日本文化の源流
「みちのくの果てに栄えた華麗な文化」

   北上川の哀感                     

   東北の旅でつくづく感じたのは、北上川の重要さである。私たち日本本島の中央部に住む人間は、川というものは日本列島を横断するものだと思っている。

  真ん中に山脈があって、そこから東西あるいは南北に川が流れる。ついうっかりと、そう思ってきた。実際日本の川は、多くそのように流れているのである。

   しかし、北上川は違う。それはまさに、東北地方を縦断する川なのである。それは東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの多くの水を集めて、長く南下するのである。従って、川の流域には縄文時代から多くの人間が住みついて、この川が一つの交通路となって、ここにひとつのまとまった社会をつくったに違いない。縄文時代から物資の交流は驚くべきほど盛んであるが、その交流に、北上川が大きな役割を果たしたことは言うまでも無い。北上川は、この地の土着民にとっても重要な意味をもった交通路であったろうが、蝦夷征伐を試みる大和朝廷もまた、北上川を北上して徐々にその支配地を広げたのである。

   多賀城、伊治城、胆沢(いさわ)城、徳丹城、すべて北上川の流域にある。この、蝦夷にとって「母なる川」というべき北上川は、まさに大和朝廷の侵略の進路と化したのである。平泉の藤原氏の遺跡のある北上川、安部氏の滅びを語る北上川、賢治の童話に出てくる北上川、啄木の歌に出てくる北上川。北上川にはどこかに悲しいイメージが伴っているのは、このような歴史のせいだろうか。しかし、その北上川も七時雨山(ななしぐれやま)(標高1060m・岩手県)のあたりで尽きる。そこから川は、東と西に流れるのである。

 俘囚(ふしゅう)の民 (蝦夷とアテルイ)

幾たびかの蝦夷征伐によって、中央政府の権力は徐々に北上していくけれど、しかし征伐の軍隊が退去してしまうと、なかなかその占領地は守られない。そこで、戦争で捕らえられた捕虜即ち俘囚を城や柵の中に置いて、倭人の軍人の指導のもとにその城を守らせるという方法がとられるのである。いってみれば「夷を以って夷を制す」という中国の伝統的な異族支配の方法が適用されたわけである。倭の捕虜となり、生活も順次倭人化していった俘囚の蝦夷と、昔ながらの生活を守ろうとあえて倭人の支配を拒絶しょうとした蝦夷のあいだには、大きな政治的、文化的ギャップができて、その間に敵意が生まれてくるのは当然のことであろう。この辺のことを、中央の権力者たちは十二分に計算をしていたのであろう。

  恐らく長い抗争の結果であろう、自ら蝦夷の支配地と朝廷の支配地のあいだには、境界が定められた。高橋氏(NHKテレビで、高橋富雄氏が天台宗を解説し、天台宗の再発見の功績は大きい)によれば、岩手県及び秋田県と青森県の県境は、平安時代においてもなおかつ王朝の威に伏しない蝦夷と、王朝の支配下にある蝦夷との国境の意味を持っていたというのである。この国境の北辺の町に、天台寺は建てられたというのである。誰によって。安部氏によって、と高橋氏は類推する。高橋氏は、安部氏は遅くとも十世紀末から十一世紀のはじめにかけて、奥六郡の俘囚長としての地位を得たと考える。そしてこの安部氏は、前九年の役で源義家に滅ぼされるまで約200年のあいだ君臨したのである。

  「記紀」に、長髄彦は、はっきりと大和の原住民であった。その長髄彦は、神武天皇即ち、神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)よりいち早く大和にきていた物部氏の祖先である饒速日命(にぎはやひのみこと)とともに、この地方を統治していた。恐らく長髄彦は縄文土着の民であり、饒速日命は弥生渡来の民であったにちがいない。恐らく弥生中期ごろまで、このような土着縄文民と渡来弥生民との協力からなる権力が、この地を治めていたのだろう。しかしこの権力は、南九州からやって来たはなはだ武力の優れた弥生民によって征服された。ここに、大和朝廷の基礎がつくられるわけである。恐らく新たに渡来した農耕民は、同血のよしみゆえであろう。饒速日命は許して家来にしたが、長髄彦は殺してしまう。長髄彦の仲間が全て殺されたとは思われない。もしも長髄彦に兄があり、それが逃げたとすれば、やはり東へ逃げるより仕方がないのである。そしてその子孫が、大和朝廷の何度かの蝦夷征伐によって東へ北へと逃げ、遂に北の果てまで逃げていったということがあったとしても、不思議ではないように私は思われる。

