ここでいう「クマ祀り」とは
オホーツク文化の竪穴住居社内に見られる祭壇としての骨塚には、多くの場合、クマの頭骨その他を祀ってあることで有名である。
それは、他の時代の竪穴には決して見られない特別な習慣であり、それがクマの霊魂(あるいは霊的存在)を天の世界に送り返す儀礼と結びつき、さらに、後のアイヌ社会に普遍的な動物の「送り儀礼」(オプニレ=opunire送り届ける。ホプニレ=hopunire〜を起き上がらせる。"山で捕った動物"を神の国に送る)、そして究極的には、飼育した仔グマやシマフクロウを送る狭義のイオマンテ(iomante=物・それを送る)に継承されていく動物儀礼であるとしばしば指摘されているのである。
アイヌの飼い熊送りの儀式 アイヌの飼い熊送りの儀式(イオマンテ)は、神々の国からつかわされた熊神を歓待してふたたび神の国におくる神送りの儀式である。熊神への供え物を用意して一定期間飼育した熊を檻(おり)から出し、歓待の円舞を舞う。その後、熊に仮装していた神が霊魂となって神の国にかえれるように熊を解体して祈り詞をささげる。ここでは、飼育して大きくなった熊を檻からひきだしているところが描かれている。(秦檍麿「蝦夷島奇観」より)東京国立博物館所蔵 (アイヌ アイヌ文化)
仔グマ飼育型クマ送り(イオマンテ)はいつから
広く北部ユーラシアから北アメリカに至る北方地域における北方諸族の問では、山猟でクマをしとめた場合にその場で解体し、頭骨をはじめとする骨をその場で天の世界に送り返す儀礼を行っている。
これは「オプニレ型」と呼ばれる動物儀礼である。これに対して「オマンテ型」とされる儀礼は「仔グマ飼育型クマ送り」を指し、きわめて特殊なもので厳格な規律の中で行われる最高のスタイルの儀礼とされる。
母グマは冬ごもり中に仔グマを出産する。アイヌの人たちは、春先にその母グマを殺し、山でその送りを行い、仔グマを集落に連れ帰るのである。
北海道の場合はその仔グマが二歳になった冬に―樺太(サハリン)の場合は三歳まで育てることがあるというが―、それを殺して送りを行うのである。それが「仔グマ飼育型クマ送り」であり、一般的にいうイオマンテ(イヨマンテ)である。
このような特殊な狭義のイオマンテと同じオマンテ型の送り儀礼は、 北海道アイヌ・樺太アイヌ・ニヴフ(ギリャーク)・ナナイ(ゴルド)・オロチ(自称ナーヌィ)・ウィルタ(オロッコ)・ネギダル(自称エルカンヴェイェニン)・ウリチ(オルチャ)といったアムール川の中〜下流域とサハリン・北海道という限定された地域で行われていることが知られている(図1)。
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図1 仔グマ飼育型クマ送りの広がり |
動物の送り儀礼の条件と動物意匠遺物
時代を問わず動物の霊的存在を天上界に送り返す儀礼行為の認定条件は、(1)頭蓋骨の存在。(2)特定部位の集中。(3)限定種の集中。(4)頭骨の穿孔や焼骨の痕跡。(5)配列の痕跡。(6)遺構からの出土。(7)祭祀用具との共伴。(8)伝承・文献・地名に残る場所での出土。が挙げられることになるが、これらのうちの一つでもその認定条件になると考える。
北海道においては縄文時代から動物送りを行ってきた証拠が出ている。
そのもっとも著名なものは、釧路市東釧路貝塚の縄文前期のイルカの頭骨を放射状に配置した例である。
クマに関する縄文時代の明確な送り儀礼は未検出であるが、縄文晩期ないし続縄文文化の例として斜里町尾河台地遺跡四二号竪穴上層のものがある。石組みの中にクマの中手骨や中足骨などが数十片あり、焼けていたという。
擦文時代にはその末期の段階で羅臼町オタフク岩洞窟遺跡でクマ頭骨の集中がみられ、やはり山猟で得たクマの送り儀礼の存在を確認できる。
しかし、まだその一例のみであるということはどう解釈したらよいのであろうか。しかもその遺跡は擦文文化圏外に位置しているという問題も含んでいる。
擦文人のマタギ的クマ狩り行動を表しているのであろうか。
別に、擦文時代にはクマ以外で明らかな動物送りの証拠がある。それは奥尻島青苗貝塚出土のニッポンアシカの頭骨七個体であり、しかも頭部穿孔が認められるのである。雄の個体で右側が穿孔されているが、それはアイヌのクマの一般的な頭部穿孔とは雄雌が逆になっている。
擦文時代は動物意匠遺物が他の時代と比較してほとんど見つかっていないという事実があるが、どのような形で動物儀礼を行っていたのかはまだ不可解な部分が多く残されている。
オホーツク文化においては、周知のように竪穴住居坑内での骨塚があり、多くはクマを祭壇状に飾っているので間違いなくクマ送り儀礼を伴っている。「クマ祀り」を行っていたのであろう。また最近の報道によれば、オホーツク文化の遺跡出土の一五〇点のクロテンの頭部に穿孔が認められるのが約四十点あるという。事実とすれば、かなりきちんとしたクロテン送り儀礼が存在したことになる。
そして、オホーツク文化の場合にはクマを表現した動物意匠遺物が数多く出土している。
常呂町などで出土しているそのいくつかを紹介してみよう。
写真67(写真67 クマ頭部角器
