大林組プロジェクトチーム:集落としての三内丸山

古代大型建物とムラ

長江文明での世界始めての都市国家

  「集落としての三内丸山」

     都市とは

   三内丸山遺跡は、他の縄文遺跡の多くとは凡そ異質である。

   その大きさばかりではない。この大集落を作り上げた、かつての人々の周到な意図と力の技ぶりと卓越した意志が際だっているのである。それはもう、現代人の私たちですら見せつけられた思いがすくらいだ。

   まず、すぐに気づかされるのは、意志を形にした集落とは「都市」以外の何ものでもない、ということである。農村や漁村の形成には、人々の意志は反映しない。それはごく自然発生的なものといってよく、農業や漁業を営むための利便性や合理性こそが優先するからである。

   都市の定義は難しい。「広辞苑」には、「一定の地域の政治・経済・文化の中核をなす人口の集中地域」反対語「農村」。「建築用語辞典」では「社会的、経済的、政治的活動の中心となる場所で、常時、数千或いは数万の人々が集団的に住み、家屋が密集し、交通路が集中している。」

    都市は歴史的には自然発生的に始まったように見える。少くも、当初は自然発生的な契機を起源としていると言ってよいだろう。偶然と必然が出会ったのだ。それが時間を経るに従って、人々の或いは権力の意思を反映して形をなしていったものである。

   地理的、風土的な条件や社会状況、価値観や行動原理、生産物や生産力、さらに原始的なものであれ宗教やモラルなど、その他もっと数多くの用件により形づくられていったのであろう。だからそれは、結果的に極めて人工的な空間作りにならざるを得なかった。

   都市の形は、風土や伝統、そして計画をもとにして、社会の動向や要請に従い、さらに左右されながら、それでも意図を反映させつつ構成されていく。人々の望んだものこそが、都市の形であることは今も昔も同じなのである。

    これまでの発掘調査では、600棟近くの住居跡と思われるものが出土しており、さらにこれから発掘が進められる遺跡全体では、試掘調査などにより最終的には3000棟にも及ぶものと推定される。この数字は、1500年間の全集積であるから、同一時期にどれだけの住居が建っていたかが問題となる。

   三内丸山の人口は、1500年の間に変移し、増減したはずである。最盛期については、最小50人から最多500人説にまで大きく分かれる。

   そこで私たちプロジェクトチーム(大林組プロジェクトチーム)では、先に想定し復元した工事の規模から、やはり稼動人員や後援の人々が一度に200人ぐらいは必要であったと考えており、それだけの員数をこの集落内でまかなうとすれば総人口は500人はいただろうと想定する。

  まさに、この場所は、人口が尽くされ、彼等がとても“都市的なもの”としての空間を形成し、維持し、利用していたことが理解できる。

   この時代の社会的な基本条件として、戦争がない、また権力構造や人々の階層化が確立していない、私有の意識が薄い、そして近代的な経済原理がまだ働いていない、とされる。

   とすれば、その規模においては勿論、現代の都市の概念や定義とは遠くならざるを得ないが、この集落は“都市的なもの”と呼ばざるを得ないほど、非農村的なのである。農村的なものから離れて、すでに都市としての様相を備え始めていたことは間違いない。

   そして、それはとても幸せな都市とその住人の関係であっただろうと思いやることもできる。

   政治や経済(生産活動)や宗教が未分化の時代であるかもしれない。しかし、この都市をつくった発注者と計画者と施行した者とそれを利用した人々はそのまま同じ人間たちであったと思ってよいからだ。自分たちで考え、決定し、手作りし、そこで生活したのである。

  それは現代ではもはや望むべくもない都市づくりの理想が実現した、と想定できるのである。

    かつて人々が定住生活を軌道に乗せたのは、移動しつづけることを前提とした小集団での低い生産性と不安定さより離れ、植物性食物の栽培に近い営みや、動物性食物をもたらすものをやはり飼育に近いごく初歩的な段階で開始し、徐々に発展させ、洗練させていった中でであった。

   しかし、定住生活を選びつつあった頃の集落の姿は、ごく“ごく農村的なもの”であったはずである。

   まだまだ自然の一部としての性格を強く残している植物や動物と人々とが、人々の居住の場で混在することになるからである。一定区域に限って、家々を集中させるより、むしろ逆のほうが適しているだろう。広場もこれほど人工的に明確にする必要はなく、自然発生的な空き地を利用することが出来た筈である。なにより優先順位の第一は食料の確保であったはずだ。墓所も、これほどにこの地の住人であることを主張するような計画性と意図をもつ必要もなかった。むしろ住居の近くに各個人ごとに埋葬するほうが自然であったはずである。

   しかし、三内丸山の場合、この地の人々が、この場所に居住したことを誇り 、主張したように見えるのは、都市とそこに居住する人々の本来の姿である。

  だから、この地では、高い付加価値をもつものが作り出されていたと考えるしか、解釈できないだろう。或いは、そのような産物を集荷し、移出していた。

   即ち、「市」が形成されていたと仮説できるのである。その為の多人口の集中である、と。その多人口が必要とする食料や生活材の多くは、近隣など他から供給を仰ぐことで、三内丸山は消費地として、さらに高い価値を生み出す活動に専従することが出来たのである。

   都市もまたその最初期にあっては自然発生的なものであることは免れず、ずっと遅れて都市づくりの作法が経験的に発達し、或いは収れんし、手法として確立され、さらに計画として現代に共有されることになったのである。

