日本人の心の深層

 「宮沢賢治の童話が語る日本人の心の深層」

    日いづるところ・北上 

  和賀町出身の東北大学教授の高橋富雄氏によれば北上はもともと日高見であり、常陸とともに、日のいずるところを意味するという。日本という国号も日のいずるところを意味するが、その国号はヒダカミ、ヒダチと同じく、本来蝦夷の国号であったというのである。私は「日本」という国号も、「天皇」という王号も、ともに聖徳太子がつくったと考えているが、「天皇」というのは明らかに中国の古典からとられた言葉である。これは北極星を意味し、天上の世界を支配する最も尊貴な神の名であった。聖徳太子は恐らく、この天界の王を意味する「天皇」という王号をもって、中国の「皇帝」という王号に対抗させようとしたのであろう。とすれば、日本の国王の称号は中国産である。しかし、この中国産の「国王」の称号に対して、もしも国号の方が高橋氏のいうように、全く土着のもの、即ち蝦夷から借りたものであるとすれば、大変興味深いのである。「倭」といわれていた日本の国は、著しく西に偏った国であった。弥生時代の大和朝廷の支配の範囲は、ほぼ愛知県から西であったように思われる。その支配が東に拡大されたが、聖徳太子の時代になっても、容易に関東より向こうは大和朝廷の支配に服しなかった。関東一円の、かっての蝦夷の国を大和朝廷の支配下に属せしめ、そこに仏教思想に基づきつつ、律令によって支配されたひとつの理想国をつくるのが聖徳太子の目的であった。その聖徳太子が国王の称号を中国から借りつつ倭の国と蝦夷の国を合併した国号を、蝦夷の国の国号から借りたというわけである。

 我々は、いつも中央を中心にしてしか日本の歴史を見ない。それで、日本の国が倭の国を合わして日本を名乗ったという「旧唐書」の記事や、倭の国が日本の国を合わして日本を名乗ったという「新唐書」の記事を読み飛ばしてしまうのである。恐らく、蝦夷地の出身であり、中央からのみでなく、辺境からの歴史を見る目をもった高橋氏にして、はじめて指摘できた事実であると私は思う。とすれば、北上は日高見、まさに日の本の中心なのであり、この地には安部伝説が沢山残っている。

   鬼の権現様

  鬼剣舞はお盆に行なわれ、鬼が刀や弓矢やいろいろなものをもって踊るのである。

 鬼とはいったい何であろうか柳田国男によれば、鬼は、渡来した農耕民族に追い払われた土着の狩猟民族の遺民であるという。弥生族に追われた縄文人、大和朝廷に滅ぼされた安部氏の霊が、お盆に鬼となって現れたものであろう。

この地の人たちは、自分たちが一方で、安部氏を滅ぼした権力者の血を受けて

いることを知っている。しかし、他方では、自分たちの血の中に滅ぼされた安部氏の血が濃厚に入っていることも知っている。その安部氏の血が、一年に一回、安部氏の怨霊(おんりょう)が鬼となって現れ、かっての安部氏の恨みをはらすのを喜ぶのである。あの世からやってきた、すさまじい顔をした安部氏の怨霊。その怨霊に、彼等は自らを同一化し、従順な良民に戻るのである。信仰の名における祖先送りの儀式、それがこの地の人々を鬼剣舞に夢中にさせるのではないか。

 鬼剣舞と共にこの地で盛んなのは、シカやイノシシの面をつけて踊る鹿踊り(ししおどり)である。この“鹿”のことを「権現様」というのである。つまり、“鹿”は決して神の使いではなくて、神そのものなのである。神が姿を変えて、“鹿”となったというのである。それ故に、“鹿”即ち権現様は、神として祀られる。この“鹿”の話はアイヌの熊の話を思い出させる。アイヌにとっては、熊はカムイ、神であった。熊は本来、天上において人間の姿をして、人間と同じような社会をこしらえて生活している。ところが、その神である熊が仮想して、即ち、熊の皮をつけ、熊の肉を持って人間の世界にあらわれるというのである。何の為か。それは人間に、ミァンゲ(みあげ)を贈る為である。つまり、熊はその肉を土産として、人間のところに仮装をつけてあらわれる客人なのである。それ故、人間は、その客人の意志を尊重して、その客人を丁重にもてなし、ミァンゲである肉を有りがたくいただき、その魂を天に帰さなくてはならない。決められた儀礼に従って熊を天に帰す。即ち、丁重に殺して、沢山のミァンゲ――酒や魚や団子を土産として、熊の魂を天に送らねばならない。

