大林組プロジェクトチーム:縄文の春

先史時代

  「縄文の春」

     青い森

  日本列島の本州の北端に位置する、かつて陸奥と呼ばれた。陸土の果てという語意のとおりの地勢なのである。

 そしてまた、青森という命名のとおりに、この地は今も美しい青い森がどこまでも広がっている。

 県中央を独占的に占めているのが八甲田山系で、八甲田の名の付いた山はない。幾つもの千m級の巨峰が競い合いながら、十和田湖へ落ちる。この大山系の分水嶺を逆に北上すると、大斜面が一気に陸奥湾へ向う。市街からは西方にあの独立峰・岩木山(1625)が観望される。このように高低差の著しい土地であり、山系を今も樹木が覆う。標高が900mあたりから下がるともっぱらブナの森である。

 ブナの森は気前がよい。人間にも獣にも鳥にも、ふんだんにおごってくれる。森林には生物界の種の50%以上が棲息するといい、おびただしい種と数の生き物が住む舞台である。

 特に冬を前にした秋のブナの森のおごりかたは盛大である。ブナの種類は多い。ミズナラ、コナラ、カシワ、ナラガシ、クヌギ、皆いわゆるドングリと呼ばれる堅果類が生(な)る。そればかりではない、この森ではクワやマタタビ、アケビ、ムグラ、山ブドウはじめ豊かな食用果実が実る。

     春の祭典

   ブナの森と縄文文化は、この日本列島で同時に始まっている。ブナの森が列島に台頭し始めると同時に、縄文の文化も花開いた。

   縄文文化は、いまから13000年前に誕生したとされる。即ち、紀元前一万一千年年のことである。それは気候の大変動と軌を一にする。

   先行すること二万年前、この地球は急速に冷え込んでいったらしい。このおり、現代人に直接つながるホモ・サビエンスと呼ばれる現代型新人が、爆発的にこの地球の表面に拡大していた。

   日本列島が大陸と陸続きに、カラフトと北海道、本州のあいだの津軽海峡、九州と朝鮮半島がつながり、壮大な陸橋をなし、小さな内海状の現在の日本海を取り囲んでいた。この陸橋をナウマンゾウや毛サイ、野牛、オオツノジカ、さらにヤマネコや虎などがのし歩いていた。

   獲物がいれば、狩人たちもやってくる。このころ盛んに彼等が活躍した形跡がこの列島の各地にも残されている。それが旧石器人である。このころの青森に足跡が残されている。

   そして氷期は峠をこし、この地球は少しづつ暖められてくる。まず大陸部にあった氷河が溶け始める。やがて大河となり、ついには海水面が上昇しはじめた。

   やがて今から一万三千年程前に気温は急速に上昇して、極端に寒くなる。同時に日本列島あたりでは新人たちが活躍し始めた。狩猟の技術の革新と向上があったのであろう、この頃、大型の哺乳類の殆どが絶滅させられた。

   気温の上昇とともに海水面も上昇し続けた。“縄文海進”が始まったのである。

  (今から一万〜8.000年前、地球全体は温暖化に向い縄文前期(6.000年前)に最高点に達し、現在より気温は2〜3℃高く、陸封されていた氷が溶け海水面も5〜6m高い位置にあった。このため海水は内陸深くまで入り込んで、このおりの海進現象をとくに“縄文海進”と呼ぶ)。

   まず、北海道と青森をつなぐ陸の橋を越えて、太平洋側から親潮が内陸海へ流入し始める。日本海が作り始めた最初の姿である。ついで、東シナ海側の海水が対馬の陸橋をこえはじめ、海がつながっていった。この大スペタクルに立会い、実見した人々は当時沢山いたはずである。

   この激しく流れ込む水の音は、まさに未曾有の偉大な春がきたことを知らせる序曲であり、縄文という時代の幕が上がるための一大ページェントであった。(この光景をもとに「火炎式土器」がつくられたのでは?)

   この対馬を越えてくる暖流が、遠く能登半島を越えて、列島の北の海域にまで接するようになる。気候は確実に暖かくなってくる。西日本側から徐々にブナ林が発達しはじめてくる。

   そのブナ林の中で、世界でも最古の土器(火炎式土器?)をもつ人々が生活を始め出す。今から1万3.000年前のことであり、ここに縄文(草創期)と呼ばれる時代が開幕するのである。

   この森でこそ、植物食物の採取と狩猟が可能だったのである。それは豊かな世界であり、四季を通じて山菜やキノコ、薬草の類や、種類も量もおびただしい木の実類、さらに鳥や獣の肉や毛皮をもたらしてくれる世界であった。

     四季の誕生

    この列島の人々が縄文と呼ばれる文化を育みなじめた頃、即ち、対馬海流が今の日本海に流入し始めたころから、この島に春、夏、秋、冬という四季がそれぞれの性格をあらわにしはじめた。

