小山修三:縄文学への道

縄文時代の思想

   「縄文学への道」         

   縄文人はなかなかのおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリーをつけ、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物までつくっていた。植物栽培がすでに始まっており、固有の尺度をつかって建物を建て、巨木や盛り土のよる大土木工事を行なっていた。聖なる公共の広場を中心に計画的に作られた都市があり、人口は500人を越えたと考えられる。ヒスイや黒曜石、食料の交易ネットワークがあり、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいたらしい。祖先を崇拝し儀礼にあつく、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物に神を感じるアニミズム的世界観を持っている。

   このような縄文社会の姿は、これまで言われてきた、その日暮らしの貧しい原始的な社会のようすとは全く異なるもので、青森県三内丸山遺跡の発掘をきっかけとしてあきらかになってきたものだ。しかし、それは唐突に表れたものではなく、個々の要素としては古くから知られ、議論されていたものである。

    貧しい縄文時代のイメージはどのようにしてつくられたか。

   縄文人が狩猟、漁猟、採集にその経済の基礎を置いていたことは、石鏃や槍や釣針などの出土から容易に推測できる。狩猟採集民は、「古事記」と「日本書紀」からはじまる日本の正史のなかでは、蝦夷や熊襲の名に代表される周辺の民であった。樹下石上に暮らし、獣のように山野をかけ、凶暴で、礼を知らないと記述されている。これは稲作農耕民であった古代日本人の、異文化を見る目に偏りがあったことをしめす。弥生時代以降、農耕民が勢力を拡大してゆくにつれて、その前線で周辺民との亀裂が必然的におこる。その際、相手は劣等であり、征服して当然だと自己正当化を行なっていたのである。

   日本国家の形成史の中で作られた狩猟採集民への偏見は、第二次世界大戦の終わりまで続いた。しかし敗戦をきっかけとして現在のいわゆる科学的な歴史観に変わる。これはヨーロッパを中心に発達した進化史観であった。その論拠は、はじめは狩猟採集に依存する動物のような社会であったが、農耕、牧畜によって文明が起こり、産業革命を経て現代文明へと一律に発達したと見るところにある。狩猟採集民はここでも進化の最下部におかれ、原始的であることに変わりはなかった。

   人類は4、5万年前頃から急に活発な拡散をはじめ、ついには地球上の陸地のほぼ全域に足を踏み入れ、それぞれの地で生活し始めた。世界には現在でも3000以上の民族がいるといわれている。

     縄文の人びとと社会(民族考古学の視点から)

     「モノ」と「ヒト」をつなぐ

    発掘資料によれば、6000年前頃を境に縄文社会は急激な変貌を見せる。遺跡の規模が大きくなり、出土品の量が増える。はっきりとしたプランにそって家屋が並ぶ定住性の強いムラが営まれ、共同墓地が作られるようになる。石や木柱を環状に配した巨大なモニュメントがつくられ、社会的なエネルギーが高まり集中していたことがわかる。また産地の限られた黒曜石やヒスイが広い地域から発見されることは、流通のネットワークが確立していたことを示す。この時代の食料は主として木の実、獣、魚などの野生食だったが、それに加えて、ヒョウタン、エゴマ、ゴボウ、マメ類なども栽培されていたようである。

   栽培植物の存在は大陸との交渉を示している。そして現代までつながる漆、編み物、木製品などの技術レベルは予想外に高かった。縄文時代が最盛期に達するのは中期(約5000年前)で、この時の日本列島の人口を遺跡数から推算すると約30万人となる。そのうち最も人口の集中していた関東地方は、一平方`mあたり3人という狩猟採集経済の段階としては例外的に高い人口密度をもった社会だ。

ゆたかな身体装飾

     顔つき・身体つき

   身なりや顔立ちにとって最も重要な要素である皮膚や髪、衣装や飾り類の殆どが有機質で、何千年もの間地中にあるうちに消滅して実際に見ることが出来ないからである。従って、復元の手がかりとしては、残りやすい人骨と土、石、骨角製のアクセサリーなどの間接的な資料が利用される。

   縄文人の全体的な姿を示す資料として土偶がある。土偶はすでに早期からあるが、中期になって初めて具象的な全身像がつくられ、その後、東日本を中心に細部を観察できるような写実的な例が増える。勿論土偶は女神像とか、出産や病気を治すための形代であるといわれるように、目・乳房・性器・腰などがことさらに誇張されている。