 それがアイヌのイオマンテ(イ=それを、オマンテ=送る)という祭りなのである。このような熊祭りに似たものが、日本の本土においても行なわれていたのではないかと思われる。そして日本本土では、熊の代わりに猪が神として送られたのではないかと考えられる。考古学者の森浩一氏は、銅鐸にある猪を殺している絵は、狩猟の絵ではなくて猪送りの絵ではないかという。日本のあちこちの遺跡から、丁度北海道で放射状に並べた熊の頭蓋骨が出るように、放射状に並べた猪の頭蓋骨が出る。北海道において、熊が最も多くの肉を人間に提供する動物であったと思われる。そのように最も多くの肉を人間に提供する動物こそ、縄文人にとって最も有り難い動物であり、従って、それは、神の化身と考えられるのではないか。

 このように考えると、日本各地に残っている鹿踊りの意味が良く解るような気がする。鹿踊りの盛んなところ、例えば岩手県、新潟県、何れも縄文文化の栄えたところである。この縄文文化、蝦夷文化の地に鹿踊りが盛んなのはどういうわけであろう。私はやはり、それは、アイヌの熊祭りに比すべき鹿祭りの名残ではないかと思う。アイヌは熊の頭に皮をつけたものを祭壇に祀って、あの世に送る、丁度そのように、衣をつけた“鹿”頭は、熊祭りのとき祭壇に祀られた熊の頭のように、もともと皮を残した“鹿”の頭ではないか。とすれば、“鹿”をこの土地の人が「権現様」と呼ぶのも無理も無いことなのである。

    縄文の遺民・マタギ

   浄土真宗の寺の住職で沢内村の村長をしている大田祖伝さんのつくった碧称寺博物館というマタギの博物館を見るために。マタギというのは、山に住んで熊や鹿を捕り生計を立てている猟師である。農耕の民とはだいぶ違った生活をし、その言葉も特殊な言葉を使っていたらしい。中部地方の山あいにいた山窩(さんか)という民とも、さほど違わないらしい。狩猟採集の山民、縄文の遺民というべきであろう。

 太田氏はこのマタギに着目し、生活の用具を採集したのである。秋田県や岩手県を中心に、南は福島県、新潟県から北は青森県にいたるまで、五百点にわたるマタギの用具を集めたのである。これは大変立派なことであると私は思う。

何故なら、マタギは完全に姿を消そうとしているからである。昔のままの縄文時代の風習を守り続け、徐々に増えていく周囲の農民から孤立し、軽蔑の眼で見られがちであったものの、かろうじて細々と生活してきたマタギは、戦後民主主義の時代を迎え、急速に衰退したのである。

 マタギの伝承と作法は、幻のごとく消えてしまった。その幻の資料をなんとか残そうとして、太田氏は自分でマタギの用具を集めたわけである。重要有形民俗文化財の指定を受けたが、それは国なり自治体がすべきことであった。国や自治体なりがそういうことをしなかったのは、マタギの生活を、農耕生活より一段と低い一時代前の未開な生活と考える偏見があったからであろう。この碧称寺博物館にはマタギの道具のみでなく、縄文土器から民俗用具に至るまで、この地方のあらゆるものが集められている。他にも興味深いものが多いが、何といってもマタギの道具の蒐集は素晴らしい。例えば、ワラダというものがある。束ねた藁をドーナツ状に五巻ほど巻いたものである。これを空中に投げると、ヒューという鷹の飛ぶような音がするが、それを聞いた野兎が、鷹が来たと錯覚して、穴に入るのを待ち構えて捕らえるというのである。野兎の習性を利用した猟法である。

 マタギは、恐らく縄文の遺民と考えられるが、大部分のマタギは天智天皇の子孫であると信じていた。清和天皇のとき、日光山の麓に万次万三郎(磐次磐三郎)というものがいた。万三郎は天智天皇の17代の子孫であったが、都から流されて日光山の麓に住んでいた弓の名人であった。その時下野(しもつけ)の日光山権現と上野(こうずけ)の赤城明神とが争って、赤城の明神には大ムカデに化けて日光山権現を襲うとしたが、万三郎は大ムカデを退治し、日光山権現を救ったという。それで日光山権現は大変喜んで、それ以後、日本のどこの山でも自由に立ち入ってかまわない、という許しを与えたという。

