”縄文”再考:岡田 康博

  “縄文”再考

  「三内丸山遺跡からの報告」(岡田 康博)       

  三内丸山遺跡を掘る

  狩猟採集を中心とする縄文文化は今から1万千年から1万3千年前に始まり、稲作を中心とする弥生文化が始まる2千数百年前までの約1万年間続きました。その文化が育まれた縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の大きく6期に時期区分され、その変遷が捉えられています。三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期終わりごろ(今から約5500年〜4000年前)にかけて東北地方北部から北海道南部を中心に栄えた円筒土器文化の巨大集落跡です。この時代にはバケツを上下に引っ張ったような細長い筒型の土器である。円筒土器が数多く作られました。

 遺跡は本州北端の青森県青森市の郊外、JR青森駅から南西方向に約3`に位置し、標高20mの小高い台地の上に立地する。八甲田山系から続く緩やかな丘陵の先端部にあたり、北側には沖館川が流れ、その沿岸段丘の上に縄文時代の巨大集落は造られている。遺跡の北西方向には陸奥湾が広がり、南側には遠く八甲田の山々が続いている。現在、遺跡の周りには県綜合運動公園や住宅地が隣接している。遺跡はこの台地全体に広がっていると推定され、其の範囲は35ヘクタールと広大です。周辺には取り囲むように近野遺跡(ちかの)、三内沢部遺跡、三内遺跡、熊沢遺跡など、ほぼ同時代の集落跡が多数分布している。

 本格的な発掘調査が行なわれたのは、青森県教育委員会による昭和51年(1976)の国体に伴う駐車場建設のための調査です。現在調査が続けられている地点の谷を隔てて南側の区域を調査し、大人の墓が56基が発見された。これらの墓は全て同じ方向を向き、しかも等間隔に南北二列に並んでいました。縄文時代の埋葬方法を示す貴重な例で、縄文時代の社会構造をしることが出来るのではないかと注目された。

 この墓の区域からさらに谷を隔てた南側に、縄文時代中期後半の長さ18mの大型住宅跡が見つかった近野遺跡がある。大型立柱建物跡も検出された。

 平成4年(1992)4月、三内丸山で、県綜合運動場拡張事業として調査が始まりました。

 発掘調査は北の谷の東側から始められた。最初は平安時代の住居址や縄文時代の土坑が見つかり、やがて列状に並んだ大人の墓が検出された。

 盛り土の発掘が始まったのは平成4年の夏、まずトレンチ(試掘)を入れたところ、厚さ2m以上の遺物包含層が姿を現した。これは長時間にわたる土砂の堆積層で、しかも大量の遺物が包蔵されていた。これまでに私はこのような

大規模な遺物包含層を見たことがありませんでした。

 同じ年に、野球場建設予定地北側の台地の縁に、高圧線を移設のために13mを調査した。ここから「縄文ポシェット」と言われるイグサ科の植物繊維で出来た編み物袋(袋の中にはクルミの殻が入っており、縄文人が生活道具として持ち歩いたことを伺わせる)が出土した。この地点は、やはり大量の土砂が廃棄された盛り土があり、地表から約4mほど掘り下げた下層からは、有機質の遺物が出土した。ポシェット、動物や魚の骨、植物の種子類にしても本来ならば長い年月とともに分解して残らないものが、数多く、それも極めて保存状態も良く発見された。他にも漆器や木製品、骨角器などの貴重な資料が次々と発見された。非常に多くの情報をもった遺跡ですから、植物学、動物学、建築学、保存科学など、色々な分野から調査研究に参加してもらう。

 そのような状況の中で見つかったのが直径1mのクリの巨大柱でした。平成6年7月のことです。これは約4500年前の縄文時代中期後半の木柱でした。この巨大木柱の発見がきっかけとなって、全国に三内丸山遺跡のニュースが流れたのが7月16日、そして青森県は遺跡の重要性を考え、野球場建設は中止とし、遺跡の永久保存と活用を決定したのです。

