カルコの話・北のまほろば
(街道をゆく四十二)
太古、木造町のあたりは大きな湖だったろう、という地質学的想像がある。そう思って木造町の町域を歩いていると、湖底にいる感覚がないでもない。
「津軽湖」とよばれる。
“津軽湖”の場合、海水も入り込んで、潟のようでもあったろう。古代の採集人にとって、あふれるような食物の宝庫だった。
そのほとりに、大いなる縄文遺跡亀ヶ岡がある。
大坂夏ノ陣で豊臣氏が滅んでほどもないころである。津軽でのかつての豪族の一つだった北畠氏の家記「永禄日記」の元和9年(1623)のくだりに、亀ヶ岡から不思議な瓶などが出るということが書かれている。昔から沢山出た、ともある。
江戸後期に、菅江真澄という、えがたい人が、漂白して東北に来た。三河の人ながら、東北を愛し、土地の人々からも敬愛された。
この真澄も、亀ヶ岡のあたりを歩き、ここから正体の知れぬ土器が出ることを書いているのである。
やがて亀ヶ岡から出た器物を藩内の好事家が珍重し、また江戸の人士までこれを喜ぶようになった。
このため、明治10年(1877)に日本に考古学が導入されたときは、遺跡として青森県の亀ヶ岡は最もよく知られ、明治22年(1889)という早い時期に、東京大学による学術的調査が行われたほどである。
今では、木造町の町域で遺跡は約30ヶ所で、なにやら町そのものが、縄文のにぎわいの上に浮かんでいるようでもある。
近年、町もそのことによく応え、「木造町 縄文住居展示資料館」 という正称の小さな博物館をもっている。
中学生がそこに入れば、縄文時代の暮らしが、想像体験できる。町民の先輩たちが、どんな家に住み、どういう衣類を身につけ、何を食べていたかについて、実物や模型などによってよくわかるようにできている。
博物館には、「カルコ」とうネックネームが、付けられている。
「青森の方言ですか」鈴木さんに聞いてみた。「ちがいます」役所風の正体は「縄文住居展示資料館」だから、漢字で9個、カナで19個もある。だから、木造町では、愛称を公募したという。1988年のことで、その当選作が、カルコだったという。Kamegaoka archaeology-collections という英訳を略したものだそうで、アーケオロジー(考古学)という言葉が、効果的に使われている。
「知恵者がいるものですね」というと、鈴木さんはどういうわけか、黙ってしまった。あとでわかったのだが、応募して当選したのは、わが考古学者鈴木克彦氏ご自身だったそうである。一階展示室に入ると、「拡大複製遮光器土偶」が、簾の束で囲まれた縄文風の構えの中で、黒々と立っている。
又、縄文時代の娘さんの人形もいる。苧麻(からむし)のキモノを着ているのが、展示物として新鮮だった。
からむしは英語でチャイナグラスと言うそうだが、中国だけでなく、アジア全域で、木綿以前の主力的な繊維としてつかわれてきた。
年配の人なら、蚊帳で思いだすはずである。
イラクサ科の草で、繊維は茎からとる。その前に、茎を蒸す。蒸すところから、からむしという名が起こったともいう。
娘人形は、それを着ている。
この人形が着ている衣料は、縄文時代の出土繊維の断片から再現したものだという。縄文時代には、むろん、織るということがなく、全て編まれた。編んでも十分の密度が得られることが、人形のキモノを見ていて、よく分った。
前合わせのボタンは、今日のボタンではなく、中国やロシアに住むツングースク系の少数民族やモンゴルの民族衣装のボタンのように、或いはチャイナドレスのように、掛け紐式である。モンゴル語で、トブチと言うのだが、わが縄文人も、今の沿海州などの原住民のように、トブチの前をとめていたということに驚いた。
住居は、今の日本のワラ屋根の農家の屋根だけを地面に置いただけの竪穴住居である。二方に入り口がある。内部は、土を少し掘り下げてある。
説明文に 弘前市の大森勝山遺跡から発掘された竪穴住居跡を参考に、、、
