劇的なコメ


古代の稲作   7粒の米に世界注目    東北最古の稲作    

      北のまほろば(街道をゆく四十二)

 百科事典ふうにいうと、北九州にコメ(稲作)がもたらされたのは、二千数百年前(紀元前三世紀ごろ)である。

 この様式は、すさまじい勢いでひろがった。考古学では、この初期コメづくり文化のことを、弥生文化という。ほぼ五百年つづいた。

 以上は前文である。

 考古学の分野では、しばしば劇的なことがおこる。

  コメづくりは、古代、東北地方には存在しなかった。といわれてきた。弥生文化がなかったと思われてきたのである。確かに平安時代でさえ、東北では田んぼはさほど作られていなかった。だから東北は遅れていた。という印象が支配的だった。平安貴族もその印象をもち、はるかにくだって明治後の日本史学界もそのように思い込んでいた。

 この思い込みは大正、昭和と続き、戦後、東北大学の伊藤信雄教授(190887)が、「東北には、古代稲作(弥生文化)が存在した」という仮説を提示したときも、学界は冷淡だった。

 その“伊藤信雄仮説”が、昭和56年(1981)、青森県の津軽平野の田舎館村の垂柳の地で出土した弥生中期(弥生中期(紀元前後から二百年ほど)の水田跡によって、一挙に裏づけられた。

 「垂柳遺跡」は、いまではとどろくような名になっている。

 雪中、田舎館村の垂柳を訪ねた。

 この村は、津軽平野の只中にあり、浅瀬川という川が流れ、明治の頃日本の典型的な農村だった。田舎館は“やなせ”(東北地方の中・北部の太平洋側(特に三陸地方)で、梅雨期から盛夏期にかけて吹く北東風。オホーツク海高気圧がもたらす冷湿な風で、長く続くと冷害の原因となる)の害を受けることが少なく、戦前も今も、青森県では1,2の優良なコメ作りの村とされてきた。

 「不思議な遺物が出る」

 と垂柳の人達がささやいていたのは、昭和のはじめ頃かららしい。

 決定的になったのは、昭和31年(1956)の耕地整理のときだった。弥生文化のものと見られる遺物が大量に出たのである。

 田舎館村の教育委員会は、このお蔭か、考古学の能力を身に着けた。例えば田舎館小学校に奉職していた工藤正氏が、土器の中に籾痕がついているのを見つけ、東北大学の伊藤信雄教授に連絡した。

 そういうぐあいで、今は村立の歴史民俗資料館まで持つ村になっている。

 昭和56年(1981)、ここに国道102号のバイパスができるというとき、まず村によって遺跡の確認調査が行われた。

 次いで県の教育委員会が試掘調査をした。その結果、水田跡が発見されたのである。村といい、県というのは考古学の能力が高い。

 この発見がもつ意味がいかに大きかったかについては、伊藤信雄博士その人の研究暦を見ると判りやすい。

 私はこの東北考古学の先達については、知ることが少ない。

 著作の略歴をみると、明治41年(1908)の生まれで、生粋の仙台人である。仙台の第二高等学校を経て、昭和6年(1931)東北帝国大法文学部国史学科を卒業し、母校の第二高校の教授になった。その後、東北大学文学部教授になり、定年後は東北学院大学に転じた。

 私は、没年を知らなかった。夏の暑い朝、東北大学の考古学研究室に電話をかけると、即座に、「1987410日です」と、電話口の向こうの人がいった。いかにも伊藤信雄の学問が継承されているという印象をうけた。

 伊藤信雄は昭和54年(197970歳過ぎのとき、山形考古学会で講演した。

題は、「東北地方における弥生文化の諸問題」という。東北には紀元前或いは紀元後数世紀という古い時代にコメづくりが存在したという仮説を立てた頃のことから語りおこされ、それが実証されるまでの半世紀のいきさつが内容である。この間、苦しかったに違いない。