 マタギは、このような話の書かれた巻物を山達根本(やまだちこんぽん)として所有していたというのである。マタギは、恐らく大昔から日本の山々に自由に出入りして、狩をしていた縄文の遺民にちがいない。しかし、農耕時代の到来と共にそのような自由が認められなくなるのである。マタギはその先祖代々の自由を、天皇と日光山の権現をもって守ろうとする。自分たちは天智天皇の17代目の子孫である万次万三郎の血を受けていて、しかも清和天皇の御世に日光山権現を大ムカデに化けた赤城明神から救った。それで自分たちは、日光山の権現から、全国の山に出入りする特権を与えられている。この伝説が何時出来たか、わからない。もしもこの伝説が徳川時代以後に出来たとすれば、それは朝廷と幕府の二重の権威によって自分の生活を守ろうとしたマタギの知恵の生み出したものであろう。

 マタギは色々な獲物を捕ったが、特に鹿を多く捕ったらしい。しかし、彼等の最も重視する猟はやはり熊猟であった。何故なら、熊は高く売れたからである。皮も勿論高価であったが、何よりも熊の肝は徳川時代末まで万能薬として珍重され、熊の肝一匁は米1俵と交換されるほどであった。肝ばかりではなく、骨の黒焼きは強請剤として、小腸は安産のお守りとして、そして冬眠明けの熊の糞までも子供の癇の薬として、高く売られていたのである。恐らくこれは、熊を神として崇拝した習俗の名残であろう。徳川時代の日本人にとって、熊はすでに神であるという特権を失っていたが、しかし、依然として熊は霊力をもち続けていた。その肝は、万病をたちどころに治す効果を持っていたのである。

マタギの家族もまた、熊の肝を売って歩いたらしい。熊の肝といって、疑わしいものもあったらしいが、この地方といい、富山といい、薬売りの多い地方は、縄文文化の栄えたところであるのも偶然ではあるまいか。

 博物館では、マタギの生活用具と共にマタギの信仰の道具が展覧されている。

マタギの神は山の神であるが、山の神は女神である。この女神が最も好きなのは、男根とオコゼであるという。男根が好きとおっしゃるのは誠に人間的な女神である。また、12人で山入りする時は、必ずサンスケという人形をもっていったらしい。いつか12人で山入りしたときにひどい事故に遭ったので、以後12人で山入りすることは禁じられ、やむを得ない場合にはサンスケという木の人形をもっていったらしい。その他、訳のわからない多くの神々がいる。ここにはまだ太古の信仰が生きている。この辺にはまだ仏教が人間の心の底まで浸透していない。私は、仏教が盛んである愛知県に育ったので、日本人の心の底ま

でも仏教が浸透していると思っていた。東北地方には仏教が殆ど侵入していないところである。

 太田氏がいうには、マタギはひと時の幻として消えてしまったようである。しかし、それは決してひと時の幻ではないのである。そこには何百年、何千年の間の、我々の祖先の生活と信仰の名残である。我々が自分たちの過去を知る為には、マタギの生活の研究が必要である。それには、まだ生きているマタギの人達から話を聞くことも必要であろう。

   宮沢賢治の世界・修羅の世界を越えて

  賢治のつくった数ある童話のなかで、「なめとこ山の熊」という童話ほど有名な童話は少ない。私は何度かこの童話を読んだ。しかし、この童話を今度読み返して、今までの私のこの童話に対する理解が浅いことに気がついた。実に深い、何か日本人という民族の根底にある隠された心の深層を語っているような童話である。

 イオマンテは、人間が熊の霊を神に送る儀式である。恐らくそれは、狩猟採集生活をしていた人間にとって、生きるためにはどうしても必要な動物殺害という行為を合理化するために考え出された荘厳な宗教的儀式であろう。アイヌは自らの手で養い大きくなった熊を、厳密に定められた礼法によって丁重に殺し、そしてその熊の魂を天に送る。

 私は、優れた詩人は民族の忘れた記憶を呼び戻す霊力を持っていると思う。賢治はこのような霊力を持った詩人である。「なめとこ山の熊」の話は童話である。しかし、それは子供だけが読む童話ではない。極めて深い意味をその中に秘めている童話である。

  