  この話は、全くのつくり話かもしれない。しかしこの話は、北辺に住む人間のひとつのはっきりした自己主張を物語っているように思われる。自分たちは、弥生渡来民によって征服された縄文土着民の血を引いている。と代々伝えられた伝承であるように思われる。

    磨消縄文の世界

  日本列島全体をその支配下に置こうとする朝廷の強烈な意志も、なかなかこの本州の北端、津軽の地に及ばなかったのを、先の天台寺の調査で知った。津軽は最後まで強大な中央の権力に抵抗をし続けていたのである。何故津軽はただ一人中央権力に抵抗したのであろうか。それを津軽人自身が意識したかどうかはわからないが、やはりこの縄文土器に象徴される。この地で栄えた素晴らしい文化の故ではなかったかと思われる。縄文晩期という時代、今から三千年から弐千年前にはこの地に素晴らしい文化が栄えていたのである。それを、その土器の名にちなんで、亀ケ岡文化という。

 縄文時代は、二つの文化の興隆期をもっていると私は思う。一つは縄文中期時代。今から約五千年から四千年前である。この縄文中期時代に最も優れた文化を生んだのは、諏訪湖沿岸を中心とする中部山岳地帯であろう。その土器には、燃えるようなエネルギーと奇怪なミスチィシズムが感じられる。蛇や蛙やフクロウや或いは人間までが土器いっぱいはねまわるような不思議な土器である。そのエネルギーとミスチィシズムの本質は良くわからないが、そこに高度な宗教的精神の燃焼があったことは間違いない。

 縄文中期を経て後期に入ると、西日本と東北を除いて遺跡の数も急速に少なくなり、土器もかってのようなエネルギーを失うのである。磨消縄文(すりけし)縄文という、一旦書いた縄文を消した部分と縄文の部分のコントラストによって、静かで深みのある美を表現しょうとする土器があらわれたのは、この時代なのである。丁度技巧の限りを尽くした絢爛たる唐の芸術に対して、宋の芸術は、技巧を消し、色を消して無の世界の中に、かえって技巧以上のもの、色以上のものを表そうとしたように、磨消縄文土器は装飾の限界までいきつくした中期の土器の文様を抹消することによって、美の変化を求めたものといえる。

 亀ケ岡式土器は、この磨消縄文の世界である。最盛期には、この土器は、北は北海道の半分、南は近畿地方までを覆い尽くしたらしい。最近神戸の遺跡から亀ケ岡式土器と遮光器土偶が発見され、あらためて人々に亀ケ岡文化の浸透の広さを感じさせた。

 

この強大な文化力の背景には、あるいはそれを支えるような軍事力や経済力があったのかもしれない。

 縄文中期から後期にかけて、遺跡の数は減少した。縄文後期において、関東や中部にたいして遺跡の数が増加させた西日本は、どういうわけか縄文晩期になると、その数を著しく減少させる。恐らく、温度の低下せいであろう。ひとり東北だけが、縄文中期から殆ど横ばいの状態なのである。どうして気候的には悪条件であるはずの東北が、この温度の低下ににもかかわらずその文化を発展し続け、ついに縄文晩期にその文化的頂点に達しえたのか、その理由はわからない。

    縄文文化の美  (古代の美のスライド

 縄文土器は科学的には一応明らかになったが、それで縄文土器を理解したとはとてもいえないのである。縄文土器を理解するには、縄文土器をつくり使った人達がいったい如何なる生活をし、いかなる思いでこの土器をつくったかを明らかにする必要がある。