 平成7年度から短期整備として、竪穴住居の復元や盛り土・子供の墓・大型掘立柱建物跡などの遺構の公開を始めた。

 平成8年10月には、国史跡指定が内定した。

   三つのキーワード  「大きい」・「長い」・「多い」

 「大きい」 遺跡の巨大性(規模)。日本での最大の縄文遺跡。35ヘクタール(東京ドーム7個分)。発掘調査が行なわれたのが、7分の1で5ヘクタール。

 この遺跡はただ大きいだけではなく、集落の各施設がきちんと場所が決められて配置されているようです。つまり、計画的な集落作りが行なわれていた可能性が高いと考えられます。住居・墓・倉庫・ゴミ捨て場などが、一定の場所に、整然と、長い期間に渡って作られていたのです。例えば、住居と墓は厳密に区別してつくられていた。北の谷の西側が住居のつくられた居住区域、東側が墓が作られた墓域となっている。このルールは集落が営まれた間、大きな変化はなかった。計画的配置というのは、空間を有効に活用する為には当然のことで、集落の維持・発展にとっても、それぞれの空間や場所に意味付けをするということは、欠かすことの出来ない方法なのです。

 また発掘調査を通じて縄文時代の集落を構成する要素(施設)が明らかになったことも大きな成果です。集落には、ただ家が集まったというだけではないということが解ります。

 「長い」 遺跡が約1500年という長期にわたり継続したということ。出土した土器の年代から知ることができる。土器の年代(編年)は考古学上かなり正確に、しかも詳細にわかっている。三内丸山遺跡の年代は、およそ5500年前の縄文時代前期中頃から中期終わりごろの4000年前の、1500年にわたる遺跡であることが明らかになっています。

 これは、現代から遡ると古墳時代までの時間に相当する。この1500年間には空白の時期はなく、継続して集落を営み、人びとが定住生活をしていたことが解っている。三内丸山では移動を示す証拠はなく、出土した魚骨や植物遺体を見ても、通年でこの場所で生業が営まれたことは間違いないと考えられる。ただし、定住生活といった場合にも、一年を通したとしても、季節ごとの人口の増減を考慮する必要がある。

 当時の平均年齢は30歳と言われるが、世代交代を繰り返しながら、この地に居住し、集落のルールを作り、築き上げていったのでしょう。暮らしやすい時期もあれば、厳しい時期もあった筈です。それを乗り越えるためには、生活の工夫が幾つもありました。

 例えば、縄文人はゴミ捨て場を何箇所も設定し、そこに継続して廃棄している。また場所によっては分別して廃棄しているようなのです。現代のような医療手段も知識も持たない縄文人にとって、生活環境の悪化は切実なことであったと考えられる。長い間定住することによって、その土地に対する習慣・風土といった精神文化が間違いなく積み上げられてきたことでしょう。それらの中には現代の私たちの生活にも受け継がれているものが必ずあるに違いない。

 「多い」 出土遺物の多さ。出土遺物は3年間の調査でリンゴ箱で約4万箱。

青森県全体で一年間の総遺物量は、多い年で800から1000箱、単純に計算しても、4万箱は40年分に相当する。恐らく、その数十倍もの遺物が現地には埋蔵されていると考えられる。

 出土遺物は量だけでなく種類が多岐にわたっていること、遺物に含まれる情報が質・量ともに超一級品であることも特徴の一つである。

 通常、土に埋もれた遺跡情報(特に有機質遺物)は長い年月の経過と共に減少する。他の遺跡では、有機質の遺物は土中の微生物により分解されてしまい、土器や石器など腐らない遺物が出土品の大半を占めるのですが、三内丸山では大量の有機質の遺物が保存状態も良く出土している。特にミクロの情報は非常に貴重である。例えば草木の種子や花粉、昆虫は当時の気候や自然環境を、動物や魚の骨は縄文人の食生活まで今日の人々に伝えてくれます。最近では縄文人の残した寄生虫卵や植物の遺伝子まで発見された。考古学的な研究だけでなく、そうした関連科学の様々な分野との共同研究によって、初めて縄文時代の