 宮沢賢治 みやざわけんじ 1896〜1933 大正〜昭和初期の詩人・童話作家。岩手県に生まれ、中学時代から短歌をつくりはじめた。高校受験期には妙法蓮華経(→ 法華経)をよんで感激し、以後、敬虔(けいけん)な法華信者となった。盛岡高等農林学校卒業後、上京して、田中智学の主宰する日蓮宗の団体で半年ほど布教活動に従事。文芸によって大乗仏教の精神をひろめるようすすめられ、この時期に童話創作を本格的にはじめた。

帰郷後、稗貫(ひえぬき)農学校(のち花巻農学校)教諭として4年あまり勤務し、この間に彼が「心象スケッチ」とよんだ口語自由詩を書きはじめた。1924年(大正13)に詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を刊行したが、辻潤らにみとめられた以外は、一般の関心はひかなかった。26年、農耕生活にはいり、羅須(らす)地人協会を設立。付近の農民をあつめて肥料や稲作の指導にあたったり、童話や音楽の鑑賞会をひらいたりしたが、過労と栄養失調のため病にたおれ、晩年はその多くを病床ですごした。有名な作品としては、上記のほかに、童話「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリの伝記」、手帳にしるされた独白「雨ニモマケズ」などがある。

死後、草野心平らの尽力で作品はひろくよまれるようになり、とくに地元では、敬虔で誠実な人柄によって聖者のように尊敬され、したしまれてもいる。花巻の自然との交感のうちにつちかわれた詩や童話は、豊かな文学的想像力と言語感覚にくわえて、宗教性と科学精神、社会問題への関心などをかねそなえ、近年エコロジーや教育問題への意識の高まりとともに、あらためて多方面の共感をよびおこしている。花巻市には、宮沢賢治記念館と宮沢賢治イーハトーブ館がある。(Encartより)

   「東北文化を考える」

  甦る縄文 

  東北文化への新たな視点

 従来、多くの日本人が東北地方にもつイメージは、雪に閉ざされた生産力の低い辺境の地であるというイメージと、中央政府の意向に従わない野蛮な蝦夷の住む国であるというイメージであった。東北は、この二つのマイナスのイメージを重くその背に負っていた。東北の各地の博物館などを回って直ぐ気の付くことは、どこの博物館でも、いかに東北地方に早く稲作農業が伝わったか、いかに中央文化の華がこの東北地方にみごとに咲いたかを強調していることである。自分たちの住んでいるこの地方が決して稲作に適していない国ではなく、また自分たちが決して野蛮な蝦夷の子孫ではなく、まごうことなき倭人、純粋日本人の子孫であることを懸命に強調しているかのようであった。

 このように東北人は、自分たちが蝦夷の子孫であることを隠し、自分たちが恐らくは蝦夷の最も純粋な子孫であると思われるアイヌと同一民族とされることを極端に嫌ったのである。

 私の東北論は、このような従来の東北論と正反対である。

 東北人は肉体的にも精神的にも蝦夷の血を多分に受けている、それ故東北人は、最も純粋な蝦夷の子孫であるアイヌと深い関係をもっている、という説。この蝦夷というのは、もともと日本に土着していた旧石器時代の人間の血を引く縄文人の子孫であるが、その縄文文化は、狩猟採集文化としては、世界的にみても非常に高度な独自性をもった文化なのである。その土着の縄文人と、紀元前三世紀以後に日本に渡来した稲作農業の民、弥生人の混血によって生じた倭人は、何時までも狩猟採集生活という、倭人から見れば一時代前の生活形態を捨てきれない蝦夷を軽蔑の眼でもって見て来た。しかしその蝦夷の文化は以外に高く、そして永い間この蝦夷と血を血で洗う戦いを続けた後にこの国の支配者となった倭人すら、その生産形態や政治組織こそ、先進国であった東アジア大陸の国々から学んだが、その風俗・習慣・言語・宗教などは多く土着文化即ち蝦夷文化に負っている。それが私の新しい東北文化論の視点であった。

 このような視点で日本文化を見るとき、縄文文化こそは日本の深層文化或いは基層文化であり、その深層文化或いは基層文化のうえに、それから以後の文化、弥生文化、古墳文化、律令文化、王朝文化、武家文化などがのっかっていて、後世の文化は深く、この深層或いは基層にある縄文文化の影響を受けているということにならざるを得ない。

