大林組プロジェクトチーム:”北のまほろば”

 「北のまほろば」(三内丸山)

    1500年の時空(三内丸山)

   “北のまほろば”と呼んだのは故司馬遼太郎氏である。青い海が海原のように続く後背地をひかえ、豊かな海に臨んで美しい大地は、まさに“まほろば”の呼びかけに相応しい。三内丸山は、この地に長い期間営まれた巨大集落です。

   そもそも、縄文と名づけられた時代は長期にわたった時代であった。それは今から約12000年前から、弥生が始まる2300年前までの、凡そ一万年にわたる文化の総称であり、その地理的範囲は北海道から沖縄の島々にまで及ぶ、時間と空間において世界史上でも有数の文明とも言われ始めている。

  その中で、三内丸山の期間は、今から約5500年前から4000年前までの、実に1500年間の長きにわたる。

 1500年間と簡単に言われるが、現在の20世紀末から遡ってみると5世紀後半に至ってしまう。(即ち、今から飛鳥時代以前、古墳時代)。わが国ばかりでなく世界中を探しても、1000年以上の古代から今日まで存続し続けている都市はまれで、大変長い期間営まれたのである。

   戦争のような大規模な争いはなく、ごく少ない人口に対して豊かな変化に富んだ動植物の食べ物にめぐまれ、気候が温暖であったために、これほどの長い年月の営みを維持できたのであろう。

   縄文時代の始まりから、私たちが生きる21世紀の始まりまでの期間を仮に100%とすると、そのうちの83%を縄文時代が占めることになる。明治から現在までが僅かに1%にすぎないことを思うと、その1万年の長い長い季節の中で、今では呼び返すことすら難しい多様な文化の数々を咲かせていたのである。

   この三内丸山の人々も、全く同じ時空の真っ只中に在ったようだ。

   彼等の1500年という時間の長さは、今まさに21世紀の扉を開けた私たちにとって、実に西暦3500年の後にいたる時間の量であることを考えると、気が遠くなりそうな思いにかられる。

     豊かな大地と海

  この青森・三内丸山縄文遺跡は、県南の屋根と言っても良い八甲田山系が北方へせり出し、青森市街へ近づくにつれ緩やかな森林丘陵を形成する、その北の先端である。すぐ北西側を流れる沖館川の河岸段丘の上である。標高が約20m。だから、縄文大海進のおりの海面位置を想定すると、現在の青森湾が南へ広く上昇して、市外部からこの河岸段丘のすぐ下まで海水が寄せていたはずである。即ち、この集落は海に臨む丘の上にあったのである。

   この辺り一帯は昔から三内と呼ばれてきた。サンナイとは、アイヌ語で、“山(後)から海(前)へ開けた川”というほどの意味だそうで、もしこの地の呼

び名がアイヌ語源であるならば、まさしくその地理的条件を言い表してもいる。

   この海に突き出た岬状の台地に、35ヘクタールもの広さで集落が営まれていたようだ。平成9年末までに発掘調査がおこなわれたのは、この内7分の1である。その5ヘクタールだけでも、既に日本最大の規模と言ってもよい。

   集落は発掘地の中央南側の、水場があったと推定されている地点を中心に、形成されているようだ。

   北寄りの、沖館川に落ち込む中央は、“廃棄物ブロック”と呼ばれ、ゴミなどの生活廃棄物の捨て場であったと言われている。谷の泥が泥炭層であるため、本来ならば分解して失われてしまう有機質の遺物がよく保存され、かつてここで暮らした人々の食生活をはじめ日常の生活の跡を教えてくれた。動物や魚の骨、植物の種子、木製品や漆器、骨製品や編布など驚くほど多様な遺物が発見され、当時の生き生きした生活ぶりが伝わってくる。

   また注目されるのは、稗(ヒエ)の痕跡も多量に見つかっていること。ヒエは近年まで栽培されていたイネ科植物で、栄養、カロリー、ともに高く、保存がきくことや大量に確保しやすいことから、食用としての有用性が評価されている。その葉に含まれているプラントオパール(ガラス質の植物珪酸体)が沢山土中から取り出され、クリと同様に、ヒエも食料として栽培された可能性がある。

     異例のおびただしい土器

   これが、三内丸山の特徴である。発掘された場所によっては、足の踏み場もないほどに一面が土器片で覆われている。出土品は発掘当初からの3年間で段ボールのリンゴ箱に約4万個。無数の土器片が現場に堆積していたのである。

   円筒式土器と呼ばれるものが主で、高さ1mを越えるものもある。北は北海道の南域から南は岩手、秋田にかけてこの様式の土器が出土して“円筒式土器文化圏”として、地理的には、津軽海峡にさえぎられること無く、海を挟んで三内丸山が中継点としての位置を占めていたように見える。

   土偶も沢山まとまって出土している。特徴としては、板状土偶と呼ばれる形式で、粘土を板状に平にして人形(ひとがた)を形成したものが主である。最も大きいので32cmにもなる超大型のものもある。

   宗教にちかい習俗に用いられた用具とされている土偶だが、ここで出土するものには壊れたものと同時に完全な形のものも見つかっている。生殖・出産・豊穣を祈り、病気やケガの治療に呪いにかかわったのではないかとされ、他の遺跡では手足や頭、胴体を意図的に欠いた恰好で見つかることが多く、完品が出土するのは極めて珍しい。

