日本の基層文化

 「日本の基層文化」       

  縄文時代に求められる。

 縄文文化は、狩猟採集文化である。その文化は原始的なものではなく、生産力の高い高度な狩猟採集文化であった。海に隣接した三内丸山は海産物が豊富に手に入り、川から川魚、集落の背後には自然の森が広がり、クリなどが取れていたが、自然に生育したものを採集していたのではなく、人工的に栽培されていたことで、非常に生産力の高い集落であったと見るべきである。

 この集落は、自給自足の自己完結型の集落ではなく、幅広い交易・交流が行なわれていた集落である。

 この時代の日本は、中国の影響を強く受けていたようだ。

 今から7000年程前、中国の揚子江下流域で稲作技術ができると、稲作は急速に広がり、5000年前頃には、稲作農業を基盤とする都市文明が揚子江沿岸に生まれた。その都市文明は、ヒスイを原料とする玉器を崇拝する文明であった。後にこの文明を滅ぼし、黄河流域に文明を作ったのは黄帝の子孫(後の東漢氏)もまた青銅器に玉器文明の伝統を受け継ぐほど、影響力の大きい文明であった。

 中国の玉器文明の影響を強く受けて、新潟県糸魚川周辺の「越」のヒスイが大切に扱われた。そして、日本の基層文化を考える上で非常に重要なこととして、稲作を輸入しなくても、食糧を十分に調達出来るだけの生産力を持った文明が日本に存在していたことを物語っている。三内丸山遺跡を通して見る縄文時代の日本には、豊かな食料生産を背景にした、からり質の高い文明が存在したと考えられるのである。

   基調は「木の文化」 

 縄文時代と言えば、縄文土器のイメージがある。しかし、三内丸山遺跡からは、それらの土器に加えて、実に見事な木製品が発掘されている。

 縄文文化と言うのは、人間が森の中で自然と一体になっている文化である。

木造の住宅や丸太をくり貫いた船などは言うに及ばず、衣類や道具などの生活必需品も、当然、樹木に依存していたはずである。ただ土器や骨角器などに比べて、木製品は腐敗し易いため、残っているのは極僅かであるが、あくまで生活の基盤は森に依存していたに違いない。

 縄文文化は、非常に多様で変化に富んだ土器や骨角器を作った文化だから、生活の基盤にあった木製品はもっと精巧で、変化に富んだものを造っていたに違いない。それを証明するかのように、樹皮を十分に編んだポシェットが発見され、直径30cm程もある見事な漆塗りの皿をはじめ、多くの漆の器が発見された。現代でも東北地方は漆が盛んだが、現代と寸分違わない皿が、今から5000年も前の縄文時代に作られていたことは大変な驚きである。

  東北アイヌに息づく縄文「人間の魂」

 飛鳥・奈良・京都といった都の華やかな文化の背景には、もっと別の文化があるのではないか、即ち、日本文化の基層というべきものが、即ち、縄文文化であった。

 華麗な都の文化は、農耕を基調としているが、その農耕が日本に入ってきたのは今から2000年前のことであり、それ以前の日本列島には、1万年も続いた狩猟採集を中心とした縄文文化が存在している。とするならば、いかに農耕が優れた文化であったとしても、農耕以降の日本文化の基層に縄文文化が浸透しているに違いない。

  「縄文文化は日本の基層文化」

 縄文の遺跡としては最大の規模のものであると思われる三内丸山遺跡は、明治維新まで、まだアイヌ人が住んでいたと思われる青森で発見された。その期間も5000年前から3500年前までの長期にわたってである。その文化も物心両面において、甚だ高く、現代日本文化の基層を形成するものと言って良い。

 縄文文化は土器の文化であると共に木器の文化であり、沢山の芸術的なかなり高い漆塗りの木器が発見されている。巨大な皿のようなものまでもが発見され、縄文人がその皿にいっぱい海の幸を乗せて宴会をしたことを物語っている。恐らく、そこに刺身の起源があるに違いない。

  「子供の墓」  

 縄文時代、アイヌ人と同じように縄文人は子供を大人と別の葬り方で葬ったわけであるが、それは遠いあの世から帰ってきた先祖の霊の生まれ変わりである子供を、すぐにあの世に送るのは忍びない、再び母の胎内に帰って次の子になって生まれて来いという切なる願いを示したものであろう。これ以上悲しい顔が無いというような泣き叫んだ女の土偶が見つけ出されるが、それは全ての土偶がそうであるように子供の原の中に宿して死んだ妊婦の葬儀に用いられたのに違いない。