 縄文文化が最も純粋に残存する文化はアイヌ文化であると思われるが、不幸なことに日本人は明治以後、アイヌを日本人と全く血のつながりのない人種と

見なして、アイヌ文化を日本文化と全く異質の文化とし、そのような未開の文化を一掃して、アイヌに一般の日本人なみの文化を享受させることがアイヌにとっても最もよいことだと信じてきた。そのために、北海道開発の名のもとにアイヌ文化を全体として消滅させることに、政策の重点が置かれたのである。百年にわたるこの誤まった政策によって、アイヌ文化は絶滅に瀕(ひん)している。アイヌ語を話しアイヌの神事を行なうアイヌは、7・80代の古老を除いて、殆どいなくなってしまった。私はこのことを、近代日本が行なった最大の文化的蛮行の一つたと思う。しかもそのことについて、日本人は全く罪の意識を持っていない。アイヌを原始的生活状態から救うという名目で、日本人は自己の基層文化を、最も明確にとどめている大切な文化を自らの手で葬ってしまったのである。

 日本文化を研究するには、その基層文化である縄文文化を明らかにしなければならない。思いがけないところに縄文文化をとく鍵が見つかったのである。それはアイヌ文化である。アイヌは江戸時代まで「蝦夷」と呼ばれていた。そして蝦夷は、律令時代には北海道ばかりか東北地方にあまねく住んでいた。そして古墳時代においては、「東夷」という言葉があるように、東の国、つまり愛知県以東は主に蝦夷の住む国であった。さらに弥生時代を超えて縄文時代に遡れば、恐らく日本は全て蝦夷の国であったに違いない。「記紀」には、神武天皇が東征したとき、大和にも蝦夷が住んでいたとある。土蜘蛛というのも蝦夷と大して代わりは無いであろう。とすれば、蝦夷は即ち縄文人ということになるが、後に熊襲といい隼人と言われるものも、人種的に蝦夷と大して変わりはあるまい。東の縄文人の生き残りが蝦夷になり、西の縄文人の生き残りが熊襲あるいは隼人になったと考えられる。

 私の学問的関心は七、八世紀の日本を飛び越えて、遥かに遠い縄文時代に向ったのである。七、八世紀において日本が中国文化を輸入した時、それは必ずしも中国文化の模倣ではない。確かに一見模倣であるが、政治においても制度においても文化に於いても、模倣しきれないものが日本の文化の根底にある。

 そこで、一見中国文化とよく似て、内容においてはかなり違った日本の文化というものが生まれるわけであるが、このように意識的には中国文化を模倣したと思っている日本人をして、結果的に全く違った文化を創造せしめる原動力のようなものは、何処から来たのであろうか。丁度五、六千年前、中国において猛烈な勢いで農業が広がり、独自な文化がつくられた。其の頃日本では縄文前期・中期にあたり、新しい農業文化に背を向けるように、一見時代遅れになったと思われる狩猟採集文化を独自に発展せしめた。この歴史の違いが日本文化を中国文化と異ならしめたのではないか。この縄文文化が、弥生文化以後の

日本の文化を規制し、独自の農業文化を日本に生み出さしめたのではないか。

 「時空を越える再生への祈り」

  アイヌや沖縄文化に縄文の名残

  縄文人は狩猟採集を生産の基礎とする人々である。しかし日本人は弥生時代以来、稲作農業を営む農民を中心に形成された。ところが日本列島には、稲作農業を営まない或いは稲作農業を拒否する人達がいた。それは北方のアイヌである。南方の琉球の人々も、南西諸島が多く珊瑚礁の上につくられた土地であり、稲作に不向きであるので、アイヌほどではないにしても、純粋の稲作農業民の色彩が乏しい。このような、最近まで稲作を営まない或いは稲作を拒否していたアイヌや沖縄人の人達、特にアイヌの人達の中に縄文文化の名残が色濃く残っているのではないか。

 この推論を一つの自然科学の理論が実証してくれるのである。それは植原和郎氏を中心とする自然人類学者の理論である。人骨及び歯、及び遺伝子などのデータから、縄文人は古モンゴロイドの種族であり、縄文人の血はアイヌや沖縄の人に色濃く残っているという。それに対して弥生人は外来の新モンゴロイド系の種族であり、近畿地方を中心とする日本本土の人がその最も血の濃い子孫であるという。