常呂町栄浦第二遺跡 7号竪穴 高16.8cm 東京大学常呂実習施設蔵) は栄浦第二遺跡七号竪穴出土のクマ頭部角器(鹿角製)である。
権威の象徴としての指揮棒のような道具であったのかも知れない。同種のものは常呂町常呂川河口遺跡十五号竪穴でも出土している。
同じく鹿角製(68写真68 クマ頭部角器
常呂町常呂川河口遺跡 15号竪穴 残存長10.9cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵)。69写真69 クマ骨偶
常呂町トコロチャシ跡遺跡 1号竪穴 長5.4cm 東京大学常呂実習施設蔵) はトコロチャシ跡遺跡一号竪穴出土のクマ全身骨偶(トド骨製)である。
腹部に刻みが見られ、アイヌのイオマンテの際にクマに着せる晴れ着を表現していると考えられる。
70写真70 クマ頭部骨偶
常呂町常呂川河口遺跡 15号竪穴 残存長3.0cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵) は常呂川河口遺跡十五号竪穴出土のクマ頭部の骨偶である。
71写真71 クマ頭部角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡 オホーツク地点 7号竪穴 残存長2.7cm 東京大学常呂実習施設蔵) はトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号竪穴出土のクマ頭部角器で、顔の表現がリアルに可愛らしく表現されている。
70に酷似するがやや小型である。参考資料として挙げたものは、クマ頭部を表現した砂岩製のものである。
72写真72 クマ角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 8号竪穴 長3.5cm 東京大学常呂実習施設蔵) はトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点八号竪穴出土の小型のクマ上半身角器である。首に縄が巻かれており、そこから紐で繋がれた様子が背中に表現されている。
仔グマを繋いでいることを表していると考えられ、 やはり「クマ祀り」儀礼の存在を示す好例である。
73
写真73 クマ角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 8号竪穴 残存長6.4cm 東京大学常呂実習施設蔵
も72と同じ竪穴から出土したクマ全身のレリーフである(鹿角製)。
クマの下には他の動物の一部がレリーフされているが、破損しており不明である。他に礼文町などからはモウカザメの吻骨から作られたクマの座像がかなり出土している。74は香深井A遺跡出土のものである。
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参考 クマ頭部(砂岩製) |
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写真74 クマ座像骨偶 |
オホーツク人が動物信仰を重視していたことは、他の動物意匠遺物からも明白である。
写真75写真75 アザラシ頭部(土製品)
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 7号竪穴 残存長5.7cm 東京大学常呂実習施設蔵) は海獣のアザラシ頭部を表現した土製品でトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号竪穴出土である。
76写真76 オットセイ(骨製垂飾品)
常呂町常呂川河口遺跡 15号竪穴 長4.7cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵) は常呂川河口遺跡十五号竪穴出土でオットセイの上半身を表現した骨製垂飾品である。
そして注目すべきものは78のラッコの全身像の牙偶である。同竪穴出土。クマの犬歯製であるが、両腕とお腹のしわの表現は実にリアルである。
79はラッコと思われる頭部角器でトコロチャシ跡オホーツク地点七号竪穴出土。
80−83は斜里町ウトロチャシコツ岬下遺跡一号竪穴出土の角器(鹿角製)で、クジラの上半身や尾部を表現したり、捕鯨の際の銛縄がレリーフされたりしている。
84、85、86はトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号出土で、84はクジラ頭部の角器、85は海獣鰭部の角器、86は海獣胴部角器である。87は魚をレリーフした角器でトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号竪穴出土。
88は、トコロチャシ跡遺跡一号竪穴出土の土器の把手部であるが、一体何を表現しようとしたものか不明である。海獣であろうか。また、土器に水鳥文様を貼り付けたものが数多くある。
89はトコロチャシ跡遺跡出土品である。
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写真77 海獣頭部(牙偶) |