 三内丸山遺跡からでた妊婦の土偶はそのような悲しみの中から造られたものであることを示している。

 縄文土偶の謎(縄文時代の世界観)    

 縄文土器は芸術的に素晴らしいが、縄文時代の芸術品として、土器と共に土偶がある。岡本太朗に言わせれば、三千年前から岡本太朗を真似する芸術家が

いたと言うことになる。土偶を愛した太朗が何時の間にかその影響を受けたと言うべきであろう。ピカソは、黒人芸術に大きなショックと影響を受けて、あの抽象主義の芸術という斬新な芸術運動に踏み切ったのである。

 縄文時代の芸術的遺品と言うべき、あの奇妙な顔をした土偶は、いったい何を表し、何のために造られたのだろうか。

 それには、歴史学・民俗学・文化人類学・宗教学・神話学などあらゆる学問を綜合して、縄文人の世界観というものを明らかにしない限り、その答えを見出すことはとても不可能であろう。

  縄文土偶は何であるか。@ 土偶は妊娠した女性像である。土偶は全て女性の像である。そして、女性の幼女・老婆のものは一体もなく、全て妊娠している女性像である。A 土偶にはハート型土偶・ミミズク型土偶・筒型土偶・遮光器型土偶など、様々な土偶があり、その姿形は一様ではないし、現実の人間の形をしておらず、極端にデフォルメされたものであるという特徴がある。特にその目が異様である。穴が開いてぽかんと見開いているような目や、真一門に閉じた目がある。B 土偶には全て腹の真ん中に縦一文字に切り裂いたような線がある。この線はよほど重要な線であり、まさにそれなくしては土偶は土偶でありえないと考えられているのであろうか。C 土偶は全てバラバラに壊されている。全て頭が取られたり、足が取られたりしている。土偶は初めに完成品として造られたものであろうが、何らかの宗教的理由のために壊されたのであろう。

  以上の4つの条件が全ての土偶に共通する条件であるが、なお少数の土偶にのみ当てはまるもう一つの条件がある。それは、土偶の中に極めて丁重に葬られた土偶があるということである。あたかも人間の死体を埋葬するように、土を掘り、石を並べて、そこに体の一部を失っている土偶が丁重に愛情を込めて埋葬されている。

  縄文の土偶は死んだ妊婦の像であるようだ。死んだ妊婦は、普通の死者や幼児のように葬られるべきだはない。それは特別な葬り方が必要である。何故なら、妊婦は胎児を宿している。それ故に胎児を取り出して葬らねばならないが、それには何らかの人形が、縄文時代には土偶が、明治の時代でも福島県では藁人形がそえられて葬らねばならなかったのではなかろうか。

  土偶は死んだ人間の像であるから、生きた人間の像と全く違うことは確かである。ハート形土偶・ミミズク形土偶・筒形土偶・遮光器形土偶など色々形は違うが、それは決して活きている人間を表すものではなく、死んだ人間を表すものであるとするなら、死霊については人間の空想力が働くので、それが生きている人間の像ではないという共通点を持ちながら、死霊についての観念の違いによって様々に表現されるのが当然であろう。

  全ての土偶がバラバラに壊されている、という条件も説明がなされる。

アイヌの社会では強く、日本の社会ではかすかに残っているが、この世とあの世はあべこべの世界であり、この世で完全なものはあの世では不完全、この世で不完全なものはあの世で完全なものという観念があるので、死者に供えるものは壊されることが多い。土偶はまさに、そういうふうに、この世で壊されることにより、かえってあの世では完全なものとして再生しようとする願いを秘めたものであろう。

   

  縄魂の遺跡(森の文化)

  日本文化を、圧倒的な縄文文化の影響の基に立つ文化だと思う。

 縄文文化は狩猟採集文化、日本ではむしろ漁労採集文化なのである。狩猟採集・或いは漁猟採集は約1万年前、人類が農耕牧畜を発明する以前、何万年、或いは何十万年の間、人類が踏襲してきた生活の方法であるが、日本では約1万2千年前の土器が長崎県佐世保市福泉寺洞窟で発見されている。これは、文明の発祥地と言われるメソポタミア地方で発見される最も古い約8000年前を遡ること4000年である。ということで、土器は日本で発明されたものかどうかについては議論があるが、土器文化が金属文化のような西アジアの発明ではなく、東アジアの発明であることは、まず間違いないであろう。