全体像が見えてくるのではないかと思われる。

   縄文社会を支える技術

 縄文人達は、私たちの想像以上に高度な技術をもっていた。その代表的なものが建築の技術です。三内丸山遺跡が注目されるきっかけは、直径1mを越えるクリの巨大木柱です。地面に穴を掘り、柱を建ててつくった建築跡で、直径2m強の柱穴が三個ずつ二列に規則的に並んでいるのが発見されました。恐らく、高床建物と考えられる。この建物は非常に規模が大きく、集落の北西端にあります。物見やぐらや祭りの施設として使われた可能性があるかもしれない。

 これまで、縄文時代の建物は竪穴式住居で、高床の建物は弥生時代になって稲作とともに大陸から伝わった技術であると考えられてきましたが、縄文時代にもかなり多くの高床の建物があったことがわかっています。また集落の中央部にも高床建物跡があり、一定の方向を向いて作られています。倉庫としての用途が考えられます。この巨大建築物は縄文時代中期になって見られる集落の要素です。集落の規模が大きくなり、労働力が増えることによって造ることが出来るのです。

 柱穴の直径は2m、深さ2.5mを越えるものがあります。まるで井戸を掘るようなものです。柱の太さや柱穴から考えると、かなりの高さの建物が建っていた事が推定される。クリは低木だといわれますが、幹高20m前後というものもある。しかし、どのようにそのクリの木を切り出し運搬したかについては、更に検討しなければならない問題です。

 この巨大建物の柱と柱の間隔は、規則正しく約4.2mになっており、調査が進むにつれて、ほかの建物にもある一定の長さの単位を持っていることが解ってきました。

 柱は垂直ではなく、約2度ほど内側に傾くように建てられている(内転び)。

そしてその柱を埋めるときには、砂と粘土を交互に入れて、叩き締めながら建てている。また、木柱の下の荷重のかかっていた土壌を採取し、分析したら、平方メートル当たり約16トンの荷重を受けていることが判明した。分析を行なった大林組は、直径1mのクリの木柱に換算すると、長さは約16mと推定され、屋根つき建物だとすれば、屋根頂部までの高さは約17mぐらいのものを想定できるとしている。

 その他にも色々なものを造る技術はありました。一つは、漆の技術です。約5500年前の漆製の遺物が沢山出土しています。恐らく日本最古だといわれています。漆を塗る前の木工の技術が優れているということも解ってきました。優れた木工技術が既に存在していたということは明らかです。

 

三内丸山をとりまく自然と食料

 集落周辺の環境について、様々な資料から考えてみる。

 約5000年前の気候は、現在よりもいくらか温暖で、平均気温は2・3度高かったと考えられる。“縄文海進”の時代です。従って、海岸線は今よりも内陸に入っており、恐らく集落の数百m先の、現在の標高3から5mのあたりのようです。即ち、海に近い場所に立地していたことになります。一方集落の南側は八甲田山系に連なる比較的緩やかで、低い大きな森林台地である。背後に豊かな森があり、内湾で海に面し、更に集落のすぐ北側には大きな川(沖館川)が流れていますので、この集落は食料を確保する上でも適した場所でした。

 注目されることは、出土する骨にはイノシシやシカなどの大型獣が少なく、ノウサギやムササビなど小型の動物が多いことです。

 魚は豊富です。興味深いのは体長1mほどのマダイや60〜70cmのヒラメの骨が出土しています。

 その他、鳥類、オットセイ、カニ、ヤマトシジミなどの貝類も食料としていました。

 しかし、縄文人の食生活は、植物性食料に対する依存度はかなり大きいものでした。植物性タンパク質によって栄養の大部分を摂取していたようです。

 三内丸山では、通常では分解してしまうような植物遺体、有機物も、泥炭層によって保存されたため大量に検出されています。

 それから最近、花粉分析で、ある集落をめぐる森林の状況が見えてきています。辻誠一郎氏によると、クリの花粉が、出てくる花粉全体の9割を超える時代があったと考えられるという。人間の居住が始まる前は、主にナラ属から構成される落葉広葉樹林であったのが、居住開始とともに減少し、クリが激増していく傾向が明らかになった。特に縄文時代前期には顕著で、植生への人間の強い干渉が考えられるとしています。クリの林は人間が何らかの手をくださなければ残りません。従って、縄文人は周りの森林に対して、かなり選択的で積極的な働きかけをしていると言うことも見えてきました。