   土偶の顔はあまり写実的ではないが、それでも顔が広く寸詰まりであることや眉の部分が強く高まっている。鼻が高い、唇は厚い、受け口などの特徴が共通してみられ、それは出土人骨での観察ともよく一致している。つまり縄文人の顔立ちは、のっぺりとした顔の弥生人以来の伝統的日本人と較べると、凹凸にとみ立体的だった。身長はあまり高くなく(平均158cm)、手足は短いが、筋肉質で頑丈な身体つきだった。そして、約1万年の長い時代を通じて形質的に大きな変化は無かったとされる。

    身体変形の習慣

   土偶の顔はしばしば文様で飾られている。中にはイレズミを施したと見られるものがあり、鯨面(げいめん)土偶と呼ばれている。

   

   日本で人のイレズミの最初の記録は「魏志倭人伝」の鯨面文身の海人であり、縄文人がイレズミをしたという証拠はない。しかし針や黒曜石片で皮膚を傷つけ、スミを刷り込むだけで出来るイレズミの技術はたいして難しいものではなく、世界の民族例にも広く知られている。

   縄文人は土器や土偶の装飾からうかがえるように、空間恐怖とでもいうべき、過剰なまでに飾りたてを好む人々であった。

   土偶の頭部の表現で目につくのは、耳飾である。土製の滑車形耳飾と呼ばれるものは、大きなものは直径9cmもあるが、これらは耳たぶに穴を開け埋め込んだものだと考えられる。この耳飾は一つの遺跡から多数発見され、それが文様形式の進化と共に大型化する例があることから「付け替えによる耳朶(じだ)伸長」が行なわれたと推察する人もいる。

  土偶の頭部の表現は変化に富んでいる。例えば、晩期の床舞遺跡(青森県)出土のものは、現代の力士の「大たぶさ」のように、前髪と左右のピンをわけ、それが頭の中央部でマゲにまとめられているようすがはっきりわかる。縄文人は髪を結い上げていたらしく、ヘアピン、カンザシ、クシなど、髪の処理や装いにつかわれた出土品は数が多い。モンゴロイド系である縄文人は、こしの強い豊かな直毛をもっており、そのため髪は蓬髪にするよりは結い上げ、まとめる方がよかったのであろう。

   土偶からは観察できないが、縄文人骨を観察して目につくのは歯牙加工である。一般的なものは抜歯で、門歯をはじめ、ときには犬歯、臼歯など14本も抜いた例もある。

   抜歯が最も盛んであった後・晩期では、全体の8割以上に認められるほど一般的であった。歯牙加工は健康な歯を抜き去ったり、削り上げるもので大変な苦痛を伴ったはずである。それにも関わらず、殆どの縄文人は社会の規制によって激しい苦痛に耐え、それを受け入れていた。そのような身体変形の習慣が定着したとき、それが彼等の美の水準になったはずで、欠かすことの出来ない装飾となったのであろう。

    様々な衣装

    東日本の土偶を見る限り、相当発達した衣装があったようである。衣装の主な役割の一つは防寒である。土偶の発達した中部山岳地帯、東北地方の気候は、冬寒く、しかも雪が多い。変化の激しい気候条件下では、衣装に対する関心はかえって高かったことも考えられる。

   衣装の素材としては、編み布が既に前期の時点から発見されている。編み布の原料は、カラムシ、アカソ、カジノキなど多くの植物繊維が考えられるが、それらは硬く粗雑なもので防寒用としては不向きで、防寒用には、毛皮が多様されていたのではないか。狩猟が盛んだった時代なので、供給量も多かったはずである。

   衣類縫製のための針は、骨格製の目のある針があり、また糸は太さ1mmという細いものがあったことが知られている。縄文時代の骨針は、アノラックやブーツを作った時代のエスキモーの針に何ら劣るものではない。つまり技術面では衣装を持つ条件は整っていたのである。

   土偶の体部の表現を眺めてみると、土偶は一般的にはボディラインがはっきり表現されている。これは裸の状態であるか、着衣がピッタリフィットする素材で作られていたことを示す。よくなめされた皮はその条件にあう。