 とすると、縄文人の世界観、縄文人の精神生活を知る為には、アイヌと沖縄、特にアイヌ文化を知るのが一番よいことになる。

   再生を願う胎児と妊婦の葬法

  私は、タレ婆ちゃんにアイヌの葬法の話を聞いた。アイヌでは、子供の葬式と大人の葬式は違う。子供は家の入り口に逆さに甕に入れられて埋められる。何故子供は家の入り口に埋められるかと言えば、そもそも全ての人間の生命は祖先の霊が帰ってきたのに、この世でよい目もせずにあの世へ送り返すのは可哀想でもあり、また帰ってきた御先祖さまにすまない。それで子供の霊は大人のようにあの世へ送らず、もう一度母の胎内に帰って生まれてこい、という願いを込めて、家の入り口に逆さに甕に入れて埋められるのであると言われた。

 縄文時代の子供の葬り方と同じである。入り口のよく人の通るところに子供は甕棺に逆さに入れられて埋められる。アイヌ文化は縄文文化をそのまま継承している。甕は恐らく子宮のイメージであり、母の子宮に帰って、もう一度生まれ変われという意味であろう。入り口は、よく人の通るところであり、よく踏んで、即ち、よくセックスをして、生まれて来いというのであろう。

 更にタレ婆ちゃんは言った。子供の葬式は大したことはないが、一番厄介な

のは胎児を腹に宿した妊婦の葬儀である。このとき、ひとまず普通の葬式のように葬儀が行なわれ、妊婦は墓に埋められる。ところが翌日、取り上げばばあのような役目の婆さんが墓場に行き、その妊婦の屍を掘り出して、妊婦の腹を裂き、胎児を取り出し、それを妊婦に抱かせてあらためて葬るというのである。

 アイヌにとって人間の生は全て再生なのである。退治は全て祖先の誰かの霊が帰ってきて、胎児になったものである。ところが妊婦が死んで、胎児が妊婦の腹の中に閉じ込められれば、胎児は到底あの世へ行けない。勿論母は死んだのであるから、妊婦の腹の中の霊は行き場を失った霊であるということになる。はるばる遠いあの世から帰ってきた先祖の霊が行き場を失ったとすれば、それは祟りをせざるをえない。それで胎児を取り出して、母親の腕に抱かせて母親と共にあの世へ送る必要があると言うのである。

   土偶に秘められた深い悲しみ

  この話を聞いて、土偶の謎が解けるのではないかと思った。縄文土器が芸術品であることを発見したのは岡本太朗であるが、縄文の土偶も土器と共に芸術品として誠に素晴らしい。

 この土偶を形成する条件は、土偶には男の土偶、老婆の土偶や幼女の土偶も無い。そして腹は大きく膨らんだものもかすかに膨らんだものもあるが、全て妊婦の兆候を示している。そして形はハート形土偶、ミミズク形土偶、円筒形土偶、遮光器土偶など様々であるが、普通の人間の顔ではない。そしてその眼は固く閉じられているか、瞳孔が開いているかである。アイヌのユーカラによれば、目のある死体というのは再生可能な死体であり、目のない死体は再生不可能な死体である。遮光器土偶は、強い再生の願いを込めてつくられた土偶であろう。また全ての土偶の腹の真ん中には傷のような縦真一文字の線がある。そして不思議なことには土偶は全て割られている。頭と足が折れていたり、バラバラなものもあり、完全なものはない。

 土偶は全て妊婦の像であるということは、第一、土偶の妊婦の埋葬の時に使われたとすれば当然のことである。第二の土偶は全て普通の人の形をしておらず、奇形な風貌をしているというのも、理解される。土偶は全て死霊を表すからである。死霊が普通の人間のようではなく、奇怪な顔をしているのは当然である。遮光器土偶は、その死霊が再生できるようにという祈りを込めてつくられたものであろう。

 そして第三の腹に縦一文字にある傷こそはまさに土偶の本質を示すものであろう。腹を縦一文字に引き裂いて胎児を取り出した跡を表したものであろう。そして第四に、土偶には完全なものは無く、全て肢体がバラバラにされているという理由も、アイヌの考えに照らせばよくわかる。アイヌの社会ではこの世

とこの世はあべこべであり、この世で完全なものはあの世で不完全であり、この世で不完全なものはあの世で完全なものであるという考えがある。この考えが本土に於いても、葬儀の時に死人の着物を左前に着せたり、死人に供える茶碗などを割る風習は今でも残っている。最後に、土偶の中には石槨のように石を仕切った中に葬られたものがあるのは、やはり土偶が妊婦の埋葬のときに葬られるという役割をしたことを意味するのであろう。