  土器と土偶の生産地

 過剰な生産といってもいいかもしれない。一般に使われる生活用具以上のものが、作られていた可能性が出てきました。極めて多量の土器が作られていました。これらの土器は集落で生産し、周辺に供給していた可能性があります。

 土器の生産を証明するものとして、集落の東側に土器をつくるための粘土をとった採掘跡があります。集落内部に生産に関係する遺構が見つかったのは、縄文時代では殆ど例がないといわれます。

 網目の文様を詳しく見ていくと、様々な種類の縄を用い、時代によって装飾

も大きく変化しています。ところが、三内丸山では縄文時代中期の後半、集落のピークの時期を過ぎたころになると、南部(青森県太平洋側から岩手県北部)の大木式土器文化の影響を受けることになります。と同時に、集落の方も構成に変化が見られるようになり、空間利用の様子が変化してきます。

 三内丸山からは、土器だけでなく土偶も大変多く出土します。土偶は一つの遺跡から一点でも出てくれば話題になるくらい珍しい遺物ですが、ここからは既に800点を越える土偶が出ています。壊れたものばかりではなく、完全な形の土偶も出ています。

 特に注目されたのは板状土偶と言われる大型の土偶です。高さが32cmほどあり、頭部は盛り土の中から、胴体は居住跡からというように90mも離れた別々の地点から発見されました。明らかに意図的に首のところで切断されたものです。この土偶の顔の表情を見ると、まず鼻が高く、どちらかといえば面長です。目が大きく、今の東北美人に似ているかも知れません。そして口を大きく開けて何かを叫んでいるかのようです。耳には耳飾をつけるための穴が開いています。

   モノと情報と交易

 三内丸山遺跡では、縄文時代にかなり広範囲で交易が行なわれていたことを示しています。ヒスイやガラス、アスファルト。

 色々なものが持ち込まれているということは、逆に三内丸山からはどういうものが他の地域へもたらされたのかということが問題になります。その一つは、

遺物としては分解してしまい残らないもの、例えば、海産物、動物の毛皮、魚貝類の加工品などが推定される。また遺跡には形として残らない情報も考えられる。例えば、土器作りの情報が他地域に伝えられた可能性もあります。能登半島の真脇遺跡や朝日貝塚では、三内丸山の円筒土器に良く似た土器が出土しているが、これは土器そのものが持ち込まれたのではなく、土器作りの情報を良く知っている人間がつくった土器だと言われます。このように、交易によってモノだけではなく、情報もかなり遠方まで伝わっていたことは間違いない。

   縄文の人々の心が見える

  調査をしていて、縄文人の感情が見えてくるときがあります。その顕著なのは墓です。三内丸山に住んだ人達は、沢山の墓を作りましたが、大人と子供の墓を区別して作っています。祖先の霊を大事にしていたことが解ります。子供用は、自分たちが生活している住居の近くの北側に密集しています。大人と子供では埋葬する場所が明らかに違っているのです。やはり子供が生きていくのは、大変難しかったのでしょう。亡くなった子供たちを、普段住んでいる家の近くに埋めるということは、再生を願う気持ち、或いは早くして逝ってし

まった我が子に対する縄文人の感情を見ることが出来ると思います。

   “都市”としての空間利用

 この遺跡で特徴的なことの一つに、空間利用がかなり計画的に、そして継続して行なわれていたことが上げられる。調査した部分の中央に大きな北の谷がありますが、その谷の西側は原則的に居住区域となっています。そして東側は原則として大人の墓域になっています。この区域は集落が続く間、守られています。子供の墓は住居域の近くにつくられています。この原則もやはり守られていました。これは、様々な施設が、ある一定の場所に整然と設置され、そのように空間利用の原則が明らかに存在していたことを示しているのです。