  土器の発明は生活に大きな革命であったに違いない。何故なら、それは食料の幅を飛躍的に広げたからである。東アジアで興ったこのような生活の革命がもっと評価されても良いのではないか。それにしては土器の発明があまりに重視されていない。そして、その従来の人類の文化史は生産用具の発明が基本であり、金属器、即ち鉄器・銅器の発明が画期的な意味をもつ土器は森から生まれた。森の木の葉が積もってよい粘土となり、土器ができた。この土器をもった漁猟採集文化、としては高度に発展した縄文文化が約1万年の間、日本列島に花咲いたのである。

   縄魂弥才(日本人は縄文人と弥生人の混血)   

  日本固有の宗教であるが、それは神道には森がつきものである。何故神社に森があるか。縄文時代には日本全土が森であった。神のいる場所には森が必要である。神道は縄文時代以来のものであり、それ故にどうしても神々は森にいなくてはならなかったのである。勿論森には植物や動物がいる。つまり、神々は植物や動物を養う自然であり、植物や動物そのものであった。それで、縄魂は弥生時代以後も末永く残り、現代でも日本人の精神の基層を形成していると言わねばならない。

 日本において、神のことを数えるのに、一ハシラ・二ハシラと数える。何故神のことをハシラというのは解らないが、恐らくそれは、古くは柱そのものが神であった名残を残すものであろう。

  古い日本の神道によれば、神はもともと神殿に閉じ込められているようなものでは無かった。それは自由に空を闊歩し、飛翔するものであった。その神が降りてくるのは巨大な木を通じてである。柱はそういう巨大な木の抽象化されたものであり、それは神がそこに伝わって降臨すべきものであった。

 柱はそのように天と地を媒介し、天にいる神の霊を地上に降ろし、地上にいる人の霊を天に送るものであった。その柱が木でできているとは、縄文文化は本来森の文化であり、森に住む人たちは、まず木の霊に強い信仰を捧げたことによっても説明できるのである。ドングリを中心にした彼等の食物はまさに木に依っていて、そして、その着物も家も、ドングリと共に彼等の主要植物である魚を獲る舟もまた木で出来上がっているのである。

  木の繊維を削って縄状にし、それを土器の表面にこすりつけて作られる、いわゆる縄文、ももともとは巨大な力を持つ木の霊を土器に注入し、悪例の侵入を防止するために工夫されたものである。

  ウッドサークルの遺跡が日本の各地で発見される。サークルと言うものはもともと天体の運動と関係があるのであろう。太陽の運動に象徴される天体の運動はサークル状をさしているが、その太陽と言うもの、当時の人にとっては生と死の間を往復するものと考えられていたのである。太陽は夕方に死に、翌朝生き返る。そのお蔭で我々は夜、太陽と共に寝て死の世界へいき、翌朝太陽と共に起きて生の世界へ帰ると考えられていたのである。そういう宇宙観を背景にした天と地の交点を示す遺跡なのであろう。

 ストーンサークルは縄文時代における生と結びの神の信仰を表すものである。細長い石が放射状に横たえられ、その真ん中に大きい長い石の棒が直立しているのである。これはまさに女陰と男根の結合、セックスを表すものであろう。また、ストーンサークルの下は往々にして墓になっていた、甕をかぶせられた屈葬の死体が埋められている。これはやはり生と死の往復を願うものであろう。

 「空想と熱狂の地・津軽」

   祭りと死霊                       

  ねぶたの起源は、坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあるという。この地方には、やたらに坂上田村麻呂の話が多い。坂上田村麻呂はこの地を中央政権の支配下においた英雄であるが、古くからこの地に住む人にとっては、平和な楽園を荒らして罪もない大勢の人々を殺した悪党に違いないのである。平和なこの地を土足でもって踏みにじり祖先たちを殺した、都からきたこの悪党を、どうしてこの地の人はかくに崇拝するのか。「悪党」と言う人はいないのであろうか。私は津軽人が少し人が良すぎるように思われるが、それはそれで津軽人の計算があるに違いない。「坂上田村麻呂がはじめた」ということになれば、すべては許されるのであろう。かっての都の英雄を楯にして、自分たちの文化を主張する。これが津軽人の知恵かもしれないのである。