 この縄文土器の美を発見したのは、岡本太朗である。美というのは既に存在しているのであるが、やはりそれは誰かによって見出されるものである。日本の仏教の美を見出したのは岡倉天心であった。

 縄文土器は科学的に明らかになり、芸術的にもその美を認められたといえる。しかし、それによって縄文土器が理解されたとはいえないのである。

 今若し、縄文土器の代表を中期の諏訪地方の土器にとり、それを弥生式土器と比べると、そこに明らかに表現意志の違いがある。弥生式土器の場合、それは甚だ機能に忠実である。瓶なら瓶、壺なら壺がどのようにあるべきか、どのような瓶や壺が最も使用に便利であるか。そういう機能性によって弥生式土器は作られている。そして弥生式土器には文様が殆ど無い。僅かに、或いは口のあたりに、或いは首のあたりに、少しだけ線が刻まれているだけである。それを貫く表現意志は、機能性の意志であり、単純化への意志である。この弥生式土器のかたわらに縄文式土器、特に中期の諏訪地方の土器を置いてみると、それが全く違った精神に貫かれていることが良くわかる。

  縄文土器はどうゆう風に使われたかはよくわからないが、その形は普通の意味の機能を大きく離れている。むしろその形は機能に抵抗し、機能を否定するかのようにすら見える。しかもその文様も誠に複雑であり、文様が立体化し、土器から逸脱せんばかりである。そこに支配しているのは機能性への意志ではなくして、呪術性への意志であり、そのあまりにも強烈な呪術性は過剰な形となり、複雑な文様となり、土器の外に溢れんばかりなのである。このような芸術意志は、亀ケ岡式土器においてもまだ残っている。しかしこの亀ケ岡文化には、あの諏訪文化とは違った一つの落ち着きがあるように思われる。晩期になると、土器は日常的なものと祭祀的なものと二つに分かれるらしい。美しい文様のついた土器はどうやら祭祀用で、日常の土器には簡単な文様が施されていた。

     土偶の呪術性

   亀ケ岡文化を特徴づけるものは、何といっても土偶である。特に遮光器土偶といわれる、あの目の大きい土偶は素晴らしい。土偶はいったい何を表そうとしたのであろうか。

  土偶は、殆ど女性であると言われる。確かに多くの土偶は、豊かな乳と臍と女性のセックスを持っている。そして明らかにお腹に子供をはらんであると思われる土偶が多い。しかもその土偶の顔は、誠におかしい顔である。極端に顔が扁平であったり、目が極端に大きかったりする。とても人間のリアルな模造とはいえない。

  弘前市立博物館で見せて貰った十腰内(とこしない)から出土したという猪の土偶と、青森県立郷土館にある弘前市の尾上出土の熊の土偶は、まさに猪と熊のまことにリアルな模造なのである。特に十腰内の猪の像は素晴らしい。

 

   縄文人は、このように猪や熊の誠にリアルな模造を作ることが出来たのである。とすれば、人間の模造も模造も分けなくつくることが出来たはずである。然るに、人間のリアルな模造がないのはどういうわけであろう。人間の像は、全て抽象芸術家のつくった作品のようにデフォルメしてあるのは、いったいどういうわけであろうか。

  私はやはり、それは像にたいする恐怖ゆえではないかと思う。人間と同じ像を作ったら、その像にその人間が魂が奪われるのではないか。又、悪い人間や神がいて、その像に呪いをかけたら、たちまちのうちにその人間は死んでしまうのではないか。