   土偶の衿(えり)には(特に亀ケ岡系土偶に顕著であるが)Vネックとボートネックの二種が認められる。上着の長さは腰部や膝(ひざ)付近で切れるなど様々である。この段階の衣服は素材の形をなるべく単純にしかも有効に利用したはずで、最も効果的だったのは、大型の素材の中央に切れ込みを入れる貫頭衣型だったと考えられる。その場合、頭を通す部分をタテに切れば、Vネック、ヨコに切り込みを入れればボートネック状になる。また、布を閉じ合わせたキモノ形式であれば、Vネックである。

  土偶にはしばしばパンツと思われる表現があり、もしそうなら、裁断縫製であった可能性も高い。またハギレを有効に利用するため、手甲、脚半で足や腕の露出部を覆う方法も使われたと思う。

  

 クツにについては雪靴を表したような土偶の足が出土しており、雪上を歩く為のカンジキに似たものも発見されている。雪国地帯での防寒の対策は完全だったことがわかる。

 土偶の体部にはしばしば複雑な文様が付けられている。それが衣服に付けられた文様ならば、「これほどダイナミックな曲線の表現というのは、染めや織りではなく縄や紐を糸でとめたのではないか」と服飾史の松本敏子氏は指摘する。

縄や紐を貼り付けて文様をつくるブレード装飾は、世界の民族衣装の装飾として広く知られている。

 色彩については少なくとも、赤と黒が多用されていたことが、漆器、土器の例からわかっている。その他白色粘土、漆によって皮膚や編み布が彩られていたとすれば、色鮮やかな衣装のあったことが想像できるのである。

     人びとの集住生活

古代大型建物とムラ

     縄文のムラ

   前期に入ると、縄文人たちは定住的なムラをつくって住むようになった。東日本の典型的な縄文の集落遺跡は、なだらかな台地上の雑僕林の中にある。

  近くに湧き水があり、それが小川に流れ込んでいる。

  住居は中央に炉をもち、煮炊きや貯蔵用の土器、労道具の石器があり、ときには土偶や石棒といった祭りの道具まで揃っている。食事、就寝、作業、仕事、祭祀が各住居内で独立して行なわれる、今日の世帯に似たもののようです。

  平均7,8人で、夫婦と子供を中心とした核家族的構成の世帯だったらしい。そして、住居の配列にまとまりが認められることは、親族関係で結ばれた幾つかのグループが存在してたことが伺われる。

     巨大遺構をもつ社会

東北のストーンサークル

     集団から組織へ

   親族を中心とした縄文のムラは、30人ほどのメンバーが平等に食料を分け合い自給自足生活を営んだホルド(小規模で遊動的な居住集団)だったと仮定し、そこでの生活のあり方を考える。しかし、そのような単純な互酬性経済原理だけでは到底解釈しきれない規模や構成をもつ遺跡や遺構が数多く発見されている。

   後・晩期の東北地方の大湯万座、大湯野中堂(秋田県)などの環状列石がある。大湯の環状列石の配石を詳しく調べてみると、中心に立石のあるもの、四隅に立石を立てたものなど五種の石組の型があり、それぞれ下に土坑(墓穴)を持ち、これらが一種の共同墓地だったことがわかっている。しかしここで問題とすべきは、この遺構が単なる墓の集積ではなく、同心円状の明確なプランを持っていたことであろう。つまり個々の墓が何代かにわたって整然とした秩序のもとに作られており、このことは、それを支える社会組織が背後に存在していたことを示唆している。

  

   一般に、狩猟採集社会は日常は家族を中心とする小グループで暮らしている。

   しかし、食料不足のときなどは必要に応じて父方、母方どちらでも有利な集団へ移ると言う双系制の親族組織をもつ。この組織は遊動性が高く機動的だが、人が分散する傾向がある。これに対して、単系原理(父系か母系かどちらか一方)の親族組織は、先祖を同じくする人びとを集団としてまとめる力を持つ。しかしあまりに厳密な単系制は出自の連続性を保つのが難しいという欠点がある。従って、縄文社会のように人口の絶対量が少なく、生活基盤の不安定な社会では、双系と単系をあわせたような複系原理がとられたと考えられる。

   チカモリ遺跡や真脇遺跡(共に石川県)などの、巨大木柱列遺跡は労働力の集中的投入と言う点で注目される。

  