   無限の往還を語る縄文遺跡

  アイヌにとってと同じく、縄文人にとっての全ての生きとし生けるものの霊は、この世とあの世の間の無限の往復を続けるものであった。縄文の遺跡にストーンサークル(環状列石)というものがある。秋田県の大湯のストーンサークルは有名であるが、あのストーンサークルと言うものはいったい何であろうか。ストーンサークルの下が墓になっている場合がある。その墓に手足の折られた屈葬の死体が入っていて、その死体の頭の所に底に穴の開いた甕が逆さに置かれている。これは人間の魂が屍から脱して、天の一角にあるというあの世へ行くことを意味しているのであろう。その魂が、もとの体が恋しくてまた帰ってくると困るので骨を折って屈葬し、もう帰ってきても駄目だということを魂に知らせるのであろう。それで魂は死体の頭の上に置かれた甕の穴を通じて天に昇っていったのであろう。

  丁度其の上にストーンサークルがあるのだが、これは恐らく、天の一角にあるあの世へ行った魂が再びこの世に帰ってくることを示そうとしているのであろう。あの細長い石を横に放射状に並べ、その真ん中に直立する細長い石を置いた形は明らかに男女性器の結合の姿を示している。その性の営みによって子供がつくられ、そして祖先の霊が帰り、その子となる。ストーンサークルは、そういう縄文人の生と死の哲学を見事に造形的に示したものであるといえる。

また北陸地方には、直径70cmから1mにわたる栗の木を10本、半分に割り、その半円を弧を内にしてサークル状に10本並べたウッドサークル(環状木柱列)なるものがある。これもまた、私は宗教的な聖なる場所を示すものではないかと思う。大体柱は天と地を結ぶもの、神と人とをつなぐもの、その柱を伝わって神は人間の世界に降りて来て、また人間もその柱を伝わって神の世界に昇っていく。

  縄文の遺物を見ると、何らかの意味で男女の性器を形づくったものが甚だ多い。石棒は勿論男性の性器を表すが、その石棒に男性の顔を描いたものや、或いは桜の樹皮を巻いたものもある。また女性の性器を形づくったものも甚だ多い。それは、縄文人は性に関しては甚だ開放的であったからで有るともいえるが、それより縄文人にとって性は最も重要なものであったからであろう。

 何故なら、性によって人間ばかりか一切の生きとし生けるものの生産が可能になるからである。病も多く、医学も未発達である縄文人は子孫を残す為に出来るだけ多くの子供を生まねばならなかった。人間ばかりではない。人間の食料になる動物や植物も出来るだけ多くの子や実を結び、人間の生活を支えねばならない。それ故に性による子供の生産こそ縄文人の最も願うべきものであった。あのアイヌが行なう最も重要な祭りである「イオマンテ」の祭りも、マラプト(客人)として人間の世界を訪れた熊の霊を見事あの世へ送り、そして来るべき年にまたもっと多くの熊が人間の里を訪れるようにと願う豊猟の儀式でもある。

  そのような祭りが真脇をはじめとする北陸地方のウッドサークルで行なわれたに違いないが、この柱が何度も立て替えられていることは注目に値する。それは伊勢神宮のように20年に一度、諏訪の御柱のように7年に一度立て替えられたのであろう。それは生命の死、再生の原理によって絶えずリフレッシュされなくてはならないという哲学を示している。木は栗の木であり、最も腐りにくい木である。木の霊は生命のシンボルである。木に少しでも腐りが生じないうちに次の木に移されねばならない。それが御遷宮の精神であるとともに、縄文の精神である。縄文から現代まで同じ精神が貫いているのである。それは共生と循環の世界観であるといってよかろう。それは当然と言えば当然である。縄文時代の人間は森の中に住み、森の中の生きとし生けるものと共生していたのである。

   共生と循環―――縄文思想

  三内丸山遺跡の発見によって、三内丸山遺跡の住民たちの主食が栗を中心とした植物と魚を中心とした動物であることが解った。縄文時代の主な植物性タンパクはドングリ類から摂られていることは明らかであった。縄文中期になると、アク抜き技術が発明され、椎、樫、栃、栗などを粉にして団子を作り、それに山菜や魚や肉などを混ぜて、土器で煮る鍋料理的なものが縄文人の主食ではないかと言われてきたが、三内丸山遺跡ではドングリ類の中でも栗が優位を占めていたのである。それに魚。三内丸山遺跡では漆を塗った木製の大きな皿や丈1尺に及ぶようなタイの骨が見つかったが、あの赤い漆の皿にタイやマグロやブリの刺身を載せた料理に縄文人たちは舌鼓をうったのであろう。日本料理の粋はやはり刺身に極まると思われるが、これはまさに日本文化の根幹に縄文人が位し、日本料理もまた縄文料理の延長上にあることを示すのであろう。