  アイヌは鏡を嫌う。アイヌは、写真を最も恐れたという。鏡に映った像や写真に呪いをかけられたらどうなるか。このような恐怖は、縄文人には最も強かったに違いないのである。あの猪や熊の体にもいろいろ線が施されているが、それは恐らく何らかの呪術と関係があるに違いないのである。人間の像を作ることは、ここでは強いタブーなのであろう。すると、あの土偶なるものは人間の像ではないと考えねばならない。恐らくそれは、死霊の像であろう。この死霊は、何らかの鎮魂を必要としているのであろう。恐らくは、お産で死んだ女か、子供をはらんだまま死んだ女なのではなかろうか。お産で死んだり、子供を腹に抱えたまま死んだ女は、何らかの意味で汚れている死霊であり、鎮められ清められるべきものであったに違いないのである。土偶を作って、その土偶に死霊をうつして何らかの祭りをする。そして、その土偶を墓のように作られた石のあいだに埋める。それは、この地方の縄文人にとって、宗教的に重大な意味をもった儀式であったにちがいないのである。

  土偶は多く、どこか体の部分が破壊されている。完全な土偶が出土した例はまだない。五体完全な土偶があるとすれば、それはむしろ偽者である。大抵の土偶は足がない。何のためか。私はこれは、土偶に象徴される死霊が再び生き返ってくるのを阻止する為であろうと思う。

  恐らく、縄文晩期になって、このような宗教的儀礼は大変盛んになったのであろう。それが、恐らく、あの巨大な遮光器土偶をつくらせたのではなかろうか。あの巨大な遮光器土偶の目についてよくわからない。若し、今日い強いて説明するならば、アイヌのユーカラでは死んだ人間を二つに分かつが、一つは目のある死人と、一つは目のない死人である。目のある死人は、再び東の空に昇天して復活することが出来るけれども、目のない死人は西の空に消えていき、もう復活することが出来ない。巨大な目をしていながら、しかも深く閉じ込められている目は、目のある死人を表現しているように私は思われる。何か不幸な死に方をした女、その女の死霊を清め、鎮め、そしてそれを黄泉(よみ)の国の永久の闇へ沈めるのではなくして、明るい東の空に返して、再生させるようとする、そういう愛情があの、世にも奇妙な遮光器土器を作らせたのではないだろうか。

 「火焔土器」・「磨消文様」               

   私は、岡本太朗と共に、縄文土器こそ、日本が生んだ世界に誇る芸術であり、

  日本の美意識の一つの原形がそこにあると考えているが、数ある縄文土器のうちでも、この馬高式と呼ばれる火炎土器は最も素晴らしい。

  火焔土器に現れる精神は、爆発する神秘主義といってよかろう。その曲線は、波や風の運動に見られるような自然の霊の動きを表していると思われる。それは火焔土器においてはまさに、土器そのものを越えて、噴出し、怒号する。殆ど極限に達した宗教的なエネルギーの放出である。

  日本列島は、氷河時代において、もともと大陸の一部であった。それが氷が溶けるにつれて大陸から離れ、ほぼ一万年前には大陸から完全に孤立してしまったのである。それは余りにも恐ろしい体験である。自分の住んでいる土地がだんだん沈んでいく、恐ろしい日本人の原体験であったと思われるが、日本の神話にはこの話はない。この地面の沈下、海面の隆起は、今から約六千年前と言えばそれほど古いことではなく、縄文中期から前期にかけてである。火焔土器において頂点に達するあの縄文の神秘主義は、このような陸の沈下、海の高まりの恐怖とは、はたして無関係であろうか。

  縄文中期の神秘主義は、後期になると鎮静され、おとなしい文様となる。一旦描いた縄文を磨り消してそれを文様にする磨消文様(すりけし)が出来るが、それは地面の沈下の恐怖から開放と或いは関係があるのではなかろうか。

  磨消縄文の世界・亀ケ岡文化

    縄文中期を経て後期に入ると、西日本と東北を除いて遺跡の数は急速に少なくなり、土器もかつてのようなエネルギーを失うのである。磨消縄文という、一旦書いた縄文を消した部分と縄文の部分のコントラストによって、静かで深みのある美を表現しょうとする土器が現れたのは、この時代なのである。丁度技巧の限りを尽くした洵爛たる唐の芸術にたいして、宋の芸術は、技巧を消し、色を消して無の世界に、かえって技巧以上のもの、色以上のものを表そうとしたように、磨消縄文土器は装飾の限界までいきつくした中期の土器の文様を抹消することによって、美の文化を求めたものといえる。

