縄文時代の環濠

静川遺跡・A地区の遺構と遺物

  静川遺跡・A地区の遺構・遺物について!

  A地区から100基の遺構と約76,000点の遺物が出土している。

  1 遺構について

  環濠

  遺構の中では縄文中期末葉の構築と考える環濠が注目される。

  環濠は北西に突き出た台地舌状部「ひようたん形」に区画するように検出されている。

  壕は台地先端の崖状の急斜面を除き、総延長139mにわたって確認され、区画された内部の面積は約1,590uである。 壕には北東・北西・南の3ヶ所に掘り残し部があり、北東と南の2ヶ所は幅1m弱で、出入り口(渡り口)と考えられる。

 北西の1ヶ所は30cmと幅が狭い。壕は上幅2〜3m前後、下幅で3050cmV字ないしU字状をなし、深さは深い所で1,8m、浅い所で80m、平均的な深さは1mである。

  環濠内には台地の先端部寄りで同時期の所産と考えられる住居跡が2基検出されている。

   

  2基とも内部に炉を持たないもので、ほぼ同じ頃の静川25遺跡や隣接するB地区で検出された住居跡の多くが内部に炉を有するのと違いを見せている。

  これら2基の住居跡が環濠と同時に使用されていたとすれば、炉を持たないことは日常的な生活利用とは異なっていたことが想定され、環濠の機能と密接な関連を持っていたものと思われる。

  環濠の機能に関しては、弥生時代の環濠(壕)集落が防御的機能を有していたと考えられるのに対し、本遺跡の場合、住居跡が2基と極端に少ないことなどから、「マツリや儀式の場としての役割」(林氏)「公共的な行事、祭祀、儀礼など」(小林氏)非日常的な施設と考えられている。(野村、岡村、大島、小杉各氏など)。

  又、2基の住居跡は「マツリの進行に関わる人々が準備を整えるためのもの」(林氏、前掲氏)或いは「公共的、社会的なハレの行事に関わった建物」(林氏、前掲氏)に見られるように、環濠と関連した施設と考えられている。更に、2基ということから「二つの対立的な集団が、一組となって特定の目的を全うするもの」(林氏、前掲氏)といった双分制の原理が働いたと考える研究者もいる。(富樫氏)

  1号住宅跡は堆積状況の観察から土葺き屋根であった可能性があり、様相の異なる2基が隣接して建てられていたと考えられ、2組の集団を象徴しているようにも見える。

  2ヶ所の出入り口は位置的に北東側のものは住宅跡へ、南側は環濠への出入り口と考えられるが、それぞれ異なる集団の出入り口であった可能性もある。


  時期はやや古くなるが、縄文時代中期の環濠が発見された千歳市丸子山遺跡でもマツリの場とされ、これらの環濠については日常生活とは異なる聖域としての機能を持っていたと考えられる。

  丸子山遺跡の場合、環濠内に同時期と考えられる遺構は無いとされ、周辺にも同時期の集落は確認されていないが、静川遺跡の場合は隣接するB地区や静川25遺跡で同時期の集落が確認されており、そこに居住する人々によって構築された可能性が考えられる。

  何故、縄文中期に環濠が千歳・苫小牧地方に出現したのか、このような大規模土木工事が計画・立案された背景、それを成し遂げるだけの計画性やそれを支えた精神性など、不明な部分はあるとはいえ当時の社会を解明する上で貴重な資料を提供しているといえる。

  苫東遺跡群では遺跡数が減少する。遺物も断片的であり、遺構も殆ど見られない状況もあり、集団の移動といったことも想定される。

  その背景として、気候の冷涼化に伴う生活環境の変化が考えられる。環境の悪化は自然に依存する当時としては生産性の低下につながり、集団の維持にも次第に悪影響を及ぼし始めたものと思われる。

  それを打開するために豊饒を祈るマツリが計画され、環境が構築されるのではないだろうか。それも最終的には放棄され、集団の移動を余儀なくされたものと想定される。

 検出された遺構・遺物

 A地区からは環濠1基、住居跡2基、落とし穴19基、土坑18基、焼土跡56基、集石4ヶ所の計100基。

B地区から住居跡34基、土坑墓1基、落とし穴22基、土坑18基、焼土跡54基の計129基を検出した。

遺物は縄文早期〜擦文時代の各時期のものがみられ、A地区からは晩期前葉のものを主体に約七万六千点、B地区からは中期末葉のものを主体に約十一万点出土している。

縄文中期は中葉までの資料は少なく、主体をなすのは末葉の北筒式・余市式に相当する遺構・遺物である。これらはB地区で多く検出され、33基の住居跡や土坑・焼土跡の多くがこの期のものとみなされる。(余市式土器は縄文中期ないしは後期初頭)

柏原16遺跡では縄文晩期の土坑墓2基、土坑334基、焼土跡70基のほか、落とし穴10基が検出され、晩期中葉の土器を主体に54,0001点の遺物が出土している。

 土坑墓の内1基の抗底からは焼土と炭化材が確認され、火を使った儀礼の可能性が指摘されている。

 柏原18遺跡では住居跡6基、土坑墓24基や土坑212基、焼土跡53、現代の塹壕跡2基などの遺構が検出され、晩期中葉の土器を主体に、前期〜晩期・続縄文・擦文時代の遺物が十二万五千点ほど出土している。

 住居跡は縄文前・中期の所産と考えられるもので、中にベンチ状構造をもつものや長軸推定16mという大形集居跡などが見られる。