 学界は東北に弥生文化など存在しなかったというが、しかし、この人の歩くところ、弥生式の土器が出てくるのである。

 青森県田舎館村から出る不思議な土器についても、「昭和45年ごろから気づいていた」という。学生時代から田舎館村の出土物を見ていたのである。

 そのころに仮説が出発したとすれば、実証されるまでに半世紀かかったことになる。戦争中の末期、二高教授だった頃、仙台の霞目から土器の類が出土した。霞目は名取川と広瀬川の合流点に近い低湿地で、いかにも弥生人が好みそうな初期水田の適地である。

 この霞目に昭和のはじめ民間機の飛行場ができ、戦時下に軍用に転用された。その拡張工事のとき、土器が多く出た。行ってみると、はたして弥生式だった。

 山形県からも出た。

 又、戦後の昭和28年(1953)、岩手県水沢市の常盤広町で縄文晩期の遺跡が発掘調査されたときも、おびただしい数の弥生文化の遺物が出た。ガラス製の小玉や細形管玉など、すべて弥生文化を特徴付ける遺物だった。

 「これを東京に持っていって協会などで発表しても、皆あまり賛成したような顔をしない」と鈴木信雄は山形県考古学会での講演のなかで語っている。

 不賛成の人達にとって、モノだけでは水田をやっていたという決め手にはならない、ということだったろう。

 想像するに、“読縄文”というべき段階じゃなかったのですか、という反論もあったに違いない。東北はなおも縄文の文化が続いていた。つまり“読縄文”の状態にあったとき、たまたまモノだけが弥生文化の地域からやってきて、それが出土したということでしょうから、それだけでは東北で弥生文化の水田が耕されていたということにはなりません。ということだったかと思われる。

  「石包丁さえ出てくれば」と、伊藤信雄は祈るような気持ちで思うようになった。

  石包丁とは、弥生人が実った稲の穂を摘み取るための扁平の石器である。半月形、長方形、楕円形などあり、紐通しの孔が一つか二つ、穿たれている。

  この稲穂の摘み取り道具さえ出てくれば水田稲作が行われていたことの動かせぬ証拠なる。この時期、伊藤教授は、口癖のようにそのことを言ったので、学生などの間で、「石包丁」というあだながついたらしい。

 その後、籾痕の付着した土器が出た。これこそコメ作りが行われていた証拠ではないか、と思った。

  籾痕つきの土器は、さきの常盤広町遺跡からも出土した。他からも出ないかかと、東北各地の研究者に声をかけた。

 4年経った昭和32年、秋田大学に頼まれて講義し、発掘の実習指導をしたことがある。発掘現場は、弥生式土器が出る八郎潟の志藤沢であった。

 この現場でも、籾痕の話を繰り返した。出土した土器を洗う場合、注意して洗ってほしい、籾痕がついているかもしれなから、と頼んだ。

すると、「暮れの24日か25日に電報が来まして、籾痕が出たという吉報が入った。事重大と思って、私もすぐに行ってみましたら、間違いなく籾痕なのです」

 という。そんな風で、東北中の発掘現場の人達が、伊藤教授に協力した。さきに触れたように、青森県田舎館の耕地整理中に籾痕つきの土器が出たときの通報もそうだった。が、なおも学界の反応はにぶかった。東北の“読縄文人”がたまたま何処かから籾を手に入れた、それが土器に付いた、そんな具合ではないか、と言うことだったに違いない。

 ともかくも、証拠が小粒すぎるのである。

 この東北において、二千年から千数百年前、水田稲作行われていたという。歴史の根底をくつがえすほどの説得力をもたせるには、もっと直接的な証拠が必要だった。

 田舎館村垂柳へは、鈴木克彦氏が案内してくれた。

 途中、風が強くなった。風が、シャベルで掻きあげるように積雪を吹き上げ、ミキサーが旋回するようにして、地吹雪が舞った。この県の冬の名物だそうである。

 稲作を考えてみる。

 紀元前三世紀ごろ、北九州で展開した。その遺跡で有名なのが、今の福岡県の北部の遠賀川下流のものである。川の右岸の立屋敷から出土した。昭和6年(1931)のことで、この遠賀川から出土した土器のタイプを一基準として「遠賀川式」と、呼ばれる。最古の弥生文化の土器である。