   亀ケ岡式土器は、この磨消縄文の世界である。最盛期には、この土器は、北は北海道の半分、南は近畿地方まで覆い尽くしたらしい。最近神戸の遺跡から亀ケ岡式土器と遮光器土偶が発見され、改めて亀ケ岡文化の浸透の広さを感じさせた。

    土偶の呪術性

   亀ケ岡文化を特徴付けるのは、何といっても土偶である。特に遮光器土偶と言われる、あの目の大きい土偶は素晴らしい。土偶はいったい何を表そうとしたのであろうか。

  土偶は殆ど女性であると言われる。確かに多くの土偶は、豊かな乳と臍(へそ)と女性のセックスを持っている。そして明らかにお腹に子供をはらんでいると思われる土偶が多い。しかもその土偶の顔は、まことにおかしい顔である。極端に顔が扁平であったり、目が極端に大きかったりする。とても人間のリアルな模造とはいえない。

  弘前市立博物館で見せて貰った十腰内(とこしない)から出土したというイノシシの土偶と、青森県立郷土館にある弘前市の尾上出土の熊の土偶は、まさにイノシシと熊の誠にリアルな模造である。

  縄文人は、このようにイノシシや熊の誠にリアルな模造を作ることが出来るのである。とすれば、人間の模造も分けなくつくることが出来た筈である。然るに、人間のリアルな模造がないとはどういうわけであろうか。人間の像は、全て抽象芸術家のつくった作品のようにデフォルメしているのは、いったいどういうわけであろうか。

  それは像に対する恐怖ゆえではないかと思う。人間と同じ像を作ったら、その像にその人間が魂を奪われるのではないか。また、悪い人間や神がいて、その像に呪いをかけたら、たちまちのうちにその人間は死んでしまうのではないか。アイヌは鏡を嫌う。写真も最も恐れたという。あのイノシシや熊の体にも色々線が施されているが、それは恐らく何らかの呪術と関係があるに違いないのである。人間の像を作ることは、ここでは強いタブーなのであろう。

  すると、あの土偶なるものは人間の像ではないと考えねばならない。恐らくそれは、死霊の像であろう。この死霊は、何らかの鎮魂を必要としているのであろう。恐らく、お産で死んだ女か、子供をはらんだまま死んだ女は、何らかの意味で汚れている死霊であり、鎮められ清められるべきものであったに違いないのである。土偶を作ってその土偶に死霊を移して何らかの祭りをする。そして、その土偶を墓のように作られた石の間に埋める。縄文人にとって、宗教的に重大な意味をもった儀式であったに違いないのである。

  土偶の多く、どこか体の部分が破壊されている。完全な土偶が出土した例はまだない。五体完全な土偶があるとすれば、それはむしろ偽者である。大抵の土偶は足がない。何のためか。私は土偶に象徴される死霊が再び生き返ってくるのを阻止する為であろうと思う。

  縄文晩期になって、このような宗教的儀礼は大変盛んになったのであろう。恐らく、あの巨大な遮光器土偶を造らせたのではなかろうか。あの巨大な遮光器土偶の目についてはよくわからない。

                 

  「日本文化の源流を探る」「故郷・東北」青森県   津軽市

            百年前に東京に都が遷る前には、近畿地方に都があった。奈良、京都が政治の中心地であって、そして政治の中心地は同時に文化の中心地であった。この畿内から、東北は遠く離れている。そればかりか、この土地には蝦夷(えぞ)と呼ばれる「まつろわぬ民」が住んでいた。蝦夷は「まつろわぬ民」ばかりか、日本人の殆どがたずさわっている水稲稲作農業になじまないのである。それで、甚だ野蛮で原始的な狩猟採集生活を、長い間捨てようとしなかった。甚だ野蛮で未開で、そのくせ、傲慢で、容易に大和朝廷に服従しない、甚だ厄介な人間であったのである。そのような蝦夷の住む国というイメージが、日本の中央、畿内にいる日本の支配者の、東北に対するイメージであった。