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写真78 ラッコ牙偶(クマ犬歯製) |
写真79 ラッコ頭部角器 |
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写真80-83 クジラ角器 |
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写真84 クジラ頭部角器 |
写真85 常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 |
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写真86 海獣胴部角器 |
写真87 魚もしくはクジラ角器 |
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写真88 海獣?(土器把手部) |
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写真89 水鳥文(土器) |
参考資料 クマ足跡型押文土器 |
以上の他に注目すべき動物意匠遺物が発見されている。それはフクロウである。90は根室市オンネモト貝塚出土の骨製釣針軸の上端に彫刻されたものであるが、フクロウ部分の高さは三・五センチと小さいがリアルな表現である。同遺跡ではヘビを描いた釣針も出土している。91は棒状木製品の上端に見られるフクロウの全身像で、常呂川河口遺跡十五号竪穴出土である。このフクロウの存在は後のアイヌ文化のコタンコロカムイ(Kotan-kor-kamuy集落を守る神=シマフクロウ)を想起するもので興味深いものである。
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写真90 フクロウ(骨製釣針軸) |
写真91 フクロウ(棒状木製品) |
なぜそのような送りをしたのか
では、なぜそのような動物送り儀礼を行ったのであろうか。アイヌ社会のことを考えてみよう。
クマに関しては、その胆が和漢薬の原料として皮以上に重要な和人に対する輸出品であったこと。
また、ワシやタカの羽が矢羽根として高価な商品価値があった。
クマと同様に最高のコタンコロカムイ(集落を守る神)とされるシマフクロウについては、ワシやタカの羽以上に優れたもので、それを得るために飼育を行っていたであろうと考えている。さらにそのイオマンテは十七〜十八世紀頃に成立していたとの仮説を立てている。
これらをまとめて「北海道のアイヌは、クマ、ワシやシマフクロウを飼育し、それを送る儀礼を行なっていた。
この「飼い型」の送り儀礼の成立を考える上で、筆者が強調したいことは、飼い送られる動物の共通点は、和人社会との交易のなかで、それらは商品(交換)価値が高く、かつ飼育しうる動物であったことである。筆者は、送り儀礼の思想大系は北方諸地域に広く分布するかなり起源的には古いものである一方で、その一亜型である「飼い型」の送り儀礼は、アイヌらの北方交易が進展していく中で成立したものであると主張したい」と説明している。
このような状況が考古学上の「原アイヌ文化」の段階の後期頃(十七〜十八世紀頃)に成立していたことは考慮してよいのかもしれない(宇田川、二〇〇一)。すなわち狭義のイオマンテの確立である。
では、オホーツク文化の骨塚で代表されるクマの頭骨送りはどう解釈したらよいのであろうか。とくに常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号竪穴の外側骨塚の場合は、百頭を超えるクマ頭骨が祭壇状に積み重ねられた状態で出土している。毛皮交易の重要な物件であったことを意味しているのであろうか。オホーツク文化の場合には、ラッコの動物意匠やクロテンなどの小動物も出土しており、それらは毛皮としては最高の品である。これらも輸出用の毛皮交易品と考えてよいであろう。
このように考えてくると、すでに交易品の対象としてオホーツク文化の時代からクマなどの捕獲が行われ、その霊的存在を送る儀礼が確立していたことが理解できる。それはアイヌ社会の動物送り儀礼に継承されていったのであるが、現段階では擦文社会からの継承よりもインパクトがあったことであろうといえる。
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図5 『蝦夷島奇観』にみるアイヌのクマ祭り(イオマンテ)の図(参考) |
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図6 図5の続き(参考)。首に縄を付けられた熊に花矢を射かける。 |
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図7 図5の続き(参考)。花矢を射かけた後、丸太にて圧殺。 |
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図8 図5の続き(参考)。能を中央に置き、宝器類を飾り、正装して酒食を供し、神への祈りを捧げる。 |