勇払原野・ニナルカと「マスタープラン」

  勇払原野と「マスタープラン」

  ニナルカの原始にロマンの灯がともり!

  沖積世初期、(羊蹄山=北海道西南部随一の高さを誇る円錐形の死火山。生成は洪積世末期から沖積世初期(約一万年前)といわれている。山麓ではミズナラ、イタヤカエデなどの広葉樹林、標高1200m付近まではトドマツ、エゾマツなどの針葉樹林、さらに上部にはハイマツ帯がつづく。ハイマツ帯は高山植物の宝庫でもあり、山頂付近ではキバナシャクナゲ、ミヤマエンレイソウ、コケモモなどが群落をつくっている。)        北海道の胴体と渡島半島部を浅海で切り離していた低地帯(札幌〜苫小牧低地帯)の南部、面積約1,883uキロメートル。この地帯を低湿な泥炭地を多く含んでいることから勇払原野といっている。

  この地の土地利用状況を見てみると、山林が50,7%、原野が8,7%、畑地が7,1%、池沼地が5,6%、田地4,2%、宅地3,2%、その他14,8%となり、山林原野が全体の59,4%と大半を占めている。  これに対して、耕地(田畑地)は11,3%と少ないが、その理由は原野が樽前山や恵庭岳などの火山活動で降り積もった火山灰に覆われているだけでなしに、海霧による夏季の冷涼な気候が災いして開拓が遅れたからである。

  道内では札幌につぐ工業都市。1910(明治43)に豊かな水と森林資源を背景に、王子製紙が操業をはじめて以来、紙やパルプ工業を中心に発展してきた。掘り込み港として建設されていた苫小牧港の利用が63(昭和38)に開始されると、アルミ、石油精製、電力、化学などの工場が進出し、北海道の中心工業都市として着実に進展してきた。

また、未開であった東部の勇払原野では、国家プロジェクトとして苫東(とまとう)工業地域が開発されている。平坦地で用水が豊富なうえ、新千歳空港から15kmというめぐまれた立地条件にあり、火力発電所、石油備蓄基地、各種工場が進出している。1984年と92(平成4)にいすゞ自動車とトヨタ自動車が進出して、自動車の町としても成長している。1989年には道央テクノポリスに指定された。

 この地に大規模な臨海工業都市を建設しようとする試みは戦前から行われているが、そのきっかけとなったのは、1924(大正13)年、道庁の技師であった林千秋が発表した「勇払築港論」である。この計画がその後、道庁土木部によって「勇払工業港修築計画」が策定され、現地調査まで進められたが、生憎、太平洋戦争の進展に伴って挫折している。

 この計画が再燃したのは、1951(昭和26)年である。「苫小牧港修築計画案」に基づき、港湾建設が着工され、その翌年には、我が国初の掘り込み式工業港修築が着工されている。

掘り込み式港湾 ほりこみしきこうわん 海岸の砂丘地帯をほりこんでつくった人工港。苫小牧港、鹿島港、新潟東港、仙台新港など。第2次世界大戦後、土木技術の進歩で建設できるようになり、新興の臨海工業地域の発展にはたしている役割は大きい。

 この計画は、更に、北海道初の第三セクター方式の企業である「苫小牧港開発」の設立(1958)によって具体化され、高度経済成長のピーク期の1971(昭和46)年8月には、道開発庁が中心になって、「苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画」が策定されている。

 これは前年7月に閣議決定した「第三期北海道総合開発計画」に基づいて策定されたものだが、一般にマスタープランと言われ、北海道の「長期的かつ飛躍的な発展の起動力となると共に、我が国における国土の有効利用と経済の発展に大きく寄与する国家的プロジェクト」として、工業誘致しょうとするものであった。

 このプロジェクトは、この大規模開発計画が国民の心を浮き立たせた田中列島改造ブームの中で組み込まれた国家的プロジェクトであったことから、地域住民に玉虫色の夢をもたらしたが、しかし、反面、この開発計画が策定された直後、高度経済成長に翳りが見え始め、日本の産業構造がそれまでの重厚長大型産業から軽薄短小型産業へと大きく転換して行った事から、以後の苫小牧は変節する日本経済の後追いをするという、苦難と屈辱の歴史を歩まざるを得なかったのである。

 こうした苦難と屈辱の歴史に花を副えたのが、1982(昭和57)夏、この基地内から発見された静川16遺跡(昭和62年正月「静川遺跡」の名称で、国の重要文化財に指定された)であった。

 この遺跡は、苫東を縦断して流れている安平川の川沿いに舌状型に突起した海抜約20mの台地に形成されたもので、出土した余市式土器から判断して、縄文中期(約四千数百年前)のものだとされている。

 この貴重な国民的文化遺産を史跡公園として現地に保存すべく、「苫東遺跡を考える会」が結成されたのは、1983(昭和58)正月であった。

 保存運動の高まりの中で、環濠問題検討委員会が、静川16遺跡は、用地取得や管理に多くの費用が掛かるだけでなしに、市街地から遠く、観光地に不適であるとして、現地保存は困難であるという中間報告を発表したり、備蓄基地建設工事が遅滞を余儀なくされたとき、石油備蓄基地促進の陳情を行うなど、一時は、予断を許さぬ情勢にさらされたこともあったのである。

 この時期指定を受けたのは、静川16遺跡のみで、この遺跡と深い関わりのある周辺の遺跡、とりわけ、静川16遺跡と同時期の住居跡が22基発見された静川25遺跡や縄文早期の大貝塚が発見された静川22遺跡が保存の対象から外されていたのである。 これでは、我々が保存の中で掲げた三つの条件@ 学問的価値、A 教育的価値、B 地域に生かせる文化財としての価値、が損なわれかねないということで、引き続き静川遺跡周辺丘陵地帯の緑地帯化保存の陳情を苫小牧市議会に提出したのである。

 この運動も、当初、関係者の中に、学問的価値が薄く、且つ既に記録保存をしているということで拒絶する人が多かった。

 ニナルカに原始ロマンの灯がともり!

アイヌ語で川沿いの台地(ニナル)の上(カ)の意で、静川の旧地名。

(苫東遺跡を考える会・須貝光夫 抜粋と追加)