 「ねぶた」というのは何に由来するのか、よくわからないらしい。私は、それはアイヌ語の「ネプタ」から来るのではないかと思う。アイヌ語の「ネプタ」というのは、「それは何じゃ」(What is it?)である。全く訳のわからない情熱が、津軽の人を熱狂させる。

 しかし、ねぶた祭りは結局は精霊流しなのである。日本のあらゆるところにある風習、お盆の時期に死霊を迎えて、しばらく死霊を家で遊ばせて、また送り返す。

 お盆の行事は聖徳太子のときに始まる。推古14年(606)、聖徳太子が法興寺に丈六2体の釈迦像をつくって、その完成祝に「勝蔓径」(しょうまんぎょう)の講義を始めた時であると思う。お盆の季節は「安居」(あんご)といって、厚いインドでは何もしないで休む時である。法興寺は今でも「安居院」と呼ばれているが、それはその時の名残であろう。

 ところが聖徳太子は、その安居のときを死者供養のときとしたようなのである。彼は、亡き用明天皇の供養のために「勝蔓径」や「法華径」の講義をし、そしてその聖徳太子の講義をめでて推古天皇の下された播磨国の土地をもって法隆寺建立の費用にあてたのである。

 ここで、お盆と死者供養は密接に結びついたわけである。夏には死霊が帰ってくるという信仰が日本にあった。その信仰に聖徳太子は仏像を結合させたのであろう。

 この聖徳太子の政策によって、仏教は日本に定着したといってよい。仏教本来の教えの中に、死霊の供養という行事は殆どないのであろう。しかし、この時以来、死者の送りと死霊の供養は最も大きな仏教の行事となってしまったのである。お正月とお盆ばかりでなく、彼岸の時も春秋二回、死霊が生きた人間

のところへやってくるのである。春秋二回死霊がこの世にやってくる、そんな教えは仏教には全くないのである。

 暗闇の中に燃える火、その火をめがけて死霊が集まってくる。古代の日本人は、人間の霊を鳥のようなものと考えたのであろう。どこか遠い空に飛んでいる祖先の死霊はわが子孫の焚く火を見て、里に帰ってくるのである。こうしてしばらく子孫のもとで滞在し、子孫に手厚くもてなされた先祖の霊は、また空に帰っていくのである。夜、子孫の焚く火に見送られながら。 

 八月は、東北の祭りの季節である。それは実は、お盆の季節である。死霊が人々のところを訪れる時期なのである。この死霊の迎え方、慰め方、そして送り方は、東北の各地によって異なるのである。しかし、その意味は同じである。

青森のねぶた、弘前のねぶた、恐山の大祭(地蔵会)も秋田の竿灯も岩手の猪祭りや山伏神楽も、同じように死霊を迎え、それを喜ばせ、それを送る祭りなのである。

   ストーンサークルの謎

  大湯(おおゆ)のストーンサークルには、数ある中では、量も大規模なものであった。放射状に並べられた石の真ん中に、細長い石が直立している。それがストーンサークルのセットである。

   

 そのセットをなした石郡が、環状に並んでいるのである。そして、その真ん中には、ひときわ整然とした、放射状の石に囲まれ直立した石がある。それが、だいたいストーンサークルの共通な性格なのであろう。大湯のストーンサークルの一隅には、縄文時代の骨が出てきたともいう。そうすれば、ストーンサークルは墓場であるに違いないが、必ずしも墓場ではないストーンサークルもあるのである。斜里の郊外に二種類のストーンサークルがある。一つは確かに墓場であるが、もう一つは違う、真ん中には火を使った跡があり、焚き火をしたらしいのである。

 ストーンサークルがいかなる意味を持っていたのか、よくわからない。石は古代人にとってどういう意味か。石はいわゆる神の依代(よりしろ)である。依代になる石が磐代(いわしろ)と呼ばれる。

 石えを崇拝する、それはやはり、人間が石器を作り始めたときから始まるのではないだろうか。人間は石を加工して道具をつくった。そして石器時代の人間は実に様々な工夫を凝らし、殆ど加工することが出来ないと思われる石から、実に様々な石器を作り出すのである。そのような技術の発展と石の崇拝は、果たして無関係なのであろうか。石器時代人の石に対する崇拝は、やはり石器の生産と深くつながっているように思われる。