   暖流に暖められた日本海の表面水温は、冬でも5〜10℃を保つ。ここへ−20〜30℃に冷え切ったシベリアからの高気圧が吹き込んでくると、温度差がさかんに海水の蒸発をうながし、厚い雪雲を生成する。雪雲は、北西からの強い風にあおられ、列島の背骨にあたる山脈にせきとめられるように停滞し、日本海側一帯にしきりに大雪をふらせる。

   この積雪は列島における一大水源である。わが国の特徴的な気象である梅雨である。

   今から5.000年前の昔にも、その季節になると梅雨はこの島々に大量の水を降り注いでいた。この気象は、海に囲まれたわが国はじめ極東に特有のものであり、やはりこの地球の氷河期が終わり温暖化したことで初めて生まれたもの。

   この長雨と豪雪によってもたらされる天水こそ、この列島の植物の全てを決定付けた。ひいては鳥も獣も人間も決定付けられたことになるだろう。

   その上で、あらわになった四季が折々にもたらす間断ない植物や獣の生長と変移と再生が、人々に絶え間ない多種多様の食料をもたらす。その変化こそが人々の工夫と文化を生み出すことになる。偉大な春が生み出した四季もまた、縄文の人々の舞台となったのである。

  「縄文の土器」

   この偉大な春が生まれる少し前、氷河が緩みはじめた頃、シベリアのバイカル湖周辺やアムール河沿いから北海道そして本州北部にかけて、北方系の細石刃という石器を使う人々がいた。

   すでに人類が石器をつくる技術はかなりの水準に達し、数ミリから2〜3cmの細かい鋭利な石器をいくつも木棒の表面に縦に埋め込み、槍のように、或いは剣のように用いて、鋭い切れ味を誇っていたのである。しかし、この人々はもっぱら狩猟採集の生活で、まだ土器を持っていなかったようだ。

   同じ頃、中国大陸の揚子江の南の地方から南方系の細石刃文化が起こり、既に日本列島の九州に到着していた。こちらの細石刃は北方系のものほど鋭い石器ではなかったが、かわりに彼等は土器をつくる技術をもっていた。

   大陸の北辺にはじまった文化と、中国南部から出発した文化が、互いにこの列島へ潮流のように押し寄せ、出会い、混交した。

 彼等はすでに洞窟や岩陰に、そして木の枝や獣の骨や皮を用いて仮設の空間を作り出し、雨や風や雪の及ばない空間を生み出していた。

 それは住居の始まりである。彼等は、小さくて狭かったかもしれないが、とにかく自分で意図し、自分で作った空間の中で、寒気から身体を暖めてくれる、また夜の闇の中で明るく輝く火を燃やし始めている。

 その火は小さな不安定なものであったとしても、人間の制御可能な人口の太陽であり、人口の火山といってもよいものであった。

 それは、人間が直接に大自然に手を下し、コントロールし、同時に大自然の一角を壊し、自分自身のために小さくとも自分の世界を創造することを覚えたはじまりであった。

 木を倒し、岩を動かし、住処をつくり、石を選び、割って鏃(やじり)や斧をつくり、火をおこし、更に遠くへ歩み始める、そのごく初期の姿であった。縄文期草創の洞窟住まいは、すでにある程度の定住を予感させるものとなっている。それは生活しやすくなった季節を向かえ、食料事情はより安定し、更に土器を用いだし、煮炊きと言う革命的なテクノロジーが、飛躍的に植物食品の範囲を広げ出したからである。

 この時期の縄文人は、食べ物に対する探査と実権と冒険にかつてなく挑んだようだ。食べられるものと食べられないもの。少し加工すれば可能なものと手の込んだ調理や準備が必要なもの。それまで見向きもされなかったものが、煮るだけでかつて知らなかった味覚と満腹を供してくれることになった。

 火と土器を手にすると、森はまるで食べ物の宝庫に見えたに違いない。

 やがて彼等は更に広い範囲にわたって活動しはじめ、可能性を追い、ついには日当りや飲み水やより多様な機会をもたらす台地へと進出する。川のそばに住み、木を倒し、森を焼き、広場をつくり、住居と呼べるものを作り出す。

   土器出現 

   最古のものは、今から1万1千年以前の隆線文土器などが発掘されており、海外の出土例でもこれほど古く遡るものはまだ知られていない。

   土器は、粘土で思い道理に成形できるばかりか、火で焼成することで化学的に変質し、火にも水にも耐える固い物性をもたらした。人間は、自然の中にしかなかったはずの石のようなものを、自由に形にして作り出せるようになったのである。

   土器は生活のあり方そのものを革命的にかえた。まず飲み水の量的な確保と移動が容易になった。喉が渇くたびに水辺まで行く必要がない。とても水が得られそうもないところでも水が確保できるのである。

   さらに革命的だったのは、煮炊きすることが可能になったことだろう。それまで食べられなかったものが、極めて多様に食用になったのだから。植物性食物の殆どがその対象となったはずである。

