オホーツク文化

オホーツク文化とは

 オホーツク文化とは何か(天野哲也 北海道大学総合博物館助教授)

  オホーツク文化文化とは、凡そ日本の古代を中心とする時期(5〜13世紀)に、オホーツク海南岸一帯、即ちサハリン南部から北海道北部―東部そして千島列島に展開した、海洋民が作り上げた生活様式である。

オホーツク文化の最大の特徴が海洋適応にある。

  集落やキャンプなどオホーツク人が残した遺跡の分布は殆ど海岸部に限られている、海から最も離れた集落の例である紋別市元紋別栄遺跡ですら、現海岸からせいぜい1kmほどしか離れていない。

 遺跡のこの立地条件はオホーツク人の暮らしが海と如何に深く結びついていたかを示している。

 オホーツク人は海辺で実際どのように暮らしていたのだろうか?

  上記写真は、30年程前礼文島深井遺跡の発掘調査の際の竪穴住居であり、住居東壁部付近の土層面である。

 住居床面から上に40cmほどの暗い部分は、砂丘上にこの竪穴住居を建築する際に掘りあげた砂が住居廃棄後に住居内になだれ込んだ層であり、遺物に乏しい。それより上の白と黒の縞状に見える部分が、順に「魚骨層」W・V・VOと命名した生活廃棄物の層であり、魚骨やウニ殻・獣骨のほか土器や石器・骨角器など遺物を豊富に含んでいる。

 オホーツク人が利用した各種動物の量を、その肉のカロリー量に換算して評価すると、各時期平均して魚類が80%余りと圧倒的に多く、海獣6%余り、ウニ6%余り、家畜(イヌ・ブタ)2.9%などとなる。

 魚類など海産物へのこの著しい依存の構造はオホーツク文化全体の特徴であり、その遺跡の分布状態をよく説明するものといえる。

 漁労

 季節的な捕獲・利用量を推定では、秋にはホッケ、冬にはマダラ漁、春にはニシン漁に集中し、合わせて海獣猟も冬期を中心に行っていた。

 産卵のために岸に近づいたホッケ・タラ・ニシンの魚群を網で大量漁獲すること、又これらの魚群を追って来た海獣類を狩猟することが特徴である。

 他方夏季を中心とする季節にはソイなど根付きの種類とウニなどを漁獲しているがその生産量は著しく小さい。

 このような漁労を可能にした網そのものはまだ発見されていない。イラクサやシナノキ・オヒョウなどの繊維を利用したか、或いはチュクチ民族?などのように動物の腱や皮で作ったのかも知れない。

(チュコト Chukot ロシア連邦、シベリア極東地方にある自治管区。マガダン州に属する。東はベーリング海、北はチュコト海と東シベリア海に面し、南はコリヤーク自治管区、西はサハ共和国に接する。

ロシア人は1642年にチュクチ人との接触をはじめたが、彼らのもちこんだ病気により、チュクチ人の人口は大幅に減少した。ソビエト政権は、チュクチ人の伝統文化保護を奨励せず、同化政策をすすめた。193012月、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の中のチュクチ民族管区となり、77年に自治管区に昇格した。91年のソ連の崩壊にともない、独立国家ロシア連邦の一部となった。   )

 網を海中に設置するために使用した独特の石錘が得られており、これから網の規模が大きいことを推測できる。主に1〜2kg前後の大形のもので網の両下部を海底に固定し、より小型のものはそれらの間で網を張ったのであろう。

 この様な網を用いた漁労は同時代の続縄文人や擦文人、更には後のアイヌ民族・ウイルタ民族・ニブフ民族もやらない特異な生業である。

 又ネズミザメなど大形魚の漁には、海獣の肋骨製の組み合わせ式釣り針も使用したであろう。

冬期中心にアザラシ・アシカ・トド・オットセイなど海獣類を狩猟したことは、これらの生態から、更にオットセイの犬歯資料を分析対象にした死亡季節推定の研究成果から言える。

 海獣は、肉の他に脂肪と毛皮・皮革はむろんのこと、骨も肋骨から釣り針軸を製作するなど、多方面に利用した。

 北海道本当のオホーツク人たちは陸獣猟も活発に行った。そこで注目されるのは食料源として最適と思われるシカが主となる貝塚例が以外に少なく、毛皮獣が目立っている。

 オホーツク社会ではブタとイヌが主な家畜であり、小熊も飼育していたようである。

 交易では、交易量・品目を推定することはなかなか難しい。土器や木器など什器ほか要は生活用具をオホーツク人は殆ど自給できたので、鉄鍋や漆器などそうしたものを輸入したアイヌ文化に比べると、交易猟はそれほど多くはないはずである。

 繊維製品などもある程度輸入したのであろう。

輸出品は何であったか。各種動物とくに毛皮獣をまず想定できる。特に、オホーツク人自身の生活にそれほど必要であったとは思えないヒグマを大量に狩猟(例えば栄浦第二遺跡23号住居で20個体、常呂河口遺跡15号住居の最小個体数は45、トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点7号住居にいたっては実に100個体以上)しているのは、その毛皮と熊の胆が輸出品であったであろうし、キツネ、タヌキ、テンなど海獣類の毛皮も輸出されたかもしれない。又矢羽根の材料になる鳥類も同様である。

 家

オホーツク文化の住居は大きいことが何よりの特徴である。その床面積の平均値72.74uは同時代の擦文文化の凡そ3倍に当たる。

常呂川河口遺跡15号住居跡は、これまでに知られている中で、床面積134,5uの根室市オンネモト遺跡2号竪穴住居に次ぐ125uの規模をもつ最大級の竪穴である。

常呂川河口遺跡15号住居 (約1,100年前)

  常呂川河口遺跡15号竪穴は長軸14m、短軸10mの六角形です。床には「コ」字形に粘土が貼られています。火災を受けたこの住居は炭化した建築材が残っていました。壁板は内側に倒れ込み、屋根材である白樺樹皮と木釘もありました。

  この住居からは約40個に及ぶ土器をはじめ骨角器、鉄器、木製品などが多量に出土しました。遺物の分布状況からこの住居には56世帯、約20人に及ぶ人々が同居していたと推測されます。

常呂川河口遺跡15号住居周辺空撮
正方形の畔は一辺4mあり住居の大きさがわかる。

常呂川河口遺跡177

火災住居。建築部材が炭化した状態で遺されている。

方形の竪穴住居で中央に炉をもち、壁にはカマドが取り付けられています。

常呂川河口遺跡177号

炭化材を取り除きカマド・柱穴を確認した。中央に炉があります。

常呂川河口遺跡115号住居跡
中央部に石囲み炉をもつ。


常呂川河口遺跡67号住居跡
出入口の張出部をもつ。

新北海道古代史―2 続縄文・オホーツク文化(野村 祟  宇田川 洋編)