  世界最古の文化

  東北は決して、歴史の初めから文化の果てるところではなかった。

 縄文時代、特に後期から晩期にかけて、東北は正に日本文化の中心地であった。今日、日本いたるところで数多くの縄文遺跡が見出され、古くから日本に於いて、狩猟採集文化としては、世界でも有数な高度の文化が栄えていることがわかり始めた。

 日本の土器の最も古いのは、カーボン鑑定の結果、マイナス一万二千年と鑑定された。文明発祥の地とされるメソポタミァ地方の最も古い土器は、マイナス八千年である。日本の土器はそれより四千年も古いのである。

 元東北大学教授の芹沢氏は「たとえ、ヨーロッパに於いて、日本の土器より古い土器が発見される可能性は乏しいとしても、東アジア、特に中国においては、日本の土器より古い、或いはマイナス一万三千年、一万五千年というような土器が発見される可能性がある」という。

 土器の発生地が東アジアである可能性は、かなり高い。或いはそれが日本である可能性もなきにしもあらず。と思われる。少なくとも日本は、土器文化が最も早くから発生し、最も豊かな発展をした国の一つであるということが出来る。

   土器文化   土器  土器のスライド

  土器文化が、人類の生活の偉大なる革命であったことは間違いない。

 何故ならば、それは食生活に大幅な変化をもたらしたからである。今まで、食物を焼いて食べていた人間が、土器を使って、食物を煮て食べることが出来るようになった。それは人間の生活の大きな革命であったと言わねばなるまい。

   土器と質において、日本は世界最高の文化を誇れる。

 土器が生み出されてから五千年経った頃、木の繊維を縄にして、それを土器の表面にこすりつけて文様を付けることが発明された。それは勿論装飾的な意味を持つものであろうが、それ以上に呪術的な意味を持つものであろう。

それは木の精を土器に注入し、それによって土器を、人間の生活を悪霊から守ろうとするものであろう。

 この縄文の文様が発明されるや、この文様のある土器はたちまちのうちに日本全国に広がり、そして北は千島、樺太から、南は沖縄までひろがっていく。しかも興味深いのは、縄文土器は対馬まで行くけれど、対馬海峡を越えて、朝鮮半島に発見されることは少ない。縄文土器は不思議なことには、今の日本領土とほぼ一致するのである。

 縄文土器の芸術的な美しさを発見したのは岡本太朗であった。日本の伝統芸術には、何一つ満足させるものはなかった。ピカソの影響もあって、岡本は、アフリカの土着人の芸術とどこかで共通なものをもつ縄文土器や土偶に、素晴らしい芸術を見出したのであろう。

   連綿として流れる循環の思想

   土器のイオマンテ

  三内丸山遺跡からは、大量の土器が出土している。しかも、その土器は、割れた破片や未完成・不完全品といった不用品を捨てたと言うのでなく、盛り土をして完成品を埋めたとしか考えられない状態で出土しているのである。これは土器の貝塚だと考えている。

  貝塚は、貝も骨も丁寧に並べられて、盛り土された場所であり、再びこの世に戻ってくるようにとの願いを込めて、貝の霊をあの世に送る場所である。

「土器のイオマンテ(土器祭り)」というような祭りが行なわれていたのではないかと考える。その意味では、彼等にとって土器も生き物と同じなのである。

  後年、聖徳太子は法華経を中心とする大乗仏教を受け容れたが、その思想の根底には、「山川草木悉皆成仏」―――全てのものに生命が宿る―――があった。

現代でも機械や道具が壊れた時、「お釈迦になった」「お陀仏になった」という。

 「成仏した」と言う意味である。それは、仏教の影響と言うよりも、土器のイオマンテに象徴されるように、縄文時代人たちの精神生活の根底には、「自然の循環体系の中では、全てのものに生命が宿る」というアミニズムがあった。

(梅原猛著 抜粋)