とあり、ストーンサークルも出土したあの大森勝山遺跡 に彼らも住んでいたことがわかる。
展示されている夫婦の人形は、それぞれ炉端で手仕事をしている。ご亭主の顔は、彫りの深い縄文人顔である。
縄文人顔は、バターくさい。眉が濃く、眉間がやや高く、目が少しくぼんでいる。今も南は鹿児島県の奄美諸島、沖縄、北は東北、それに北海道アイヌに多く見うけられる。その後、弥生式農耕とともに入ってきた扁平な弥生人の顔よりも、今日の目から見れば、いい男である。
奥さんの髪型はモダンに作られている。
恐らく、この「カルコ」に展示されている「土偶頭部」から想像して作られたものに相違ない。豊かに結い上げられて、そのまま銀座を歩いても、おかしくはない。
土器の文様は、今日のデザイナーが参考にしていい。
網目文様だけでなく、まことに多様である。花か葉を抽象したようなもの、数条の線の雄雄しさ、飛雲か波頭を連想させられるものなど、縄文人の意匠意識は、工芸的でありながら、祈りの声や息吹が感じられそうでもある。
町役場に寄ってみた。 ロビーに入ると、すぐ右に、横綱旭富士の木彫りがあった。私は相撲フアンというほどではないが、旭富士が好きだった。
木彫りは、化粧まわし姿だった。
見ていると、ギリシャ彫刻の男性像もいいが、水滴を拡大したよいな旭富士の裸形も、人体として実に美しい。
この人は、上り坂を上がっているころ、“ナマコ”といわれた。
相撲で言う“ふところ”が深い上に、体がムチのように撓り、相手がたとえ突いても、風船を突いたように力が吸収されてしまう。
だからナマコだというのだが、このあだ名を、この人は嫌がったらしい。
青森県に来て、そのわけが、少し分った。
青森県では、津軽人と南部人が、双方悪口を言い合って楽しんでいる。
「あいつはナマコだ」というのは、よほどまずい人格評なのである。意味は、よくしゃべるが、ホネがない。或いは深味がない、いうことだそうで、このことは鈴木さんから聞いた。相撲の場合と意味が違うが、津軽人旭富士としては、嫌な言葉だったに違いない。
さて、菅江真澄(1754〜1829)のことである。今で言えば科学者であり、文学者であり、又、文化人類学者だった。かれは、暖地の三河の人でありながら、東北が大好きで、秋田で死を迎えた。
菅江真澄が、「外浜奇勝」のなかで、亀ヶ岡あたりから様々な土器が出るという話を書いている。その真澄の文章を読み込んでいたお蔭で、考古学者の鈴木克彦が、素晴しい発掘ができたという。
鈴木さんは歴戦の発掘者で、すでに昭和48年(1973)の亀ヶ岡発掘に参加した。この発掘で、この人は、玉に孔を穿つ錐の役目をするメノウ製の細かながい石などを発見した。
それから7年後の昭和55年(1980)の発掘にも、鈴木さんは参加した。このとき、この人は、菅江真澄の「外浜奇勝」のなかに、“堂の前”という小さな地名の地面から土器がでるという記述があるのに注目し、ひょっとすると縄文人の墓かも知れないと思い、“堂の前”を掘ってみた。
予想道理、20基の土抗墓を発見した。長方形の竪穴で、内部から土偶や土器などが出た。亀ヶ岡縄文人の共同墓地が発見されたのである。
鈴木さんは青森人であり、また青森県の一象徴とも言うべき亀ヶ岡遺跡を愛している。次の著述の中で亀ヶ岡文化を概括するとき、学問を越えて、愛が、生き物の皮膚のように光っているのである。
、、、、それはまさしく、約一万年をかけて発展した日本の縄文文化の到達点といえる円熟した文化である。
この文章を借りると、縄文一万年の最後の光芒のなかで遮光器土偶も作られたのである。
それがプラスチックの巨像になって、木造駅の駅舎とともにそそり立っているのもむりからぬことと思われるが、しかし別の目で考えなおせば、やはりおかしい。
駅舎の一大造形は、真澄か書いた津軽野の農家の夜明けと娘たちの歌声に比べると、とても及ばないようである。