オホーツク文化

 オホーツク文化・もう一つの日本列島史(宇田川 洋)

 オホーツク海に面した古代文化

 「もう一つの日本列島史」と言われて不思議に思う人がいるであろう。

日本列島に住む人々は「単一民族」であるとの発言が相変わらず続いている。

そのことは、北海道という地を理解していないことに通じる。


 

 ところで、この北海道の東北部に面するオホーツク海は大きな湖であると言える。北海道・サハリン(樺太)・シベリア大陸東部沿岸地域・カムチャッカ半島・クリール諸島(千島列島)で囲まれた大きな湖のようなものである。

 冬の厳寒期には流氷が大半を埋め尽くすところもある。そして、それを中心とした周辺地域での古代文化の展開があったことが考古学調査で証明されており、「環オホーツク海文化」或いは「環オホーツク海古代文化」などと呼ばれる文化圏の設定もなされている。

 又、一方では、北海道という大きな島を中心とした周辺部の古代文化の展開もある。それらの考古学のことを興味をもっていた武四郎といえども詳しくは知らなかったと思われるが、そこに住む日本人とは言語も異なるアイヌ族の生活から、蝦夷地には異質な文化がこの日本にあることを熟知していたのである。

 このような「もう一つの日本列島史」がこの北海道そしてオホーツク海をめぐる地域に展開していたことは、多くの日本人は殆ど知らないのである。


    もう一つの日本文化

  北海道の歴史区分を行う場合には幾つかの方法が存在する。例えば、和人史ともいえる日本史からの観点、主に開拓史の北海道史からの観点、アイヌ自身のアイヌ史からの観点、そして考古学からの観点の考古学史などである。

 考古学上の時代区分として


  北海道における考古学の時代区分は、本州以南とは別に考えなければならないという議論があるが、日本の原風景は日本列島が固有に持っていたものではなく、大陸から渡来した稲作農耕文化の受け入れによって展開したものであることを指摘している。即ち弥生文化である。即ち、弥生文化である。

それが本州・九州・四国に広がり、今日の日本文化の根幹を形成したのであるという。その文化を「中の文化」という表現をしている。

 そして、沖縄県を中心とする南島に見られる「南の文化」は又別の歩みをし、北海道を中心とする「北の文化」もまた独自の歴史を刻んできたのである。

 凡そ、二千年ほど前の稲作農耕文化の受け入れによって、日本列島には三つの列島史が展開することになるのである。

  長い旧石器時代と縄文時代が終わり、「中の文化」地帯は弥生時代に入り、稲作農耕文化を急速に展開させたが、北海道の地は寒冷地である故に稲作は上陸できなかった。

 そして縄文時代と同様の狩猟・漁労・採集の経済段階が続くことになるのである。それを「続縄文文化」の時代と呼んでいる。

 本州以南では縄文時代が終わった後は鉄器時代に入ったのに対し、「北の文化」地帯は石器の使用が続いたとされている。土器に縄文を施すという縄文時代からの伝統もこの続縄文土器まで残っていることが指摘されている。

 この続縄文文化は鉄器と石器を併用する文化(鉄石併用文化)であり、石器組成も変化を見せ、生業方法の変化や生活形態の変容があることから、やはり続縄文文化として独立させたほうが良いと考える。

 年代的には凡そ二千二百年前から七世紀頃までとしてよいだろう。そのスタートは「中の文化」地帯の弥生時代の始まり頃と同じと考えてよいのであるが、そのことが「北の文化」地帯の独自の歩みを物語っているのである。

 この続縄文文化に続くのは「擦文文化」と呼ばれるものである。本州の古墳時代から奈良・平安時代の土師器文化の影響を受けて、続縄文文化が発展変容したものであるが、「北の文化」地帯特有の展開を見せた文化である。

 八世紀頃から始まり十二〜十三世紀頃まで続いたが、その広がりはいわゆる蝦夷地とほぼ重なり、南樺太・北海道・南千島(国後島・択捉島)そして東北地方北部に分布している。

