古代の豊かさ

古代の豊かさ・北のまほろば
(街道をゆく四十二)


  古代の豊かさ・北のまほろば

“まほろば”が古語であることは、言うまでも無い。

 日本に稲作農業がほぼ広がったかと思われる古代――伝説の日本武尊(やまとたけるのみこと)――が、異郷にあって望郷の思いをこめて、大和のことをそう呼んだ。

 私は、“まほろば”とはまろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく気持ちのいい野、として理解したい。無論、そこに沢山(さわ)に人が住み、穀物が豊かに稔っていなければならない。

 青森県(津軽と南部)を歩きながら、今を去る一万年前から二千年前、こんにち縄文の世と言われている先史時代、このあたりは或いは“北のまほろば”というべき地だったのではないかという思いが深くなった。

 「けかち(飢饉)の国が、まほろばか」 と地元でさえ、異論があるに相違ない。

 津軽も、或いは南部も含めた青森県全体が、今日考古学者によって縄文時代には、信じ難いほどに豊かだったと想像させられている。

 勿論、津軽だけでなく、東日本全体が、世界でも最も住み易そうな地だったらしい。

 山や野に木の実が豊かで、三方の海の渚では魚介がとれる。走獣も多く、又季節になると川を食べ物の方から、身をよじるようにしてー―サケ・マスのことだがー―やってくる。そんな土地は、地球上にざらにない。

 そのころは、「けかち(飢饉)」は無かった。当然なことで、この地方の苦の種であった水田が始まっていなかったのである。

                             

 日本の新石器時代は、学者達がヒトの暮らしへの愛を込めて縄文時代と命名した。

 縄文時代とは、言うまでも無く、一万年間(米作が紀元前数百年前に伝来するまで)ほど続いた先史時代の名称である。

 その土器に網目が刻まれていたことで、そう名づけられた。古代人にとって第二の胃袋であった。旧石器時代には土器は無かった。このため、食物の幅は限られていた。

 土器という第二の胃袋が発明され、それが広まることによって、人は、食物をポットに蓄え、ジャーで煮炊きできるようになり、食べ物の範囲が、広くなった。人口も増えた。

 本来静かだったはずの考古学がここ数十年、前代未聞の活況を呈し、過去の定説が次々に覆されている。

 私どもの先祖像が、めまぐるしく変わってきているのである。

 例えば、縄文遺跡から世界最古の漆器まで出るに及んで、縄文文化が原始文化ではなく、一万年、数千年の時を経て成熟を遂げた文明ではないか、という考えまで出てきた。

 活況の先駆けをつくったのは、戦後の北海道考古学だった。

 かつてオホーツク人が、稚内や紋別や網走などに住んでいた。という我々の先祖群についての新種発見は、戦後の発掘で確認された。

 オホーツク人の背景には、広大なユーラシア大陸が広がっている。海を渡ってオホーツク沿岸に住んだのは、一つには海獣猟をするためであった。彼らは、特異な土器や細工物などを残して、鎌倉時代あたりに、消えた。この時代、北海道には、まだアイヌ文化は、存在しなかった。

 北アジアから流入したオホーツク人は、遺骨からみて、体が大きかった。

 けかちの国が、なぜ、“北のまほろば”かについては、近世の藩政時代の津軽像について、仮想としての疑問を持たねばならない。

津軽藩は、豊臣秀吉が小田原攻めをしていた1590年に成立した。この藩が明治4年(1871年)に終幕するまでの3世紀近い間、世間のならいに従って(或いは幕藩体制の原理道理に)コメのみに頼った。

 コメというのは、食料という以上に通貨であり、その多寡(石高制)は身分をあらわした。

 この藩は、他の藩と同様、コメを大坂市場に出して現金を得て、藩を運営し、藩主の参勤交代の費用をだした。全ての価値を生む源泉が、コメであった。

 そのコメを、当然ながら農民が作る。藩は、農民を鞭打つようにしてコメ作りに励ませ、コメ作りをしない商人や職人を農民の下に置いた。又湖沼を干拓して新田を開かせたりした。

 コメが、この藩の気候の上から危険な作物であるにも関らず(西方の諸藩でさえ江戸中期以後、換金性の高い物産に力を入れ始めたというのに)コメに偏執し、相次ぐ新田の開発によって江戸中期には実高三十万石を挙げるに至った。無理に無理を重ねた。表高も十万石に格上げしてもらった。

 十万石といえば、中級の大名である。格式が高くなった分だけ江戸での経費がかさみ、農民の負担も重くなる。実高三十万石といえ、藩財政は慢性的に赤字で、鴻池など大坂商人から借りる借金がかさんで、江戸後期以後は、今で言う“銀行管理”のようになっていた。コメ一辺倒政策の悲劇と言ってよい。

 古代はよかった。中世も恐らく、古代以来の豊かな自然を享受する暮らし(農業に加えての採集生活)が続いていたのに違いない。

 北海道にあっては、十世紀頃にはオホーツク文化が衰え、一方、“擦文文化”という、鉄器や古墳などを伴う新文化が道央を中心にして盛んになった。鎌倉時代には、北海道の擦文文化が、青森県にまで及んでいた。つまり、北海道の“擦文人”が、青森県にあこがれ、しきりにやってきては、土着した。むろん、青森県の方からも北海道に渡った。

 少なくとも、青森県は、鎌倉時代までは(或いはコメ主義が始まる近世までは)北海道に対して、文化の卸元のような(まほろば)のような立場だったのではないかと思える。

 青森県は、不思議な地である。

 縄文時代には、“亀ヶ岡式土器”という優れた土器を生み出すほどに豊かで、当時貧寒たる暮らしをしていた縄文西日本に対して優位に立ちながら、その後、西方からの力と文化に押されるにつれて(西方の体制に従うにつれ)僻陬(へきすう)の地になってゆくという地である。

 しかもなお、地下三尺に、他地方にない感覚の豊かさを秘めているという不思議な地である。

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