 何故、空間利用の原則が計画的に、そして継続的に存在したのか、しかも世代交代の中で継続できたのかということは、重要な示唆を含んでいると考えられます。

 この遺跡のもう一つの大きな特徴として「盛り土」があります。南・北・西の各盛り土が検出されていますが、これは大量の土砂や土器・石器などの生活廃棄物を捨てた場所です。三内丸山では、最初に集落が出来たころの“ゴミ捨て場”は北の谷や低湿地に設けられています。生ゴミのように臭いのあるものや腐りやすいもの、排泄物などは北側斜面の川に近いところに捨てたと考えられます。住居に近いところには道具類を捨てています。丁度分別しているように、廃棄物の内容によって捨てる場所を変えています。

 盛り土に捨てられたものをよく観察すると、時代や場所によって捨てられた廃棄物の内容が異なっています。一見不要なものが捨てられたようにも考えますが、大量の遺物の中にはヒスイの大珠、コハク、土偶、小型土器などが祭祀に関係するものが発見されていることから、単なるゴミ捨て場ではなく、祭祀行為と関係する場所だったのではないかとも考えられます。三内丸山の集落の構成要素に広場がないことから、広場の機能を盛り土が担っていたのではないかと考えられます。盛り土の土は常に平らに整地されていますから、ここで祭りが行なわれていた可能性があります。

 盛り土の土は、竪穴式住居を作る時に掘り下げた土や、その他にも建物や施設をつくるときの残土や廃土なのです。このような造成工事も、個人の意志や小さな労力のみによるものではなく、集落全体の計画とルールに従って、集団作業によって行なわれているのです。これは当時の社会を考える上で、興味深い資料です。

   縄文の社会と暮らし

 これまでの原始的で未開・未発達の小社会というイメージはなく、もっと規模の大きい、成熟した社会を想定する必要があるのではないか。

これまで知られていた縄文人の生活とは違った様子が具体的に解ってきた。この遺跡からは生活に関わる様々な情報が出てきました。集落の大きさ、広がり、構成、そしてそこでの生活する人々の様子が、かなり具体的に見えてくるというのが、この遺跡の大きな意味ではないでしょうか。

 この集落が巨大化した背景としては、やはり人口を支える豊かな食料、計画的な集落作り、長期にわたって居住することによって培われた習慣、土地に対する愛着、或いは宗教に近い精神世界など、人が集まるシステムがあったでしょう。さらに他の地域からもたらされた情報やモノによって、集落は活性化されたのでしょう。やがて集落を捨てる日がきても、一気に集落が消滅するのではなく、集落を小さくし、徐々に分散し移動していったのではないでしょうか。これは遺跡の分布状況からも理解できます。

 後期になると、遺跡数が激増し、それまで分布していなかった山や尾根や谷筋にも進出しています。大規模集落や継続期間の長い集落は減少するようです。

環境や社会の変化に対して、新たな適応の形を生み出したのです。縄文時代後期に増加する、複数の集落による共同作業が必要な大規模なストーンサークルの構築などは、共同体として行動することによって、アイデンティティを確認する重要な行為だったのでしょう 又、この集落では、専門的な技術者無しには達成できない大型建造物や土木工事が行なわれています。ヒスイの加工、漆の加工も専門的な技術が必要です。恐らく三内丸山には、そういった専門技術者がいて、共同作業が必要です。大勢の人々をより効率的に動かす為には組織があるのは当然です。これはリーダー(弥生時代と違って、絶対的権力者ではなく)の存在が考えられる。

  又定まった墓地がありながら、その場所以外からも人骨が出土しています。墓地に埋葬されない人々もいたらしいのです。縄文時代は平等・等質な社会であるといわれていますが、階層社会の可能性も検討しなければならないのです。

  三内丸山は、規模や計画性から「縄文都市」と呼ばれますが、平城京などの都市と同意義に扱うことは出来ないのは当然です。熟成した社会に支えられた大規模集落、そこには「ヒトとモノと情報」が集まるシステム=装置があったと考えるべきです。その意味で、従来の縄文集落と違った「縄文都市」があったのです。

 発掘調査から見えてきた縄文人は決して未開・未開発の原始人ではなかったのです。