落遺跡の現実保存運動を起こすことを決意した時、いの一番に考えたのは、こうした状況にどう対処していくかという事である。

  いの一番に手がけたのが、環濠集落遺跡に対する市民の認識を広めることであった。

  その頃、市民の大半が、苫小牧にはせいぜいあっても百年の歴史しかないと考えていた。

  その為に開催したのが佐藤一夫氏(当時、苫小牧埋蔵文化財センター調査部長、その後、苫小牧市立博物館長)の講演会であった。しかし、この講演会は、年の瀬も迫った12月8日に、苫小牧市文化会館で開かれたものであったが、私たちのPR不足もあって肝心の市民の出席が少なく、大半が関係者あ(主催者である私たちの他、埋文センター関係者と新聞記者)であった。

 だが、私たちにとっては、実に有意義な講演会であった。というのは、この話で、この遺跡は学問的に貴重で、保存に値する遺跡であるという更なる確信を深めることが出来たからである。

 (「苫東遺跡を考える会」会長 須貝光夫 抜粋)