翡翠の好み

北のまほろば(街道をゆく四十二)

 この県は、奥がふかく、なにやら際限もない。

 夜になると、太古のにおいがする。山河が、舗装道路で縦横にきざまれつつも、残った自然のなかに、遠い世が残っていそうでもある。もっとも気のせいかもしれない。

 気のせいの話をする。

 青森市は、たとえばおなじ県庁所在地の熊本市が江戸時代のにおいを残しているのに対し、現代的な標準化がすすみ、家屋、道路、商店街のどれをとっても、無個性にちがいない。そのくせ、なにかがある。

 青森のまちで、夕食をとった。帰路、小ぶりなビルや住居の並ぶ横町めいた道を歩いた。建物がみな白い。

 角のマンション風の家を通り過ぎながら、羊羹を細く切って横に置いたような特異な屋根構造を見上げた。似たような屋根を県下で見た記憶を思い出しながら、鈴木克彦氏に問いかけた。

「鈴木さん、洋館風の家が多いですね」四角く切ったような、無愛想なほどの造形である。

 「いえ、つまりムラクセツです」

 と鈴木さんはいった。私にとっさには意味がわからず、かといって聞き捨てるには語感がおもしろすぎた。ひょっとすると、考古学の用語かとも思った。

やがてその言葉が、この県での雪対策をふまえた新しい屋根構造の用語だと気づいた。無落雪。

 「おなじ青森県でも、南部地方は雪が少ないんです」

 鈴木さんは、津軽の青森市に来て、家々の屋根から積雪が不意に大量落下するのを知った。落雪は隣り近所の迷惑になるため、平素からそうならないように防ぐ。それでも落雪する。

 「ムラクセツ」「そうです」鈴木さんがうなずくと、どこか考古学寂びている。

 話がかわるが、中央公論社の山形真功氏が、江戸時代の津軽・南部・下北の地図の写真をくれた。

 その地図を見ると「狄村」(てきそん)という記入がある。

 狄とは中国の古典のなかの言葉で、北方の民族のことをいう。江戸期、この北方の藩ではアイヌ村のことを、気取って?そうよんだのである。

 言うまでもなく、本義と異なる。

 本義の狄は、古代中国の春秋時代(紀元前770403)に、中国北方にいた牧畜民族のことである。当時、中国では異民族が中原(ちゅうげん)近くにもいて、例えば後の秦の始皇帝以後、天下政治の中心になる陝西省の渭水の流域でも狄の遊牧するのが見られたという。

 津軽藩で言う狄の場合、アイヌ民族をさす。縄文以来の採集生活を捨てなかっただけの人々で、藩ではコメという基準の上に立ち、コメを作らぬこの人々を差別したのである。繰り返し言ってきたが、江戸時代、コメを管理する者を武士、コメをつくる者を農として、それ以外は冷遇された。

 それにしても、中国の古代文献の「春秋」や「国語」に散見する狄という文字を、縄文文化の正統の子孫であり、第一義の日本人というべき人達に当てたというのは、なんとも挨拶の仕様もない。

しかし私には、江戸時代の青森県にアイヌが存在したというだけで、夢も心も豊かになる。この県は、宏大である。

 そういうわけで、この紀行は、長くなりそうである。まだ津軽もおわらず、南部や下北にも至っていないのに、夏がきてしまった。

 そのうち、大阪の自宅で朝日新聞の夕刊をひろげたとき(1994716)一面トップに大変な記事が出ていることに驚かされた。

 「4500年前の巨大木柱出土」という。

 青森県にである。縄文中期という大昔に、塔までそびえさせているような大集落遺跡が見つかったのである。

 ヒトは、農業をはじめてから、ムラをつくり、やがて国をつくった。

 縄文時代のような採集生活では、一家族か数家族が移動して暮らすために、ムラをなさない。

 そう思われていたのが、青森県の縄文時代はよほど文化が熟していたのか、大集落をもち、集落としての秩序をそなえ、高々と望楼のような構造まで持っていたのである。

 場所は、青森県郊外の三内丸山である。

 多数の竪穴式住居の周りには、食料倉庫かと思われる高床式の建物が数十棟もあったようである。共有の倉庫跡も見つかった。食料の貯蔵という思想がこうも濃厚に存在したということも驚きの一つだった。彼らは採り歩き、食べ歩いているという古い縄文観は、まったく覆った。

 巨大な柱穴が六個出てきた。

 その関係位置や深さから察して、楼閣跡であることは容易に推察できる。

 柱の太さは薬師寺の三重塔の柱に匹敵するという。これよりもはるか後世(ほぼ二千数百年後)の弥生時代の佐賀県吉野ヶ里遺跡から望楼の柱穴が出た。それより二千年も古い。

 柱穴の直径から想像して、高さ20mはある望楼或いは楼閣かと想像されている。

   

      

 白昼夢のような話である。

 港町から出発した青森市の市街地は、陸奥湾という、懐のひろい入海に面している。遺跡が出てきた三内という地は、海岸の低い丘陵地帯である(当時、今の青森市街地は海底にあり、海は遺跡の丘のふもとまできていた)。

 はるかに時代を下ってみる。戦国時代にはこの丘陵上に小城があったらしい。

 江戸時代は、桜の名所だった。

 寛政8年(1796)といえば、ナポレオンが将軍として活躍したり、英国ではジェンナーが種痘に成功したりして、世界史はヨーロッパを中心に活気づいてくる。ただし江戸期日本では世界史とは別の時間が緩やかに流れていた。

