田村麻呂の絵灯籠

  北のまほろば(街道をゆく四十二)

   またしても太宰治のことである。「津軽」のなかの太宰は、陸奥湾に面した蟹田へゆく。

   そのあたりは、昔も今も、「外が浜」と呼ばれている。

  坂上田村麻呂

   歌舞伎の「矢の根」に、「日本六十余州は目の辺り、東は奥州外が浜、西は鎮西鬼界ヶ島」という名調子で出てくる外が浜である。

   その外が浜の蟹田に、太宰の青森中学校時代の友人「N君」が住んでいて、「津軽」のなかで、太宰と概括的な津軽論を話し合う。「N君」は精米業を営んでいる。

   まず、ケガヅ(飢饉・凶作)のことである。冷夏の年、人が多く死ぬ。太宰は悲しみのあまり、「だらしが無え」とののしった。科学科学と世間ではえらそうにいうが、科学は何をしているんだ、というのである。

   「N君」はおだやかな人柄である。「砂漠の中で生きている人もあるんだからね」となだめ、「怒ったって仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生まれるんだ」そのように言う。「あんまり結構な人情でもないね」

   太宰は、切り替えした。津軽には他国にいるような春風駘蕩(たいとう)とした人柄の人はいない、というのが、彼の不満だった。

  そういう太宰に対し、「N君」は声を励ますようにいった。「それでも君は、負けないじゃないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれど、負けやしないんだ」

 確かに、古来、津軽は負けなかった。

 津軽が出てくる記録の最古のものに、例の「日本書紀」斉明天皇5年(659)の記述がある。

 日本の遣唐使が、唐の皇帝の蝦夷(えびす・えぞ)についての問いに答えるくだりである。 蝦夷とアテルイ

  「蝦夷には三種類あります。一番遠くにいるのが都加留(つがる)」恐るべき種族のようにいう。つぎに麁蝦夷(あらえびす)、一番近いのが熟蝦夷(にきえびす)という。つまり、ツルガが“中央”から最も遠くにいる。

 しかも独立の気構えをみせ、負けるということを知らない。

 「中央」というのは、大化改新(645)という日本国の法制化によってでき

あがった中央機関(大和)のことである。むろん地方機関もでき、津々浦々が従った。

 が陸奥は、それら律令体制の圏外にあった。“中央”はしきりに陸奥に対し、

「稲作をせよ」とすすめた。それに従ったのが熟蝦夷で、やや従わないのが麁蝦夷、頑として独立自尊の姿勢をくずさないのが、都加留であった。ついでながら、みな日本人である。

 この場合のおかしさは、稲作の有無だけで人間の品定めが出来上がっていることである。

  ちょっと振り返りたい。

  幾度か触れてきたように、古代の青森県は稲作へ転換する必要がないほど縄文的に豊穣の地であった。

  例えば、四千五百年前の縄文中期の一大集落遺跡が、青森市街の三内丸山の地に、出現した。1994年の夏。出土した遺物が土器だけでもおびただしく、ダンボール箱で数万個だったことは、既に触れた。

  私どもが見学したあと、同社大学の森浩一教授(考古学)が現地で土器類を見て、縄文時代にどうしてこんなに東北が栄えていたのか。近畿全部の縄文土器よりも、ここ数ブロックのほうが、はるかに多い。力の差、量の差がある。

   といったという。縄文文化では、近畿に対して優位に立っていた。

   この三内丸山遺跡から二千年以上下った亀ヶ岡(西津軽郡木造町)の縄文文化を見ても、近畿を圧倒していた。

   安定感があってしかも瀟洒(しょうしゃ)な水差しのようなもの、華麗でしかも機能的な急須・土瓶のようなもの、ロクロもないのに好もしく球形に造形されている様々な壺。

   この亀ヶ岡文化は、はるかに近畿地方にまで影響を及ぼすのである。多様さと技巧の見事さは、“亀ヶ岡人”の余暇の多さをあらわしている。余暇が多いということは、食料が多いということである。何を悲しんで“中央”に従わねばならないか。