 このような石器の発達は、また豊かな木器を生んだ。木は人間の生活を豊かにさせた。木は家を提供し、着物を提供し、そして食物を提供する。そして旧石器時代から新石器時代に移るにいたって、このように石器の製造方法の改善とともに、木器の種類も著しく増えたに違いない。そして遂に土器が出現する。こういう文明を提供するものとして、石が火とともに崇拝されたのだと、私は思う。

   石柱は宇宙のシンボル

  ストーンサークルは、ただの石の崇拝だけでは考えられないのである。その崇拝される石は、放射状に並べられた石の真ん中にある石なのである。この細長い、天に向って直角に立つ石の意味は何か。恐らくそれは、一つの柱であるに違いない。それは天と地を媒介する柱に違いない。最近、北陸の地、近森や真脇で発見された巨大な木の柱のサークル、それはストーンサークルとそんなに意味が変わるとはおもわれないのである。いずれもそれは、天に向って直立している柱の崇拝なのである。それはやはり、天と地上を結ぶものなのである。神は、その柱を伝わって天上から地上に降りることが出来るが、しかし又、その柱を伝わって地上から天上に昇ることも出来るのである。若し、ストーンサークルの幾つかが墓であるとしたならば、その柱は神を天に送る柱という意味をより強くもっているのであろう。そこに祀られているのが人間の霊である

ならば、その人間の霊を柱に依って天に送り届ける。そういう意味を、この直立した石や木の柱は担っているのではないだろうか。

 サークルはやはり、天体を意味するものであろう。太陽が東から昇って西に沈む。それをやはり古代人は、一つの円運動と考えたにちがいないと私は思う。それは最も簡単な自然観察によって見られるところであるし、また、科学的にも正しいのである。天動説をとるにせよ、地動説をとるにせよ、やはり天体は円運動をしているのである。古代日本人もまさに天体の運動を円運動として捉えたわけであるが、それは勿論純粋物理的な円運動ではなく、ひとつの意味をもつ円運動を意味したのであろう。

 太陽は東の空からあがって、西へ沈む。それは生と死なのである。太陽は夜になってひとたび死んで、またその翌日蘇えって、東の空から昇るのである。天体の運動の中に、日本の古代人は生、死、再生へのドラマを見るのである。このドラマは毎日起こっているし、もっと長いスパンにおいては、毎年起こっているのである。冬になると、太陽の力が弱まり、殆ど死のうとする。しかし、春になると、やがて太陽はその力を回復して、人間の世界に様々な幸をもたらすのである。ストーンサークルやウッドサークルのサークルは、そのような生と死を象徴する天体の運動の表現であるように思われる。従って、死のほうに重点が置かれた墓場にも、或いは生の歓喜を現す祭場にも、そのようなサークルがつくられるのであろう。

   アイヌと古代日本人

  私が、前々から、蝦夷の文化は縄文の文化であり、その蝦夷の文化のながれをくむものがアイヌの文化だと思っていたので、アイヌ文化に、あるいは日本の古代文化、縄文文化の流れを汲むものがアイヌの文化だと思っていたので、アイヌ文化に、あるいは日本の古代文化、縄文文化の謎を解く鍵が含まれているのではないかと思った。アイヌは日本人と全く違った人種であり、その言語も文化も日本のそれとは全く関係ないというのが日本の学界の常識であった。しかし私は、どうしても私の考え方が間違っているとは思われなかった。アイヌは蝦夷ではないか。そして蝦夷は日本の北辺にいて、狩猟採集文化を続けていたではないか。

 藤村氏と会って、藤村氏が中心となって開拓記念館で出している、アイヌの霊に関する調査報告書を読んで驚いた。アイヌ語に最も大切な霊を表す六つの言葉が、全て古代日本語のその言葉が、全て古代日本語と関係があるのである。カムイ、ピト、イノッ、ラマト、タマ、クル、これらの霊を表す言葉は古代日本語のそれと全く同じものもあるし、今まで謎であった古代日本語のその言葉が、アイヌ語によって初めて理解できるものもある。しかもこの霊の観念が、アイヌと古代日本語では全く同じと言ってよいのである。