   その代表がドングリである。ドングリは、縄文の人々の主食だったようだが、これは粉に引いて、煮て、水でさらしてアクやタンニンなどの苦味を除去することで初めて食用になる。土器がなければ不可能なことだったはずだ。

   また縄文遺跡の多くから貝塚が見つかるが、これも土器による。即ち、土器はそれ以前と以後をはっきり分けた、素晴らしい新素材であった。

     土器は、つくること自体が容易ではない。

    適切な粘土はどこにでもあるわけではない。乾燥しすぎてはよくない。焼いた際に、割れるのを防ぐ為に植物繊維や砂などの混和材を混ぜる工夫がいる。粘土の粒子をととのえるための素地作りはなかなか難しい。更に最適の粘土にするために、十二分にこねて、空気を抜き、材質を均一にする。そして2〜3日から一週間ほど寝かせておくほうがよいという。さらにもう一度こねる場合もある。相当の修練が要求される術なのだ。

   その後、成形する。ロクロのような便利なものは無いだろうから、初めは小さいものを直接に形にしていたのかも知れない。しかし、現在までわかっていることは、初期にすでに粘土を帯紐状に作っておいて、これを巻き上げていきながら、全体の形をととのえていく方法があったという。これに口縁部を補強したり、底部を付けたりしたようだ。

   その上で、割り竹や貝殻、或いは撚った糸(ひも)を表面に押し付け、ころがし、凸文や凹文の文様を付けていく。後の時代には、粘土紐を文様として付着させていく手法も多くなっていく。さらに仕上げ加工のようなこともしただろう。そして、乾燥。季節によって加減はかわるが、陰干しや日向干しを繰り返して半月ほどもかかるはずである。

   これらの経験を要求される手の業を経て、最後がやっと焼成である。これは後代のように窯を用いたとは考えられないから、いわゆる野焼きであろう。

   露天に窪地をつくり、ここに薪を積み上げて焼く。摂氏600度から800度の炎を操作することになり、この際に土器は水分が抜けて100%ほども縮むので亀裂が発生しやすく、素人ではとても手におえる作業ではない。

    当初は未熟な手法から少しずつ長い年月の間に進歩改善されていったものであろうが、何れにしても並大抵の業ではない。

   縄文時代も後半になってくると、口縁の直径が40cm、高さ70cm以上のものも出現してくる。形が大きくなればなるほど、成形はもとより乾燥も焼成も飛躍的に難しい大技になってくる。

   土器は経験と工夫と革新が集約された技術の成果であった。

     表現する精神

   土器は、彼らが日常にそして特別な日である祭祀にあたってつくり用いていた。彼等は土器ばかりを作っていたわけではない。

   今から6000年〜5000年前の縄文中期になると、進歩の傾向はされに際立ってくる。土器の完成度や複雑さがはっきりと以前とは違ってくる。

  現在まで出土している縄文土器の80%〜90%は、粗製土器といわれるものである。 その頂点が、「火炎土器」である。文化人類学者ストロースは「比類ない独創。

   人間がつくった様々の文化のどれを見ても、この独創性に並ぶものはない――火炎土器を頂点とする驚くべき表現に対しては、説明のための例えにすら適当なものが見当たらない」と手放しの驚きを隠さなかった。

    現代の私たちよりよほどに精神生活が多くを占め、その真っ只中で日々を送っていたように思われる。

   その精神活動をされに明快に見せてくれるのが、土偶である。土偶もまた、生命力というやみがたい強力な、しかし無形のものにあえて形を与えたもののように見える。

   即ち、具体的な目的は不明だが(梅原 猛著、「縄文文明の発見」・「驚異の三内丸山遺跡」)、すでに1万年以上前に、女性の姿があえて形にとどめる必要、或いは価値観があったのである。

   その多くが、乳房や性器の表現から女性像と見なされている。そして腹部が大きいことから、妊娠中の女性を表したとされるものも多い。

   むしろ人間以外のものを遺憾なく表現しきった傑作である。その完成度の高さを見ると、作者の才能すら感得できるほどだ。形の無いものにあえて土偶として具体的な形を与えた、驚くべきイマージネーションの豊かさと飛躍の素晴らしさ。現代の我々にはもう見えなくなった。或いは凡そ異なった世界が、彼等には見えていたのである。

   彼等の精神は輝いていたのである。

   縄文時代と名づけられた今から1万2千年前から2千300年前まで、凡そ1万年の長きにわたり維持されたものは、豊かさの名で呼んでよいものであり、北海道の北部から沖縄や伊豆七島まで、現代の国土にそのまま匹敵する地域にあまねくいきわたっていたのである。その時空と空間の両面にわたる広大ぶりは、世界史上でも有数の一大文明である。日本の歴史に、縄文時代の草創期から現代で、83%以上が縄文時代である。

  この島の歴史は、縄文文化を抜きにしては語れない。  

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