静川遺跡と弥生時代の環濠

 静川遺跡と弥生時代の環濠

  昭和55年の石油備蓄基地建設予定地内の分布調査によって発見されている。

 発見時には静川16遺跡とされていたが、調査後、国の史跡指定に伴い昭和61年に「静川遺跡」と名称を変更している。

 遺跡は安平川を望む北西に突き出た台地先端に位置し、東西に二股に分かれた東側をA地区、西側をB地区とした。

  両地区を合わせ229基の遺構が検出され、18万点を超える遺物が出土している。

 遺構は全て縄文時代の所産であり縄文早期はA地区で東釧路W式土器が出土している。(縄文早期末)

A地区からは環濠1基、住居跡2基、落とし穴19基、土坑18基、焼土跡56基、集石4ヶ所の計100基。

B地区から住居跡34基、土坑墓1基、落とし穴22基、土坑18基、焼土跡54基の計129基を検出した。

遺物は縄文早期〜擦文時代の各時期のものがみられ、A地区からは晩期前葉のものを主体に約七万六千点、B地区からは中期末葉のものを主体に約十一万点出土している。

縄文中期は中葉までの資料は少なく、主体をなすのは末葉の北筒式・余市式に相当する遺構・遺物である。これらはB地区で多く検出され、33基の住居跡や土坑・焼土跡の多くがこの期のものとみなされる。(余市式土器は縄文中期ないしは後期初頭)

余市式の頃にはA地区に環濠が出現する。環濠は北西に突き出た舌状部に先端の急斜面を除き、長さ139m、深さ平均1mの壕を巡らせるもので、南・北東の二箇所に幅1m弱の「出入り口」を有している。「ひょうたん形」に区画された内部の面積は約1,600uあり、台地先端には同時期の所産と考えられる住居跡が2基検出されている。

同時期の住居跡は、近接する静川25遺跡で10基確認され、B地区を含め20基を越える住居跡がその周辺に立地し、これらが環濠の構築に関わったものであることは想像に難くないところである。

環濠については、発見以来、多くの研究者によって縄文社会の様相について触れる際に紹介されているが、多くはマツリや儀式の場、祭祀・儀礼などに関連する非日常的な施設と考えられている。

内部に2基の住居跡しかなく、又、時期は若干古くなるが、中期中葉頃の環濠が発見された千歳市丸子山遺跡でも内部に同時期の遺構は無いとされており、弥生時代の防御的性格を有する環濠とは異なった機能を有するものであったと考えられる。

 環濠が「マツリ」にかかわる施設として機能したすれば、内部にある2基の住居跡はその「マツリ」に関連する建物と見てよいであろう。

2基ということから双方原理が働いていた可能性も指摘されている。二つ有る出入り口も暗示的といえる。

環濠集落 かんごうしゅうらく まわりを濠(ほり)でかこんだ集落。弥生時代に九州から関東の各地でみられ、中世では町村の自治や防衛のため幅45mの環濠でかこむ集落が畿内を中心にでてくる。同様の環濠集落は日本だけでなく、ヨーロッパでもみられる。古代都市のバビロンなどもその例である。

弥生時代では、周囲すべてに環濠をつくるものと、台地上に集落があるとき台地先端の付け根部を横断するように溝や濠をつくるものなどがある。大規模な環濠集落としては、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡が知られ、ともに何重もの環濠をめぐらせ、内部の面積は2540haにもなる。一般に環濠の断面はV字かU字形で、深さは23m、上幅が24mもあった。濠底には愛知県の朝日遺跡にみられるように逆茂木(さかもぎ)が設置されていたものもあり、環濠内側には土塁(どるい)や板塀など防御施設も完備していた。環濠の目的は対外防御、防衛がおもだが、村落内の精神的連帯感を強める面もあった。環濠集落がつくられた時期が、古代では弥生中〜後期に集中していることから「魏志倭人伝」にある「倭国乱れ」や、「後漢書(ごかんじょ)」東夷伝にある「倭国大乱」の記述の考古学的証拠とみる意見が強い。

空からみた吉野ヶ里歴史公園

環濠(かんごう)にかこまれたふたつの地点がみえる。手前が北内郭(きたないかく)で、奥が南内郭。北内郭の中にみえる大きな建物は、指導者たちが重要な話し合いをしたり、儀式をしたところ。Encarta Encyclopedia佐賀県教育委員会提供

佐原真 さはらまこと 19322002 考古学者。専門は弥生時代。それ以前の旧石器〜縄文時代や海外の考古学・人類学などの研究にもくわしく、「だれにでも理解できる考古学」を提唱した。