   チカモリ遺跡では、最大径8mの円形プランにそって10本ほどの円柱が等間隔に立てられた。柱にクリ材で、断面がカマボコ形になる様に加工され、直径80cmを越えるものがあり、それを支えるために径2mの深い柱穴が掘られている。柱材の基部には溝や穴が穿たれて巻きつけた藤ツルが残っている。縄で曳いて運ばれたものらしい。

   長野県諏訪大社の御柱祭は近世に完成された神道の祭事であるが、そこで使われる木のサイズや加工法はチカモリ遺跡の木柱と誠によく似ている。若し両者が相似た行事であったと仮定すると、まず目に付くのは、縄文人が石器で大木を切り倒し、成形し、運搬したという仕事量の大きさである。

   しかし、それにもまして重要なのは、巨木を運ぶという非日常的な行事に多くの人々が集まるという現象であろう。それは成人男性がたかだか6,7人という一つのムラの行事ではありえず、多くのムラが協力し、数百、数千という人が集まったことが当然予想される。

     人を集めるメカニズム

  縄文のムラにどのように人が集まったかについては二つの解釈が考えられる。第一はムラの人口が実は何百人という大きなものであったとする見方である。しかし、その狩猟採集レベルの経済段階からみると、食料補給の点で困難なようだ。第二は、縄文社会には一時的に大量の人びとを集結させるメカニズムがあったとする見かた。

   そのメカニズムとはどんなものだったのだろうか。前期以降、東日本の縄文人の主食がドングリ、サケであった。ところが、この二種類の食品には、共通した「大量にとれるが、収穫期間がごく短い」という特徴がある。ドングリは成熟期にいっせいに実を落とす。地面に落ちたドングリは虫や動物の餌さとなってしまう。そのため、成熟期間後の2,3週間の内に一挙に集めてしまう必要がある。それはサケ・マスなどにも言えることで、魚類は捕獲後急速に処理し、保存することが必要である。そのような条件下で最も効率を挙げるのが共同作業で、その時の労働力の投入は多ければ多いほどよいのである。従ってムラのリーダーは、特定の時期にどれだけ人を集められるかの能力が問われることになる。そして同一地域内に幾つものムラが存在するときは、リーダー間に激しい競争が生じることになる。その競争に打ち勝つのが財の蓄積であり、人をひきつける装置の大きさであり、行事の華々しさであったであろう。

   人が集中して、儀礼を行い、共食し、偏った富を一挙に社会へ還元すること、これは再分配と呼ばれる経済システムで、「多数の人を、必要に応じて、集中させる」メカニズムをもっていた。縄文時代のモニュメント的な遺構は、この社会が互酬性経済に基ずく小集団の集まりだったのでなく、再配分経済という、より大きなエネルギーを秘めた社会であったことを示していると考えられる。

生きること死ぬこと――縄文人の精神世界

     仮面とシャーマン

    幼児は人形や動物をまるで生きた人間のように扱い、語りかけ、遊ぶことがある。全てのものが生きており、魂を持っているとみなす観念はアニミズムとよばれ、世界の民族例に広く認められる。アニミズムは、物体と魂の二つの世界が独自にあるという二元論の世界観で、それを使えば生と死、失神、夢、憑き物(つきもの)、幻覚、影、悪霊などの存在を明快に説明することができ、木、山、石などの自然物や家屋、井戸、道具類などの人工物まで崇拝することも理解できるであろう。

   アニミズムの観念は縄文人も持っていたようで、実用的でない土偶、土版、岩偶、石棒、石刀などの遺物が多く、それらが祭りの対象としてつかわれた例も知られている。またヘビやカエル、奇怪な顔(人間と動物の複合体らしい)が土器の装飾に表されることも多く、カミが祀られたことを示している。

   現代の日本の宗教のなかにも、石、木、山、池、湖沼をはじめ様々な自然物信仰が色濃く残っている。アイヌ社会では風、雨、雷などの自然現象のほか、死者、動植物や身近な火、水にまでカミの観念が及んでいる。そして、様々なカミは、善悪、大小、強弱などのよる秩序をもっていた。

 アニミズムでは、人びととは魂と物体の二つの世界に親しみ調和して暮らしている。そんな中で魂と交流し、その力をコントロールする霊能力を持った人(シャーマン)がいる。シャーマンは唄や踊りに合わせてトランス(憑依{ひょうい})の状態に入り、魂の世界と直接交流し祖先を呼び出したり霊媒となって予言し、病気を治療し、悪霊をはらう、などといった力を持ち、社会的な地位を与えられることが多い。