 驚くべきことだが、青森県の津軽平野の田舎館の垂柳から出た土器類は、弥生前期の筋目?ともいうべき遠賀川式の系統をひく土器なのである。あたかも元祖の地からいきなりやってきたかのような風情である。

 想像してみる。

 北九州で水田を中心にできた村の次男坊たちが、というふうに、世代があらたまるごとに敵地から敵地へと移り、この文化が広まった。

 稲作は、食料の不安を、いわば解消させた。

 よほどの魅力だったのか、弥生文化は日本列島をひた走りに走った。

 しかし、北九州の遠賀川式土器が、いきなりといっていいほどに青森県の各地に出現するというのは、どういうことだろう。ともかくも、紀元前後の青森県に、弥生文化の水田が存在したことが、実物として明らかになった。

 今日、垂柳の水田遺跡の上を跨いで、橋が掛けられている。

 水田遺跡は橋で保護され、その下とその向こうに広がっているのである。

 雪の中で、田舎館村の歴史民俗資料館の木村護栄氏と若い館員の人に出会った。 古代水田は、一枚ずつが、妖精がつくった水田のように小さかった。

 畳二枚、一坪ばかりの広さが一枚の水田で、四角く丁寧に畦によって囲われ、全体が精々と碁盤の目のように展べひろがっている。

  雪の中で、鈴木克彦氏が、畏敬といたみをこめて、「東北大学の伊藤信雄先生は」といった。「まだご存命でした。ご生前にここ(垂柳遺跡)が発見されて本当に良かったです」

 その後、青森県の津軽地方に、もう一段以前の段階の水田跡が、出現した。

弘前市域の岩木川左岸の低い丘陵地帯から出土した砂沢遺跡である。

 信じ難いことに、弥生前期のものだった。5ヶ年、丹念に調査され、昭和63年(19886枚の水田が発掘された。伊藤信雄の亡くなった翌年である。

 この事実には、ただ驚くしかない。当時、関東はまだ縄文生活が続いていた。

 弥生文化が、北九州から発して東へ進行し、太平洋岸では今の名古屋あたりにやっと達した頃、日本海岸ではよほどスピードが速かったらしく、既に津軽に達していた。繰り返すが、名古屋と同時期である。

 縄文時代には、日本列島を縦貫する道などはなかった。

 日本海岸を、舟で移ったに違いない。砂沢の弥生前期文化など、いきなり北九州から舟でやってきたかと空想したくなるほどである。

 その後、東北各地でいくつかの弥生中期の遺跡が発見され、“伊藤信雄仮説”は、全き形で実証された。

 ただ不思議なことは、東北地方でのこれら“弥生文化の孤島群”は、その後衰滅したことである。

 その衰滅後に、日本史は奈良朝・平安朝を向かえる。

 なぜ滅んだのか、その謎まで東北がもつ魅力に違いない。

(Encartaより

   垂柳遺跡の水田跡

  青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕をうらづける発見だった。約4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。田舎館村歴史民俗資料館提供

   砂沢遺跡 すなざわいせき 青森県弘前市の市街地から北へ約20kmの砂沢池の底、約40haに広がる遺跡で、弥生時代の前期にさかのぼる水田址が検出された。この遺跡は、1984年(昭和59)から87年まで、4年間にわたって、発掘調査が行われ、発見された2枚の水田址が、弥生前期までさかのぼることが判明した。弥生前期の水田址が東日本で発見されたのは初めてであり、同県田舎館村の垂柳遺跡(弥生中期)とともに日本最北端の弥生時代水田址として注目される。日本の稲作は、弥生時代に北九州から東漸して東日本に達した、という従来の見方に修正を迫る新発見である。

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