北のまほろば 司馬遼太郎

  森の日本文化  

「北のまほろば」街道をゆく!司馬遼太郎

(司馬氏の憂い「昨日の続きで今日も生きているといった程度の生き方を、これからも続けていったら、もうジリ貧もなにもいつの間にか日本という国自体が無くなってしまうかもしれない」「日本人への遺言」より。19963月、週刊朝日)

1994年(平成6年)、十二日間の取材を終え、半年後の716日、「北のまほろば」をすぐに連載していた司馬さんの目に、パッと光明が差し込むようなニュースが飛び込んだ。

 大阪の自宅で朝日新聞の夕刊を広げたとき(1994716)一面トップに大変な記事が出ていることに驚かれた。

 「4500年前の巨大木柱出土」という。青森県である。縄文中期という大昔に、塔までそびえさせているような大集落遺跡が見つかったのである。

 縄文時代、世界で一番食べ物が多くて住み易かったのが青森県だったろうということを、私も考古学者たちの驥尾に付してそう思い、いわば“まほろば”だったと考えてきた。

 それが、土中から現れようとは思わなかった。司馬さんは三内丸山の縄文社会に、「まほろば」とも言うべき広々とした空間を見てとっていた。その広々とした空間の中には、日本海をも遥かに越えた縄文人の壮大な営み・小さな交易社会を築きながら、その視野は遠く大陸をも見ていた、と司馬さんは想像したのである。

 司馬さんが思い描いた通り、三内丸山の縄文人たちは確かに海を渡って、大陸と深く交流していた。しかも、海外の文化を多様に受け入れながらも、独自の文化を昇華していくという融通無碍な社会だった。古代、青森の社会は海に向かって道を開け、人々や品々が自由に往来するという、いわば間口の広い国際社会だった。それは、司馬さんが探し続けていた「まほろば」の条件を十分に満たす「人間らしい社会」であった。