 日本人の好きなものは寿司であるが、寿司は縄文文化と弥生文化が混交して、日本文化そのものを表す料理といいえるであろうか。何故なら上は生魚であり、まさに縄文時代以来、日本人が最も賞味した料理であり、そしてその下に弥生文化そのものというべき白い飯が置かれているのである。寿司はまさに日本文化のシンボルと言うべきであろうか。

 森に住んだ縄文人はその食物を、森のもの即ち山のものと、最近、森の恋人であるといわれる海のものに負っているが、その着物も木の皮でつくり、その家も樹木でつくっている。

 衣食住を全て森に依存しているばかりか、彼等が文明の利器として最も重んじた土器もまさに森のおかげでできる腐植土によってつくられているのである。そして彼等は、彼等が必要とする動物や植物を取り尽くしたとき、どんな結果になるかということを甚だよく知り、動物も選んで捕り、木も採ったら必ず接木をするのである。

 現在日本においても、出生魚といって、大きくなると名前を変える魚があるが、アイヌでは主な食料になる獣の鹿や魚の鮭などは雄雌および年齢によってその名が違う。それは、こういう名の鹿或いは鮭は捕ってもよいが、こう言う名の鮭は捕ってはいけないという生態的知恵の現れである。

 こういう考え形は、例えば、アイヌの「イオマンテ」即ち熊送りなどの祭りにはっきり現れている。アイヌにとって熊は、たまたま人間の世界に「ミアンゲ」(土産)を持って訪れた「マラプト」(客人)なのである。ミアンゲというのは、熊の暖かい毛皮と美味しい肉である。熊は、天の一角にあるあの世では人間のような姿をして、人間と同じ生活をしているのである。それがミアンゲを持って人間の世界へ訪れたからには、その意志に従ってミアンゲを戴き、またそれに見合う土産を持たせて、あの世に送り返さなければならない。

 こうしてアイヌは熊のしゃれこうべに化粧して、鮭やドングリや酒を持たせて、熊の霊をあの世に送り返す。そしてそのように丁重にあの世に送り返された熊は、あの世で其のことを話すと、あの世にいる熊は「そんなに人間の世界がよいところなら、来年はわたしも行くべきか」といって、翌年は熊がどっさり捕れるのである。

 縄文人もアイヌ人も、全て生きとし生けるものは本来人間と同じものであり、この世で末永く人間と共生しなければならないのである。

  このような風習は縄文時代の昔から現代にもずっと続いているのである。ウナギの供養、かに供養ばかりか、針供養や鞠供養などの習慣が日本の各地に残っているが、これは縄文の風習が現在にまで伝わっていることを示すものである。

  ここに現れた思想は、循環という思想である。自然は間違いなく循環している。一日のうちに昼と夜は循環し、一年のうちに春、夏、秋、冬と循環する。

この循環の原理に人間も従わざるをえないが、この循環を縄文人は生死の循環と考えた。

 朝、太陽が出て、夕べに太陽が沈むが、それは太陽が死の国に行くからだと考えたのである。つまり太陽は毎日、ひとたび死んでまた蘇えるのである。

日本人は古来から、朝、東の空に上る太陽を特に崇拝したが、それは死の世界から復活した太陽を祝福してであった。その太陽のように我々は夜になると眠るが、眠りはひと時の死というべきであり、朝になるとそのひと時の死から甦るのである。

 これはひと時の死であるが、我々も死ぬとあの世へ行き、そしてまた子孫の誰かになって甦るというわけである。我々ばかりか、一切の生きとし生けるものはこういう生死の流転を続けているのである。

 このような共生と循環の世界はただ縄文人の世界観ではなく、森の中で森の生きとし生けるものと共存し、狩猟採集生活を営んでいた旧石器時代からの人類の生存が危惧される今日、このような縄文の世界観、森の世界観があらためて認識される必要がある。

(梅原猛著 抜粋)