  それらの土器片や土偶の殆どが、北と南に位置する巨大な盛り土の中に、廃棄されたように厚く堆積して出土する。

   盛り土は、高さ2〜3m、幅員50×70m程もある巨大なものである。大量の土砂に、多様な土器類、石器、黒曜石製のものもあり、さらに直径6cmを越える勝手無いほどのヒスイの大珠まで混入している不思議な盛り土である。

   これらの土砂は、住居の竪穴や柱穴を掘った祭の排土や残土を捨てたものだけではなく、極めて計画的なものにも見える。そして、中央谷の廃棄ブロックと比較すると、いわば、生ゴミと不燃ゴミ?とをはっきり分別して捨てていることがわかる。

   臭気や衛生、即ち、日常の快適性や伝染病を避けるための大切な知恵と言ってよいが、このような事例は後代の集落では平安・鎌倉・江戸期を通じて見られず、現代にあってもつい最近に採用されたばかりと言ってよい。生ゴミを捨てた中央谷には、当時は海水が浸水し、波や干満によってこれらの廃棄物を洗い、さらに海へ排出し、海水を循環させていた可能性すらあり、この自然の浄化機能を損なわない為にも、分別の考え方が確立していたとも思われる。

     人々を飾る(どのような姿をしていたか)

   縄文の人々の平均身長は、出土遺骨からの統計で男子が150cm、女子はこれより小柄。三内丸山の墓からは、今のところ、人骨は出土していないので正確なところは不明だが、統計数値にちかいものとする。

   衣装についても推定するしかない。厳寒の冬期は毛皮の利用も考えられるが、多くは編み布を衣料にしていた可能性が高い。編みによる布片が出土している。ことに出土した紐付きの“縄文ポシェット”の編みの巧さは特に知られている。

  イグサ科の植物が加工され、十字編みという編み方だという。中からクルミ片が出てきたことから、携行食をいれたものと理解されている。

   この遺跡からは、獣や鳥の骨から磨き出した針が出土しており、布のようなものを縫っていたともみなされている。それは衣服の存在を示し、更に、土器に顔料などを用いて色彩感覚にも敏感であった彼等であるから、衣類にも染色を施していた可能性もある。

   身につけるものとして、他に植物のツルを結んだ腕輪やヘアピンと思われるもの、ペンダントのように用いたであろうものなど、玉や獣角、牙などが加工されたものが沢山出土している。

   即ち、縄文の人たちは食料をはじめとする日常の用に供するもの以外にも、このように執着し、エネルギーを費やした人々であった。

   装飾品の加工や土器の製作、さらには極めて硬いはずのヒスイを整形し穴を開ける行為にいたっては、片手間で出来ることではない。よほど食料の備えや入手に余裕があったのか、専門の職掌のシスチムがあったのか、或いは私たち現代人とは時間の単位があまり違っていたのか、平均寿命や疾病の問題はあったとしても、暮らし振りは豊かであったと考えて良さそうである。

    計画された人工空間

   三内丸山の人々の底力を見せ付けてくれたのが、その集落の有様であった。

  まだ全体の7分の1の5ヘクタールしか発掘は進んでいないが、1500年間分の遺物が一挙に出土してくるわけで、累増的量となる。

   建物は同じ場所に何度も建て替えられたらしく、竪穴や柱穴の痕跡が錯綜している。この十分に巨大と呼んでよい大集落は、悠久の時間の中で、ゆっくりゆっくりとではあるが、少しずつそして確実に人が増え、建物が増え、そのエリアが広がっていったように見える。

   大きな湾を前にし、三内丸山遺跡の近くには10ほども縄文期の同時期に集落が営まれていた。それも一集落ごとの規模が大きく、10数棟の竪穴住居跡がまとまって発見されたりしている。その中心的な位置に三内丸山遺跡がある。それも破格に広いエリアを占めていた。

   道路の両側に延々と大人用の墓が並べられている。土壙墓という形式のもので、向きが道路に対して直角になるように並べられている。

   そのすぐ北側に埋設土器群のエリアがある。この埋設土器が、子供たちのための甕棺である。驚くほどの多数に上る。子供が亡くなると、底の深い瓶に入れて埋葬する慣わしがあったのだ。すでに人の死と埋葬に特別な意義を見出し、埋葬もごく具体的な基準のもとに行なわれていたのであることが解る。同時に葬儀も行なわれたのであろうと察せられる。それは原始的であったかもしれないが、文化そのものであると言ってよいだろう。

   墓の数から見て、子供たちの成長はことに難しかったようだ。既に彼等は、自分たちの存在を、生と死を含めて十二分に自覚していた。このあたりは、もう現代の自分たちと変わりないように見える。

   三内丸山人は極めて計画的であり、意図的である。集落全体の模式図を見ても、その規模は大きさばかりではなくダイナミックな展開の仕方である。

   それはもう、現代の建築計画でいうプランが十分に意識され、意図されていた、と言ってよい内容である。日常の場と非日常の場が建物ごと区別されている。土盛りや幅広い道路が区別され、居住区から離れて墓所や廃棄物を捨てる場所を設け、さらに外縁にクリの林やイヌビエの群落を備えていた。その光景は他ではめったに見ない規模と完成度であった。人間の手で実現した人工空間としても人々に説得力をもつ空間であったろう。

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