   なまはげの祭り

  なまはげは、坂上田村麻呂に殺された蝦夷の霊を祀る祭りであるともいわれる。多分そうであろう。坂上田村麻呂はやまと朝廷の支配を広げた英雄であるが、ここにいる蝦夷にとっては乱暴な闖入者(ちんにゅうしゃ)に過ぎななかったであろう。恐らく彼は、強大な武力によって、次々とこの地にいる蝦夷の長を葬っていったのであろう。殺された蝦夷の長の霊が、恐らくこの遠征によって大和朝廷の支配下に置かされたこの地の住民に、祟り(たたり)をしない筈がない。祭りの日になまはげが出てきて、里の人を驚かす。そして里の人はなまはげを祀って、その怒りを鎮めるのであろう。

 「ハケ」即ち「パケ」は、アイヌ語では頭をいう。とすれば、なまはげと言うのは生頭、生首ということになる。それとも、その「パケ」は蝦夷のパケ、即ち蝦夷の頭という意味かもしれない。

 一般に東北の祭りは、全くの土着のものか、何らかの意味で蝦夷征伐と関係のあるものが多いように思われる。

   縄文土偶の謎

 @ 縄文土器は芸術的に素晴らしいが、縄文時代の芸術品として、土器と共に土偶がある。この土偶にハート形土偶というのがあるが、その土偶の一つが岡本氏の造った「太陽の搭」によく似ている。岡本氏に言わせれば、三千年前から岡本太朗を真似する芸術家がいたということになる。やはり、土偶を愛した太朗が何時の間にかその影響を受けたと考えるべきであろう。縄文の土偶は種類は色々あるが、その姿形ははなはだデフォルメされていて、とても通常の人間のリアルな彫像とは思えない。このような土偶を見て、ピカソをその創始者とする抽象芸術家の彫像を思い起こす人も多かろう。

 ピカソは、黒人芸術に大きなショックと影響を受けて、あの抽象主義の芸術という斬新な芸術運動に踏み切ったのである。黒人の彫像には頭と胴体のバランスが異常なものや、一つの胴体に二つも三つも顔のついているものがある。そういうものから、ピカソの絵のような極端に胴体と頭のバランスが悪かったり、或いは前から見た人間の顔と、横から見た人間の顔が同居しているような絵画が導出されるのに、そんなに飛躍した想像力は必要ないのである。

 しかし、驚くべきことに、ピカソは、彼が強い影響を受け、抽象芸術運動の創出の母体となるはずの黒人の芸術の背後に、いかなる世界観が隠れているかを一度も問おうとしなかった。黒人は、ピカソのように抽象芸術を作らんとして、そういう像を作ったわけではない。その像で表そうとしたものは祖霊、或いは死霊なのであろう。祖霊或いは死霊が現実の人間とは全く違ったバランスの崩れた顔や姿態をもっていたり、あるいは一つの胴体に二つも三つも顔があっても不思議ではないのである。こういう祖霊や死霊にたいする尊敬と恐れでもって、彼等は一つ一つの彫像を祈りを込めて作ったはずである。ピカソがデフォルメされた人間の像だと思ったものは、実は祖霊や死霊の像であったわけである。

A        縄文時代の芸術的遺品というべきあの奇妙な顔をした土偶は、いったい

何を表し、それは何のためにつくられたのであろうか。

 それには、歴史学、民俗学、文化人類学、宗教学、神話学などのあらゆる学問を綜合して、縄文人の世界観というものをある程度明らかにしない限り、その答えを見出すことはとても不可能であろう。実は、私も縄文土器の魅力に取り付かれ、日本文化の基層に縄文文化が存在すると考えざるをえなくなって以来、この縄文時代の世界観について考え続けてきた。そして、その結果、縄文人の世界観がある程度見え始めてきた。それによって縄文の土偶は何であるかという点についても、一つの仮説を提出することができるようになった。

1、            土偶は妊娠した女性像である。土偶は全て女性の像である。しかも、その女性像は幼女や老婆のものは一体もなく、すべて妊娠している女性像である。腹の大きく膨らんだものも、さほど腹の膨らんでいないものもあるが、少なくとも妊婦であることを否定できる像は一体もない。土偶は全部妊娠した生年の女性の像とみて差し支えないであろう。