 さらに、くりかえしを続ける。

  青森県に縄文時代が続いた頃、ほぼ二千年前、弘前市の砂沢遺跡に弥生前期の水田が出現したことを、私は「日本書紀」の“都加留”のためにもう一度述べたい。

   かれら(外来者かもしれない)の水田は、芸の細かい装置を伴っていた。

   田に引く水は近くの岩木川から引いているのだが、途中で小さな溜池が築造されている。水は一旦そこで溜められる。

  津軽は、西方の暖地と違い、水が冷たい。稲は元来熱帯・暖温帯の植物だから冷水は生育を害いかねないために、この装置によって水を温めたのである。

   「おれたちは、五、六百年、あるいはそれよりも昔に、お前さん達とおなじか、もっと上等の水田づくりをやったことがあるんだ」

   “都加留”は、言いたかったろう。

 ただし、このように高い技術の初期稲作も、どういうわけか、途中で絶えてしまった。

 絶えた理由を推量すると、稲作人が、闘争的だったかもしれない。

 稲作は、気が立つものらしい。他人の田に隣接する畔を蚤の幅ほどでも削って自分の田を広げたい衝動をもっている。

  それに、稲作の特徴は、ムラである。何事もムラ単位でやり、ときにムラが結束して他のムラと戦争する。欲望が嵩じて、他のムラを併呑してしまったりもした。このあたり、縄文人とずいぶん気質が違う。

  採集者である縄文人には、所有欲が少ない。川を昇ってきたサケやマスも、渚にいる貝類も、木に実るクリやトチも、すべて神々からの賜りものだという。それに対し、新米の稲作人は稲は自分がつくったものだ、互いに所有の観念が違うのである。

 「あの連中はいやだ」

 と、縄文勢力は、思ったにちがいない。縄文勢力が圧倒的に多数だった時期、少数派の稲作グループは力負けしたか、それとも内部抗争によるものだったか、ともかくも衰滅した。

   ところが、世を経るにつれ、日本列島の西方が稲作化してしまい、さらにその社会が成熟して、国家までできた。律令国家である。

  やがて律令国家は、東北に進出した。現在の福島県や宮城県、山形県、秋田県などは、律令国家の最前線である。「柵」(軍事施設)の保護下で、あらためて西からきた稲作の暮らしに従い始めた。

  ここで、東北の古代像にもう一言、説明が要る。東北が一面に縄文文化で覆われていたのではなく、縄文と稲作地域がまだらのようになっていたということである。

  新野直吉博士は、紀元前後からの東北の古代段階の状態を、「斑状文化」と呼ぶ。狩猟・採集の暮らしと農耕の暮らしが混在していたということである。

   そういう中で、最北端の津軽が奇妙なほど元気がよかった。それが「日本書紀」にいうところの、「都加留」であった。恐らく食料の豊かさのほかに、亀ヶ岡文化に象徴される文化的自信と、さらには既にほどほどに農耕化が進み(と想像される)、今の青森県規模の広域社会が出来上がっていたのではないか。

  夏の青森市である。

  青森市も又外ヶ浜の一部である。JR青森駅から北へ少し暑さの中を歩くと、海に出る。青森港である。

  この辺りは、室町時代の世阿弥の作といわれる能の善知鳥(うとう)に出てくる。

  謡曲では、「ところは陸奥(みちのく)の、奥にある海ある松原の」とふかぶかと謡うが、いまでは松原どころでなく、現代港湾工学のモデルのような港になっていて、白っぽい半袖象の世界になっている。

  その機能性のみの景観を和らげるためか、海に向かって公園が広げられている。そこに、“ねぶた”の展示場がある。

  ねぶたまつりは、天下周知だが、念のため「広辞苑」のその項の記述を借りると「東北地方で行われる陰暦7月7日の行事。竹や木を使って紙貼りの武者人形・悪鬼・鳥獣などを作り、中に灯をともして屋台や車に載せて練り歩く。、、、、

  青森市・弘前市のが特に有名」とある。ついでながら、弘前では“ねぶた”という。

 いわば、鎮魂の行事である。描かれた英雄の盛んな魂によって夏の悪疫、悪霊を防ぐという日本古来の御霊信仰から来ているらしい。

 練り歩く“ねぶた”の英雄像として、古くから坂上田村麻呂が好まれてきた。

 「広辞苑」を開いたついでにその項を見ると、「平安初期の武将。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また京都の清水寺を建立。(758〜811)とある。

