金木町見聞記

金木町見聞記・北のまほろば(街道をゆく四十二)

 日本は、火山の国である。

 そのもっとも活発なころ―旧石器時代―大陸から人類はとてもこの火の島にやって来ることができなかっただろう。とながく学者たちは考えていた。このため「日本に旧石器時代はなかった」とされた。

 旧石器時代のことなど、私は知らない。

 しかし以下の話は、旧石器時代から何万年かの虚空を巡り巡って、やがて意外にも太宰治の生まれた津軽の金木町の生家に辿りつくはずである。

金木町http://www.kanagi.jp/dazai/ http://www.kanagi.jp/

 旧石器時代とは、教科書風に言えば、約四百万年前(或いは約二百万年前)に始まり、約一万年前に終わる(その次が新石器時代で、日本では縄文時代という)。

 とくに旧石器時代後期(約三万五千年前から約一万年前)がきらびやかであった。

 人類はこの時期に諸道具類を発達させ、狩猟もうまくなった。

 諸道具の発達は好奇心を生み、狩の獲物も沢山摂れるようになった。余暇もできた。

 芸術が、誕生したのである。例えば、スペインのアルタミラの洞窟に住んでいた旧石器時代人は、洞窟画を遺した。パイソン、馬、鹿、猪などの姿が、黒、褐色、赤などの絵の具で描かれ、陰影法によってどのかたちも躍如としている。

 ところが、旧石器時代というものが、日本になかったという。

 しかしながら、通説とは、くつがえされるためにあるものらしい。

 昭和6年(1931)、兵庫県明石の海岸で「明石原人」といわれる旧石器時代人らしい人骨が発見されたのである。

 発見された箇所の地層は、旧石器時代とかされる洪積層(二百万年前〜一万年前)だから、そこから出土した人の腰骨と思われるもの(化石化している)は、旧石器時代の人のものであったに違いない。

 ただ学界は冷たかった。鳥居龍蔵博士(18701953)でさえ、実見することなく自然石だろうといった。

  甲乙の論議が繰り返されるうち、太平洋戦争が、この真贋論に終止符をうった。発見者の直良信夫の自宅もろとも、“原人”らしい腰骨の化石も他の遺物も東京空襲で灰になってしまった。

 ユーラシア大陸の旧石器時代のころ、たとえば日本の関東地方は、毎日が天変地異だった。

 沖積世の中期から那須火山帯の諸火山が火を噴き、灰を降らせ、いわゆる関東ローム層といわれる赤土層をつくった。学界では、関東ローム層に人間が残した物はないとしてきた。

 ところが、通説が、一片の石器でくつがえされた。

 東北方の山地から流れてくる渡良瀬川がつくった大間々扇状地にある。

「大間々扇状地」

http://www.pref.gunma.jp/d/04/kankyo/kichou/tikeishitu/itxt/t_096.pdf

「赤城山南麓」

http://www.pref.gunma.jp/d/04/kankyo/kichou/tikeishitu/itxt/t_030.pdf

  群馬県の桐生駅の西に、岩宿という小地名がある。

 東北方の小地名から流れてくる渡良瀬川がつくった大間々扇状地

にある。又、赤城山の南麓の台地といってもいい。岩宿に小さな独立丘陵があって、丘陵の鞍部を割って、切通しがつくられている。

 その切通しの断面に、関東ローム層(ローム Loam ふくまれる粒子の大きさによる土壌の分類のひとつ。粒の大きさが、粘土(粒径0.002mm以下)、シルト(0.002から0.02mm)、砂(0.02から2mm)がほぼ同じ分量まじっているものをさす。関東地方の台地をおおう茶褐色の火山灰層は、おもに粘土化した火山灰からなるが、粒子構成がロームによく似ていることから、関東ローム層とよばれている)が露出していた。

 戦後ほどなく、ここを通りかかった若い人が、この層から人工のものらしい黒曜石の石片を見つけた。

 相沢忠洋という人である。

相沢 忠洋  (相沢忠洋 あいざわただひろ 1926〜89 昭和期の考古学者。日本列島における縄文時代以前の旧石器文化(→ 石器時代)の存在を立証した

東京に生まれ、1937年(昭和12)に群馬県桐生市に転居する。17歳で横須賀武山海兵団に入団し、戦後、桐生市に復員した。納豆などの行商をしながら縄文土器や石器の採集と研究をつづけ、46年に同県新田郡笠懸村(現、笠懸町)にある切り通しの崖(がけ)の関東ローム層内から剥片石器を発見した。この地に注目し、採集をつづけて49年には黒曜石製の槍先形尖頭器をみつけた。