2、            土偶は全てデフォルメされた人間の像であり、とくに其の目は異様である。土偶にはハート形土偶、ミミズク形土偶、筒形土偶、遮光器形土偶など、様々な土偶があり、その姿形は一様ではないが、それはとても現実の人間の形をしておらず、その姿形は極端にデフォルメされたものであるというところに土偶の特徴があろう。とくにその目は異様である。穴が開いてぽかんと見開いているような目や、真一門に閉じた目がある。

3、            土偶には全て腹の真ん中を縦一文字に切り裂いたような線がある。傷のようにえぐられた線もあるが、また盛り上がったような線もある。私は、最初は、へその緒ではないかと思ったが、へその緒と考えるにはあまりにその線は長く、しかも深く刻まれている。この線はよほど重要な線であり、まさにそれなくしては土偶は土偶でありえないと考えられているのであろうか。

4、            土偶は全てバラバラに壊されている。今日、博物館にバラバラにされた土偶を補修した土偶の完成品が飾られているが、実際の土偶にはそういうものはない。土偶は全て頭が取られたり、足が取られたりしている。土偶は初めに完成品として造られたものであろうが、何らかの宗教的理由の為に壊されたのあろう。

以上の四つの条件が全ての土偶に共通する条件であるが、なお少数の土偶にのみ当てはまるもう一つの条件がある。それは、土偶の中に極めて丁重に葬られた土偶があるということである。あたかも人間の死体を埋葬するように、土を掘り、石を並べて、そこに体に一部を失っている土偶が丁重に愛情を込めて埋葬されている。これは一部の土偶にしか当てはまらない条件であるが、たとえ一部の土偶でもこういう土偶があるということは、土偶は何であるかを解明するのに重要なヒントを与えるはずである。とすれば、土偶は何であるかを明らかにするには、この五つの条件を説明できる簡単にして明瞭なる仮設を提出しなくてはならない。私は十年前にそういう条件を考え、その条件を満たす仮説を考え続けたが、容易に土偶の謎は解けなかった。ところが、ある日、偶然に思いがけないところで、一人の老婆の語った話によって、この積年の謎を解く手がかりを見つけた。

B        浦川ハルさんというアイヌのお婆さんがいる。通称タレ婆さんといい、92歳になるが、私のアイヌ学の先生にあたるアイヌ文化研究者、藤村久和氏の先生である。タレ婆ちゃんは17歳のときまでアイヌの両親の下でアイヌ語で生活していたが、その後、和人のもとに奉公にやられ、40過ぎまではアイヌ語は殆ど使わなかった。ところが、40過ぎになって、和人のアイヌ研究者が訪れ、タレ婆ちゃんは昔のことを思い出すようになった。婆ちゃんの記憶の底にしまいこまれたアイヌの世界がタレ婆ちゃんの口から見事に再現されて、その知識が、先には故久保寺逸ひこ氏の、後には藤村氏のアイヌ研究の有力な知識源になった。

タレ婆ちゃんは面白いことをいった。それは幼児の死の話である。全ての人間の霊が祖先の霊の生まれ変わりであるとしたら、幼くして死んだ子供をどのように葬るかが問題になる。幼い子供も、祖先の霊が再び帰ってきたものであるが、そおいう霊をすぐにあの世へ送るのはかわいそうであるし、また先祖の霊にすまないことである。そこで、アイヌの人たちはその霊を遠いあの世へ送らずに、再び母の胎内に戻して、そして次の子となって生まれることを祈るというのである。そのために、幼児の遺体は大人とは別に家の入り口のところへ埋められ、人がよく踏むように、早く次の子になって再生することを願って葬られるというのである。

 その話を聞きながら、私は縄文時代の幼児の骨が家の入り口のところに逆さになった壺に入れられて埋められていることを思い出した。壺は子宮のシンボルであり、よく踏むということはセックスの行為を象徴しているのであろう。母の胎内にかえってまた生まれて来いという願いを示す呪術的行為であろう。

 幼児の死以上に重要なのは、胎児の死の場合である。幼児はそれでわざわざあの世までいかずに、近道をしてもう一度、母の胎に戻って次の子に生まれ変わればよい。しかし、胎児はそうはいかない。それは母の胎に閉じ込められているので、その霊はあの世へ行けないことになる。それで、アイヌ社会では、妊婦を葬る場合、いったん墓場へ妊婦を葬って、その後、呪術をもっている老婦人が墓へ入って妊婦に胎を真っ二つに切り、胎児を取り出し、その退治を妊婦に抱かせて葬るというのである。それはまさしく血にまみれた宗教儀式であるが、アイヌの生死観から見れば極めて当然で、かつ重要な儀式なのである。胎児、即ち、まだ十分に人ともならず再びあの世へ行かねばならぬ霊は、このような儀式によってのみ無事あの世へ行くことが出来るのである。