 実に好漢だった。

 体が大きく、顔は赤味を帯び、びんやあごの髭は黄金の糸のように光り、眸(ひとみ)は鷹のように鋭かった。怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなついたというのは、有名な風貌描写である。

 この田村麻呂が朝命によって東北遠征の途にのぼるのは、都が山城(今の京都)に遷されるという年(794)の二月である。

 田村麻呂の遠征以前から、長年にわたって東北の経営が進められてきた。

  そのお蔭で、奈良朝という、稲作の律令を建前にした政権の最北端が、今の県名でいうと、秋田県、宮城県、それに岩手県南端にまで達していた。

  ただし、中央は軍事力の点で絶対に強いとはいえなかった。しばしば失敗し、時に大敗した。

  田村麻呂は大軍の軍威を保ちつつみだりに勝利をむさぼれず、相手の事情を理解し、寛仁だった。そのために、それまで中央の陸奥における治所だった宮城県の多賀城から、治所を北進させたことだった。

  北進といっても、いまの地図で言えば、ほんのわずか北に進めただけだった。宮城県を出て岩手県に入り、その南の方に丹沢城と志波城を築いただけのことで、今の盛岡市にも及んでいなかった。ましてその北の今の青森県など、手のつけようもなかったのである。

  八世紀末の日本地図では、今の青森県だけが、白く残されている。

  日本海というと、秋田県がやや早い時期から、“中央化”しており、太平洋岸では、岩手県南部が“中央化”した。

  白地図になって残された青森県は、明治後の青森県と同様、南部の北半分を含めている。今でいう津軽衆も南部衆も、大いに坂上田村麻呂を恐れさせたということになる。

  このことは、一面、田村麻呂の偉さだったのではないか。

  昭和30年代の初めごろに刊行された高橋崇著「坂上田村麻呂」は名著である。

  じつによく文献が渉猟され、周辺の資料まで博捜され、事実と伝承の取捨選択が見事というほか無い。

  さて八世紀末の津軽は文学資料の上で沈黙している。従って、「なぜ田村麻呂は、外ヶ浜まで直進し、津軽を“平定”しなかったのか」については、当然ながら、右の著者の高橋崇博士も格調のある態度で避けられている。学問の態度として、当然といっていい。

  そういう点で、資料という実体のないまま素人風に当て推量してみたい。

  戦術の用語に“攻撃の終末点”というのがある。攻撃を発起するとき、どこで終えるかという計算が無ければ、思わぬ大敗を喫することが多い。

  自軍の兵力、武器、食料、輸送手段、さらには戦場の地理などを考え、攻撃をどの地点(或いは段階)で止めるかということである。

  敵は、名だたるツガルである。

  その地は草木に満ち、しかも大軍の移動、展開にふさわしい道路がなく、又いままでの経験からみて、敵の東北兵は多数の小部隊単位にわかれ、自在に出没する。

  大軍の側は奔命に疲れ、ついには食料が絶え、士気を失う。

  田村麻呂はいまの岩手県の志波・丹沢の線を攻撃の終末点とした。あとは守りをかためた。いずれ後世、津軽人が、いまも田村麻呂を大きな絵灯籠にして練り歩くということになったかと思われる。田村麻呂が、津軽といわば無視したことによって、互いに怨みを結ぶことなく済んだ。

  また田村麻呂が津軽を怖れて北進しなかったと解すれば、津軽人の自尊心も満たされるのである。要は田村麻呂が攻撃の終末点を知っていたということであり、この古代の将軍が常人でない点でもある。ともかく、「負けなかった」という太宰の友人の「N君」は正しい。ほれぼれするほどの的確さだといえる。

ねぶた

青森のねぶたは、秋田竿灯や仙台七夕祭とともに東北三大夏祭りとして知られる。弘前市のねぷたが扇型をした扇ねぷたなのに対して、写真の青森市のねぶたは人物をかたどった組ねぶたである。

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