当時の学界では1万年以上前の更新世(関東ローム層堆積時代)には文化の存在がみとめられていなかったが、これらの石器類や出土層のことを芹沢長介に話し、同年9月には芹沢をはじめ明治大学の杉原荘介らを中心とする発掘調査がおこなわれた。その結果、縄文時代以前に日本列島には人がすみ土器をもたない石器文化が存在することが学術的に確認され、翌年にも第2次調査がおこなわれた。岩宿遺跡はその後、広く認知され、また日本の旧石器時代研究の基礎となった。

相沢は、その後も赤城山周辺を中心に旧石器文化遺跡の発掘調査を精力的におこないながら、研究と著述、講演などにはげみ、私設の赤城人類文化研究所(前身は東毛考古学研究所)なども創設した。

これらの業績で1961年には群馬県功労賞、67年には第1回吉川英治文化賞を受賞。著書「岩宿の発見」(1969)はベストセラーになり、教科書にも掲載された。ほかに「赤土への執念」(1980)や「赤城山麓(あかぎさんろく)の旧石器」(1988。共著)などの著書がある。群馬県新里村には相沢忠洋記念館が開設されている)

 この人は納豆の行商するかたわら、考古学を研究してきた。毎朝納豆売りのためにこの切通しを通るのである。

 石片の発見後も、通るたびにこの切通しの観察を続けていたが、昭和24年(1949)早春のころまでに、数片の黒曜石の石器を見つけた。さらに同年早春にはついに黒曜石製の石槍を発見した。

 火と灰のなかで、驚くべきことに、人が住んでいたのである。

 この層は、約二万五千年前から噴火をはじめた浅間山の火山灰によってできたものだということがわかっている。

 その間に、人類が住み、石器を残した。つまり日本にも旧石器時代が存在した。

 この相沢忠洋の発見を、学問として裏付けたのは、明治大学考古学研究室の杉原荘介http://www.interq.or.jp/gold/waki/sugihara/index.html 助教授

191383)らの岩宿遺跡調査である。昭和24年の秋。

 杉原助教授らは多くの旧石器時代の遺物を発見しただけでなく、特徴の異なる二つの石器文化層が存在することを見つけた。

 日本先土器(土器を伴わない文化)考古学が、にぎにぎしく開幕したといっていい。

 札幌の開拓記念館の考古学者、野村崇氏が、私の青森県下を歩くというので、ついてきてくださった。

 野村さんにとって、青森県を歩くことは、無意味ではない。とくに下北半島や陸奥湾の沿岸は、北海道考古学にとっての外縁である。最も青森県の考古学的世界にコンパスのシンを置けば、北海道の考古学的世界が外縁になって、両者は重なりあっている。

 明治大学考古学研究室が刊行した冊子に、「考古学者・杉原荘介」などがある。

 それらによると、この人は、日本橋の和紙問屋の旦那だったらしい。このあたり、商人だった19世紀の考古学者シュリーマンに似てる。

 昭和6年(1931)、東京府立第三中学校を卒業すると、家業を手伝い、かたわら、同好会を通じ、人類学の鳥居龍蔵や考古学の森本六爾に師事した。

 一方、いつかは玄人になるべくフランス語とドイツ語を、東京外語の1選科に学んだというから、人生設計の見事な人だったといえる。

 昭和12年(1937)、父の死とともに家業を継ぎ、4年後の28歳という年で、明大専門部地歴科に入学した。在学中、既に「原史学序論」という著作があったという。

 戦後、文部省に勤務し、ほどなく明治大学講師になった。昭和24年(1949)、助教授になって早々、岩宿遺跡を発掘した。

 もっとも、発掘の初期にはなおも日本には旧石器時代はなかったという通説に固執する学者もいて、後藤守一教授に「後藤さん、晩節も汚すから、杉原君なんかの尻馬に乗るな、岩宿の石器なんかだめだよ」といったという。杉原荘介の個性に対する反発も混じっていたのかもしれない。

 そのあと、青森県北津軽郡金木町の町域から旧石器時代の石器がでた。という情報が入り、杉原助教授は大学から予算をもらい、発掘隊を組織して現地に行った。

 結果らいうと、「偽石器」と呼ばれるもので、自然が作ったニセの石器だった。

学問にも時の勢いというものがあり、杉原荘介ほどの人でも、通説をくつがえした風圧に自ら巻き込まれたというふうに理解せねばならない。

 町では、発掘隊全員の宿舎として、太宰治の生家を用意した。もっとも既にその生家は、旅館「斜陽館」になっていた。

 金木町の町長や教育委員長などが一同のために宴席をを設け、挨拶があったが、杉原荘介助教授は、内心苦しかったに違いない。

 その後、次々に旧石器時代の遺跡が各地で発見されて、今では珍しくはないものになっているが、ともかく、学問史の初段階というのは、歴史の革命期のように劇的である。

 野村さんはこの“事件”より数年後に入学したが、恐らく研究室の勃興記のこの沸騰した気分はまだ続いていたのではないか。

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