 漂泊の生薬学者にして文人だった菅江真澄

http://www.shiojiri.ne.jp/~monya/masumi/

は、この年の春414日、三内に花見に出かけた。そのことは、真澄の「すみかの山」にある。

 真澄の当時の三内は、広やかな地域名であった。内三内、小三内などにわかれ、どの山も桜に満ち、“千本桜”などといわれもした。真澄は、いう。

  遠近(おちこち)の何処の山も、村里いったい、すべて紅(くれない)の雲がたなびくように、うすい色の桜花が咲きわたっている景色は、たとえようもなく美しい。

 その地下から大きな縄文遺跡が出たのである。最も真澄は、出土品からみてこの辺に古代遺跡が眠っているとうすうす察していたのだが。

 ともあれ、青森に行ってみた。

 青森空港に着いたのは722日(1994)の夕方で、このところ猛暑つづきで、空港で既に30度近かった。

 夏の青森は、冬の雪が嘘のように緑があふれていた。タクシーが、緑の下を掻い潜るようにして北に向かうのだが、夏の青森県を見る限り、人の故郷としてこんないい所はないと思われた。

 もっとも、手放しではほめられない。(冷夏さえなければ)

 と、一方で思った。げんに去年は冷夏で、凶作をもたらした。オホーツク海上空からヤマセという冷たい風が、白く冷たい水蒸気を伴って吹いてくる。風が、水蒸気のかたまりになって、目に見えるという。

 「顔に、べっとりと冷や汗のようにくっついて」実に気味の悪いものだ、と鈴木さんもいう。

 その気味の悪さは、凶作という、江戸時代なら大量餓死をまねいたこの上ない不幸な先入主に結びついているのである。

 が縄文時代では、そうでもなかったに違いない。当然、年によってヤマセが吹く。

 「今年の夏は、涼しくていい」

 と、三内丸山に住む縄文人の人々はのどかに言ったに違いない。稲作という重荷がなかったからである。

 丸山とは、三内のなかの小地名である。以前から縄文前期・中期の遺跡が調査されてきたが、こんどのは、圧倒的な規模をもっている。

 若し古代ギリシャ人が、縄文中期にここに来たとすれば、これは一種のポリスではないかというかも知れない、と思ったりもした。

 発掘の現場の一角に立ってみた。想像したよりもずっと広く、発掘作業の人達が遠目はるかに動いていて、最も遠い林のそばの人達の姿などはヒマワリの種子のように小さくみえた。一緒に来た編集部の柘一郎氏が「黒澤映画のロケ現場みたいですね」と、いった。この人は二週間前にテニスをして、足の腱を切った。まだ予後なのに足を引きずりながら、無数の発掘上の作業杭の縁から縁へと飛び歩いた。好奇心が飛び跳ねているようだ。

 残っている柱は、みなくり材だという。単なる丸太ではなく、表面が平らに加工されている。石器しかないころに、どのようにして立ち木を伐り、加工したのだろう。

 出土した土器の破片は、おびただしかった。

              

 

 「ダンボール箱に数万個ありました」と、発掘調査を担当する県(埋蔵文化財センター)の岡田康博主査が、タオルで顔の汗をぬぐいながらいった。

 板状の大きな土偶も出てきた。既に漆が使われていて、黒漆が塗られていた。

     

鋭角的な容貌の、セクシーな女性像である。

墓地も出てきた。

 定められた地区にある共同墓地で、住居群の地区から谷一つ隔てた向こうにある。ほぼ百ほど出た。面白いのは子供の共同墓地だけは住居群近くに置かれていたことである。子供たちが寄る辺を失うことを大人たちは気遣ったのに違いない。七百ほどもあった。

 ある谷は、食べ物の捨て場だった。

 クジラ、タイ、ヒラメなど海産物が多かった。陸奥湾の恵みの大きさを思うべきである。

 瓢箪の種子も出てきた。栽培としての瓢箪は、世界の古代遺跡から出る。

水を汲むなどの器物として使われていたのである。

 又、ニワトコの種子も出土した。わざわざ栽培していたとなると、或いは酒を造ったのかとも想像できる。

 縄文時代、世界で一番食べ物が多くて住みやすかったのが青森県だったろうということを、私も考古学者たちの驥尾(きび)に付してそう思い、いわば“まほろば”だったと考えてきた。

 それが、土中から現れようとは思わなかった。

 さて高楼のことである。

 現場で、私はただ一つの想像をするだけにした。

 農耕時代になって政治的権力が現れる。だから、採集の世の楼閣は、首長の権力を現すものではなかったろう。

 人々は、丸木舟に乗って、海で漁をする。おえると、この高楼をめざして帰ってきたのに違いない。

  夜、漁から戻らない者があると、「高く、火を焚け」というのが、首長だったに違いない。闇の海で方角を失った者は、望楼の火を見つつ帰ってくる。首長は、情義の機関だったのではないか。むろん宗教的存在といってもいいが。

 翡翠も、出てきた。

  

   

 鈴木克彦氏の専門の一つは日本古代の玉(ぎょく)で、翡翠はその中でも、縄文時代から古墳時代まで権威の装飾物であった。鈴木さんは当然詳しい。

 翡翠は、越後の糸魚川の産である。

 鈴木さんによると、青森県の縄文遺跡から出る翡翠は独特の形に成形されているという。共通の好みがあったのであり、それこそ文化の成熟を示すものではないかと思った。

 岡田主査が、現場で二個の翡翠を見せてくれた。野球のボールほどのもので、二つとも紐通しの孔が、綺麗に貫通されている。

 手に乗せると、ばかに重かった。

 人が海から帰らぬ日、赤々と望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が―この翡翠を首からぶら下げて―待っていたのであろうことを想像した。

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