 その文化を残した人たちはアイヌの直接の祖先と考えられており、ここにも「北の文化」地帯のもう一つの日本列島史の存在を確認することができるわけである。

 その頃、樺太或いはアムール河下流域に原郷土をもつ別の文化が六世紀頃に北海道に上陸し、新たな展開を見せて北海道オホーツク海沿岸部に定着する。

これが「オホーツク文化」であり、十世紀頃まで全く異なる文化の花を咲かせるのである。

 その後、このオホーツク文化は擦文文化の中に一部は吸収される形で「トビニタイ文化」を形成し、やがて消えていくのであるが、擦文文化の後は、考古学上の「アイヌ文化」の時代に代わっていく。

 「中の文化」地帯の「中世」から「近世」にほぼ相当する頃であるが、宇田川は十四世紀〜十八世紀段階を「原アイヌ文化」と呼び、十九世紀以降を「新アイヌ文化」と称している。

 このように、縄文文化の終焉後、続縄文、擦文・オホーツク文化とし、「中の文化」地帯とは異なる独自の「北の文化」の変遷があり、もう一つの日本文化の歴史があるのである。

   オホーツク文化

  オホーツク人は、サハリン。北海道・クルール列島のオホーツク海沿岸に主に居住していた人たちであるが、その居住圏を見てもわかるように海岸部にのみ生活している。

 それは、即ち、オホーツク海を生活の舞台として海獣狩猟を主に行っていた海洋民であったことを証明しているのである。

 オホーツク文化前期の竪穴住居を残す集落は、利尻・礼文島などの北海道北西部地域から枝幸町付近までのオホーツク海北部地域に多く、紋別市付近から網走市付近のオホーツク海南部地域にかけては点在するに過ぎず、それより東のオホーツク海東部地域では激減するとしている。

 オホーツク文化後期の段階では、北海道北西部地域やオホーツク海北部地域には集落があまり存在せず、枝幸町目梨泊(めなしどまり)遺跡より南東部の地域に集落が形成され、特にオホーツク海南部と東部地域の沿岸部に集落が集中しているとされる。

 このことは、オホーツク文化のルーツがサハリンなどの北方域に存在したことを裏付けるもので、北海道のオホーツク海沿岸を下ってきた足跡を追求できるのである。

 オホーツク前期と比較して後期段階ではより大きな湖沼が存在する地域に遺跡が形成される傾向が認められる。例えば、サロマ湖と網走湖に挟まれる地域には常呂町栄浦第二遺跡や常呂川河口遺跡、トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点など代表的な遺跡が立地し、能取湖と網走湖に挟まれた地域に網走市モヨロ貝塚が存在している。

 根室市トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡やオンネモト遺跡などが立地している。

枝幸町目梨泊遺跡         

 

 オホーツク文化の遺跡の中でも好立地を示す。遺跡の北側には断崖絶壁の神威岬(かむいざき)、その陰に小さな入江の奥地の段丘上に遺跡が乗っている。

遺跡には天然の良港ともいえる立地条件の場所にある。

 他のオホーツク文化の遺跡と比較して、この遺跡から出土する数々の大陸系遺物や和産物は、類例の少ない逸品が多いということもできる。

 オホーツク文化の集団は舟着場として適した場所や環境を意図的に選択し、特に後期になると大型船の停泊場所としての立地条件を考慮してたことが窺えるという。古代遺物からも大型船の存在は証明されている。

 このように、オホーツク人は海岸沿いに集落を構えていたわけであるが、他の時代とは全く異なる特徴のある竪穴住居を作っていたことが分かっている。例えば、大型で五角形ないし六角形のプランをもっている。その系統はやはり北方諸族の竪穴に求めざるを得ない。「環オホーツク海古代文化」の一環で考えることによって理解できるところである。