 タレ婆ちゃんのこの話を聞いて私の頭をかすめたのは、あの長い間の縄文

土偶の謎であった。その謎は、この妊婦の埋葬との深い関係ということで解けるのではないか。

C        福島県で明治22年に起こった死体遺棄事件の山口弥一郎氏の論文で、妊婦をそのまま葬ることは祟り(たたり)のあることとされ、それで妊婦の胎を切り、妊婦と胎児とそれに藁人形をつくって、三体一緒に葬ることがまだ行われていて、死体損傷事件として法律的に問題になったという。明治20年代に福島県でも行われていたことを示すものであろうが、ここで私は、人形を二体の死体とともに葬り、合わせて三体にして葬ったという話がいたく気にかかったのである。縄文土偶の話は解けるのではないか。

縄文の土偶は死んだ妊婦の像ではないか。死んだ妊婦は、普通の死者や幼児のように葬られるべきものではない。それは特別な葬り方が必要である。何故なら、妊婦は胎児を宿している。それゆえに、胎児を取り出して葬らねばならないが、それには何らかの人形が、縄文時代には土偶が、明治22年の福島県では藁人形が添えられて葬らねばならなかったのではなかろうか。

 前記、五つの条件、1、土偶は妊娠した女性像である。2、土偶は全てデフォルメされた人間の像である。3、土偶には全て胎の真ん中を真一門に切り裂いたような線がある。4、土偶は全てバラバラに壊されている。5、土偶の中に極めて丁重に葬られた土偶がある。

 土偶は全ての妊娠した女性像である、という条件は、土偶が死んだ妊婦の像であるとすれば、まさにぴったりである。

  土偶は死んだ人間の像であるから、生きた人間の像と全く違うことは確実である。ハート形土偶、ミミズク形土偶、筒形土偶、遮光器形土偶など、色々形は違うが、それは決して生きている人間を現すのではなく、死んだ人間を現すのであるとするなら、死霊については人間の空想力が働くので、それが生きている人間の像ではないという共通点をもちながら、死霊についての観念の違いによって様々に表現されるのが当然であろう。

  目はぽかんと見開かれたような目や、真一文字に閉じたような目が多いのは、死人の目の表現として当然であろう。遮光器土偶は大きな目を持っているが、肝心の目は固くつむられている。アイヌのユーカラを読むと、目のある死体と目のない死体の区別があり、目のある死体は再生可能な死体を示し、目のない死体は再生不可能な死体を示す。

  土偶には全て胎の真ん中を真一文に切り裂いたような線があるという、のは、まさにタレ婆ちゃんの話のように、また、福島県のように、胎児を取り出すために切り裂かれた妊婦の胎をしめすものであろう。

この真一文に切り裂いた胎の線こそ、まさに土偶を土偶たらしめるものであり、最も、重要なシンボルとしての土偶ばかりか、土偶を簡素化、抽象化した土版や岩版にも付けられているのである。

 また、全ての土偶がバラバラに壊されているという、条件も、説明されるであろう。アイヌの社会では強く、日本の社会ではかすかに残っているが、この世とあの世はあべこべの世界であり、この世で完全なものはあの世では不完全、この世で不完全なものはあの世では完全なものという観念があるので、死者に供えるものは壊されることが多い。土偶はまさに、そういうふうにこの世で壊されることにより、かえってあの世では完全なものとして再生しょうとする願いを秘めたものであろう。

 また土偶の中には丁重に葬られたものもあるという、土偶をそのような胎児の埋葬と関係があると考えたら、容易に理解できる。

 タレ婆ちゃんの話から、私の永年にわたる縄文の土偶に関する謎は解けたのである。それは勿論仮説であるが、私は、今でも縄文の土器の謎を解く、最も明瞭にして簡単な仮説であると考えている。

 タレ婆ちゃんは、古い日本の土偶の謎を解く鍵を与えてくれた、私にとっても大切な先生である。

(梅原猛著 抜粋