大阪市に生まれる。少年時代から遺跡や遺物に興味をもち、1957(昭和32)に大阪外国語大学ドイツ語学科を卒業後、京都大学大学院で考古学をまなんだ。64年に奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)に入り、弥生土器や銅鐸など遺物を中心に弥生文化の研究をおこなった。とくに銅鐸上部の鈕(ちゅう:つり手)に着目してその新旧を明らかにし、新しい銅鐸の編年体系をつくったことで知られる。

同研究所埋蔵文化財センター長をつとめたあと、1993(平成5)に国立歴史民俗博物館の副館長となり、97年から2001年まで館長をつとめた。近年は、現代と古代とのかかわりや、世界の文化を日本文化の理解に役だてようとする比較文化的な方向に関心をしめし、該博(がいはく)な知識をもとに、銅鐸や土器などにえがかれた絵画の意味を読み解いたり、食器、戦争、環境、ジェンダーなどの分野で独自の論を展開、その研究領域の広さは並はずれていた。江上波夫による、有名な騎馬民族征服王朝説(略して騎馬民族説:→騎馬遊牧民の「騎馬民族説について」)には、否定の立場をとった。

著作や講演会では、「考古学は、現在をよりよく理解するためのもの」との考えから、考古学の成果をもとに現代的な問題も熱くかたった。専門的な内容をやさしい言葉で解説する軽妙な語り口は、考古学の研究者をめざす若い学生たちだけでなく、一般の人々にも人気があった。遺跡や文化財の保存にも力をつくし、吉野ヶ里遺跡、荒神谷遺跡、妻木晩田遺跡などの保存活用に貢献している。
おもな著書に、「銅鐸」(「日本の原始美術」71979)、「騎馬民族は来なかった」(1993)、「斧(おの)の文化史」(1994)、「銅鐸の考古学」(2002)などがあり、共同監修に「考古学の世界」(5巻。1993)、共同編集に「発掘を科学する」(1994)や「日本考古学事典」(2002)がある。

縄文中期から後期にかけて次第に気候が冷涼化に向かい、食料資源の減少を促し、集団の移動も余儀なくされるような状況が出現し始めたものと思われる。

そのために気候の回復を願い、豊饒を祈る「マツリ」が計画されたのではないだろうか。

ある場所を壕で区画するという行為は、日常的な生活空間とは画然と区別された空間(聖地)の創出であり、それを共通に認識し、そのような大規模な土木工事を遂行する精神的な影響力が出現し得るだけの成熟した社会がその背景にあったものと思われる。この後、後期に入り「環状列石」や「周提墓」といった新たな空間の創出が見られるようになる。

B地区では石銛が多量に出土し、この期の特色を現すと共に、環濠の構築に関連しそうな石斧・砥石(トイシ)などが多く出土している。又、石製の飾り玉が19点と苫東遺跡群の中期の遺跡としては最大の保有量を持ち、特殊なものとして石冠の出土が注目される。

環濠と相前後する時期の所産と考えられる落とし穴がA・B地区合わせて41基確認されている。(中略)

静川遺跡の調査結果を時代ごとに見てみたが、縄文早期末葉にA地区で利用が開始される。その後、中期後葉にB地区に集落が形成され始め、末葉にはA地区に大規模土木工事である環濠が出現する。

これと相前後する時期に落とし穴が構築されるが、環濠との関連を考慮するとA地区の落とし穴は余市式よりも古く位置付けられる可能性がある。

余市式

函館や渡島の貝塚のほとんどは畑などに貝殻が露出していたもので、共通する時代や文化があったのではないかと考えられる。遺物包含層に貝層がある場合を除くと、縄文時代中期後半から後期の初めに広範囲に貝塚が形成されている。貝塚から出土する土器には、余市式土器と呼ばれる形式のものが含まれている。余市式土器は、余市の大谷地貝塚から出土した土器が標式となっており、下層と上層から出土した土器がある。時期的には円筒上層式土器の次に編年される。器形は円筒形の深鉢土器で、口縁部に粘土紐を帯状に口縁に並行させたり、更に上部から下部に垂直に貼付して縄や竹管で粘土紐を飾っている。これらに伴う土器で粘土紐がなく、地文に単節の斜行縄文を施し、その上に口縁に平行する縄を押圧したり、沈線で曲線的文様を付けたものなどがある。この土器形式を細分すると余市式土器と呼ばれている形式にも編年関係がある。

 (東釧路W式土器は縄文時代早期末、余市式土器は中期末まいしは後期初頭と考えられています。
余市については、中期か後期かを巡り、道内の研究者間で捉え方に違いが見られます。全体的傾向としては後期初頭とする研究者が多いようです。 苫小牧博物館 主任学芸委員赤石 慎三氏)