     都市の始原として

長江文明での世界始めての都市国家

  都市とは、優れて情報の発信の場なのである。穀物や野菜は畑で生産される。工業産品は、工場で製品化される。そして情報は、都市で生まれ、発信されるのである。その為の場づくりが、いわゆる都市化というものだと言っても良い。都市化のための要件は、人々が集まりやすいこと。人々を収容しやすいこと。人々が交流しやすいこと。そして、人々をして求心させるものがあること。必要品や付加価値の高い品や珍しい参品が集荷している例である。

   さらにそのための信頼性や正統性も問われることになる。宗教や交換モラルや安全性などを問われたのであろう。

   これらをよく叶えたものとして、先行して「市」が生まれ、発達し、定着し、より完成されたものとなり、やがて都市と呼ばれるようになる。

   これらの要件を、三内丸山の集落はよく備えているように見える。

   集落がその大小を問わず、住民が主として食料などの生産に従事する農村的、に対して、第二次、第三次産業のようなものに多数が占めるのがより都市的のもので、三内丸山の集落の構成のしかたは、極めて後者に近い。

   三内丸山を、あえて、“都市的なもの”と呼ばざるを得ないのは、それが現代の都市の性格を大きく決定してしまった貨幣経済による商業都市よりも、あまりに遠くに生まれているからである。

   彼等は、安定と安全へ向けて、ゆっくり収斂(しゅれん)し、変化し、その成果としてこれほどに人工化を果たした場所を作り出した。この都市的なものの姿は結果でもあっただろう。

   まず量的に拡大し、ついで質的な変化をもたらしたであろう。交流はより広く遠くまで足を伸ばしだす。周辺の人々からそれが肯定され、認められ、やがてこのように豊かなコミニュティを誕生させたのだと思いたい。

   この地で、彼等は素晴らしい出会いと交流と情報の交換と発信を果たしていたのだ、と。

   三内丸山の縄文人(ひと)たちが、確かに地上にユートピアを建設しようとしていたことは間違いない。

   世界の諸都市の多くが、それを短期間ながら達成し、失敗し、護り、変遷してきた。ただ、三内丸山だけは、1500年の長きにわたって継続してきた。ここに、“何か”があるはずである。

   そして現代人である私たちは今、千年期(ミレニアム)を経て、新しい千年期に入ろうとしている。西暦2000年という大世紀を通過しょうとしているのだ。

   私たちは、1000年と言う時間の量を積み重ねた記憶を知らない。しかし彼等は1500年にもわたってこの集落を営んでいたのである。

   しかし、1500年間もの長きにわたって存続した、この空前絶後の集落は、縄文時代の中期末には姿を消したといわれる。

   縄文時代の後期が始まろうとする、丁度その折のことである。今から4000年前(紀元前2000年頃)のことであった。(中国大陸に殷(いん・商)の前哨をなす夏(か)が興り始めたころ、然2050年、であり、ギリシャ人が現在のバルカン半島へ侵入し定住し始める。イギリスのブリテン島で最初期の土器がつくられ始めた)。

   彼等は、一度にこの集落から去ったのではない。百年単位の長い長い時間をかけて、ゆっくりと縮小していったようである。それは遺跡の様子から辿ることが出来る。

   それでも、これほど大規模にそして長い期間営まれていた集落が、何故、消えていくことになったのか、謎は残る。これも想定するしかない。

   専門家の多くは、気候が変動したせいだと解釈している。縄文時代の中期が終るころ、この日本列島の気温が下がり、丁度現在ぐらいに落ち着き始めたとされる。

   それは植物相を確実に変化させることだろう。例えば、この地のクリの木は著しく減少し、多くの人口を維持出来なくなったとも考えられる。クリばかりではなく、気温が変動すればあらゆる植物に影響を与え、そして連動して鳥類や動物相もかわる。強制的な生活システムの変更をせまられることになるのだ。

  人々は、それまでの生活に近い暮らしを求めて、南下したのだろうか。

   別の見方として、気温が下ったことで、海岸線が後退したのでは、全地球的に気温が下がれば、さらに北方では陸地部の水が凍りつき、海へ降りなくなる。海水は減少し、当然に海岸線は遠くなる。こうして魚や貝などのタンパク源が得にくくなり、集落は縮小せざるを得なくなったのでは。

   この集落は、あまりに長い期間の継続のために、近辺ではイノシシやシカなどの大型の獣は勿論、タンパク源としての動物はみられなくなり、魚介が得にくくなったことは深刻である。

   また飲料水が枯れたのではないか、という見方もある。何らかの事情で集落周辺の樹木が減少すれば、水位が下がることもある。また、あまり長い期間の営みのため、生活廃棄物即ちゴミによる汚染などか環境が劣化したり、疫病の可能性もある。

   さらに農耕や牧畜が新たな段階に入り、より適地へ移動したのでは、より開けた、より低地へ、或いは南へ、より広い場所を求めて。

   いずれにしても事実は、三内丸山の集落は閉ざされ、人々はいずこかへ完全に去ってしまったことだ。40007年前のことである。

   しかし、殆ど食料自給を前提とした農村的な集落のあり方を前提にしている。若し、この集落が「都市的なもの」であったならば、もう一つの想定が可能である。即ち都市としての機能が果たせなくなった。

   海岸線の後退により、港としての機能が低下した場合。物品の流通に変化が生じた。いずれにせよ三内丸山における都市性がそこなわれたのかもしれない。

   列島の人口の重心そのものが他の地域へ移ったのかも知れない。必要とされる情報の内容が変化したのかもしれない。或いは圧倒的な発信力をもつ文化が他の地方で誕生していたのかも知れない。

   今わかっているのは、一つ素晴らしく長く栄えた文明がここに終ったこと。

  この優れた都市の萌芽を、この地に見て、その大いなる時空がここにあったことを記憶して置きたい。             

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