仙台の旧石器時代:富沢遺跡

先史時代   石器時代

   富沢遺跡の埋没林

   旧石器時代の林が、地層の中に埋もれていた。一本の木ではなく、林だ。遺跡は過去の人間生活のタイム・カプセルなんて言うけれども、二万年前の景観が地中に閉じ込められていた、というのはなんとも痛快な話である。風景の化石といってもよい。

 富沢遺跡は、仙台市街地の南部、名取川と広瀬川に挟まれた沖積地にある。二つの川は富沢遺跡の東方で合流し、およそ6`で仙台湾にそそぐ。富沢遺跡の西1.5`には東北―南西方向に伸びる地質構造線があり、その西側は丘陵・台地の高躁地となっている。富沢遺跡が発見されるまで、この低い海岸平野に旧石器時代の遺跡があるなんてことを誰も予想しなかった。

 事実、この遺跡を仙台教育委員会が発掘し始めたのは、弥生・縄文時代の文化層が主な目的であった。つい最近まで地表であった現代の水田の下約1.5mに弥生時代の水田があり、縄文時代の地層は約2mの深さまで続く。そこからさらに下方へ1.5m余り、25層から27層までの番号を付けられた地層が問題の旧石器時代である。

 報告書(太田昭夫編「富沢遺跡―第30次調査報告書2・旧石器時代編」

 樹木含む三枚の地層は、それぞれ10cmから40cmほどの厚さをもつ。粘土と砂からなる層中に、樹木の根、幹、枝、葉、毬果が多量に含まれていた。重要なのは、樹根が生きていた当時のままに、根を放射状にのばした状態で発見されたことだ。


   幹は倒れてしまっているけれども、根株がもとの位置をしっかり示している。だから根株の樹種と配置がわかれば、往時の森の姿を復元することができる。

   富沢遺跡では、針葉樹林や草原を駆け抜けた動物の証拠が見つかっている。骨の化石ではない。シカの糞だ。ドングリを押しつぶしたような粒が数個から数十個、時には100個以上もかたまっている。

   糞のかたまりは、樹根のひろがる範囲のほぼ全域で21ヶ所残っていた。詳しく分析し、多くの情報を引き出した。第一に、糞の粒の形と大きさから、この動物はニホンジカかその近縁のシカ属であったこと。第二に、粒の形と遺存状態の良好さや食糞性の昆虫が見つからなかったことなどから、排泄時期が冬季ないし早春であったこと。第三に、糞の分布密度から、当地がシカの冬季越冬地にふさわしいこと。

   富沢遺跡には、人間がいた形跡がある。はっきりした住居が見られるのは、27層の草原と湿地が広がっていた時期だ。東北発掘区の東より、南西側に低地を望む緩やかな斜面に炭化物の集中するところがある。考古学研究者は、これを焚き火跡と考えた。焚き火跡の東北側には4ヶ所の石器類の密集部があり、それらの間にちょうど人間が一人作業できる空間がある。ここは石器を作ったり修理した場所だ。東南側の石器はまばらだが、やはり人間が座るだけの空間がある。使用により摩滅したらしい石器などがあるので、こちらは皮とか肉を切った場所らしい。

   こんなふうに、二人か三人の小さな狩猟集団が石器製作や皮・肉を対象とした作業を行った野営地であったろうというのが報告者の見かた。

   調査報告書の克明な記載に興味が尽きない。

  富沢遺跡は、当初、調査のあと建設工事で破壊される予定だった。しかし、貴重な発見は研究者ばかりでなく市民にも感動を与え、遺跡を守ろうとする声がおおきくなった。保存運動は功を奏し、埋没林はそのまま現地に残された。

   仙台市は「地底の森のミュージアム」という素敵な博物館をつくった。

   

 

 湿地をとりまく針葉樹林と草原、そしてシカと旧石器人。しかし、骨の化石がまったく見つかっていない。 

 この遺跡では、木や枝葉の残りが大変よく、昆虫の羽やシカの糞まで原形を保っている。硬い骨があったとすれば、残らないはずがない。くわえて27層上面には焚き火跡があった。焚き火の灰や木炭は、骨を保存しやすい。例えば、北海道の上川町日東遺跡や白滝村白滝遺跡群33地点には、焼け土或いは木炭に動物の微細な骨片が混じっていた例がある。

これほど良好な保存条件に恵まれながら骨が一片も見つからなかったとすれば、もともとこの遺跡には骨がなかったと考えるべきだろう。狩はしたのだが、少なくともここで獲物を解体し、骨付きの肉を食べた証拠はない。動物の肉を常食にできるほど旧石器人の生活はたやすくなかったのではあるまいか。

 動物の肉を何時も手に入れることができなかったとすれば、何を食べていたのだろうか。富沢では、チョウセンゴヨウの種子が46個出土している。チョウセンゴヨウの種子が旧石器人の重要な食料であったことは、かねてから鈴木忠司氏が強調していた(「素描・日本先土器時代の食糧と生業」:京都文化博物館研究紀要)この種子は根株や樹幹、枝葉や毬果を伴っていない。リスなどによる運搬もあったらしい。もし27層のような炉跡に伴って出土した場合なら、人間の食料の残り物であった可能性が検討されたところだろう。

 花粉ではハシバミ属が検出さえている。ハシバミの実も、すぐに食べることのできる食料として秋には好んで採取されたに違いない。最も西田正規は言う。クルミ、チョウセンゴヨウ、ハシバミなどの油性ナッツ類は、脂肪を多量に含み寒冷による胚の凍結を防ぐから、旧石器時代の優れた食料であったはずだ。ただし、それらは人間の消火器官には必ずしもなじまない。つまり、オヤツ程度にとどまっただろうというわけである。

 富沢遺跡は、旧石器人が動物の肉を日常的に口にするのがいかに困難であったかを物語る遺跡としても、貴重であると私は思う。遺跡や遺物は、発見されれば存在することが証明される。しかし、考古学では、無いことを証明するのは至難である。あったけれど腐って消えてしまった可能性があるからだ。しかし、富沢遺跡は、その困難をこえ、旧石器人の生活の一面をありのままに見つめることのできるまれな遺跡だといえる。

(「遊動する旧石器人」稲田 孝司)

2001年北陸の旅」の仙台・「地底の森ミュージアム」から東北の旅日記

    


    

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