   縄文時代にもシャーマンがいたらしい。その証拠の一つに、仮面が使われたことをあげることができるだろう。仮面は、土製の実物数例が発見されている。

   土偶のつくりをよく観察してみると、顔は平たく、横から見るとまるで板を張り付けたように見えるものが多い。つまり、顔をそのものが表現されているのではなく、仮面をかぶった状態が表されていることがわかるのである。そして土偶の表現には、実物の仮面と殆ど同一のものが認められる。

   人間的な仮面に、女性のものと考えられ、動物的な仮面には乳母や性器といった女性を表す表現が伴わない。比率としては、9割以上が女性のもので占めている。仮面を被った女性の土偶や、女性用の仮面は目と口の部分が開けられており、それをつけて、踊り唄うことが出来たことを示している。奇怪な表情、そして精霊が乗り移り、仮面と同化するというプロセスは、職業的シャーマンにつながっていくようである。(邪馬台国の卑弥呼)

  シャーマンには男も女もいるが、日本では女が中心となる一つの流れがある。

  シャーマンの道具は縄文時代の出土品を使えば全てそろえることが出来、その音楽的状況はすぐれて縄文的であることもあわせて、そのつながりの強さを考えさせられる。日本のシャーマンの原型は、すでに縄文時代に始まっている。

     生死観と世界観

  縄文時代に存在したと思われる宗教的な活動として、重要なものに通過儀礼がある。

   通過儀礼は、人間には出生、成人、結婚、死などの重要な折り目があり、そこを無事通過するための強化の儀礼がおこなわれるという。折り目とは一つの生が終わり、新しい姿となって再生する時点を意味している。この折り目は、地位、帰属集団、生活条件が変化する際にも行なわれる。

  通過儀礼での成人式に変わるもので、縄文人骨に広く抜歯があり、イレズミも通過儀礼であったと思う。このような苦痛を伴う身体変形は、苦痛の試練を若者に課した可能性が高い。

  死にまつわる儀礼も重要な通過儀礼である。縄文人も早い時代から同穴や集落内に穴を掘り埋葬を行なっていた。その方法は屈葬、伸屈葬、抱石葬、甕棺など様々であるが、時代が進むに従って埋葬法が複雑になり、手のかかったものになる。一度埋葬した骨を取り出し、甕に入れたり。墓域は普通集落内につくられるが、集落外に環状や列状の共同墓地として特定され定型化が進む。墓域内に石組、木柱、家屋がつくられている例も知られ、単なる墓地をこえた神殿に近いものになっていることが考えられる。

  又再生の願いを表すものとして、乳幼児の骨を甕に入れ住居内に埋めたり、女性像の棺に入れて埋葬したりする。縄文人は死を単なる生の終わりではなく、再生への通過点として考えていたらしい。それはアニミズム、シャーマンなどとともに、世界の諸民族の文化の古層に共通した生死観である。

  縄文時代の遺物や遺構には、時代を通して繰り返し現れるパターンがある。それは同心円の形である。同心円は、土器の装飾にしばしばつかわれる。土器は生活用具であるとともに、祭祀の道具として欠かせないものである。

        縄文の葬送

縄文時代の動物と埋葬    縄文思想

       魂と肉体

  人は何故死ぬのか、死ねば何処へ行くのかという問題を続けて考えてきたような気がする。世界のどんな民族でもしに関する哲学を持っている。そのうち、最も普遍的に認められるものは「魂」の観念である。

   生物は物質である身体と、目に見えない形の無い魂が結合したもので、魂は肉体を離れたりまたは付いたりする。物質はいつか必ず消滅するが魂は滅びることは無い、従って、身体が無くなれば魂は別の物質に居場所を変えると考えるのである。E・B・タイラーはこの思想をアニミズムと呼んだ。魂とは夢や幻覚、影などに見られるように、自由に遊離したり置き換わる。その結果、睡眠、失神トランス(憑依{ひょうい})といった現象が起こる。死も魂の遊離として説明されるのである。アニミズムの思想は私たちからみて、あまり論理的には見えないが、それでは現代の科学や哲学が生と死を初めとする不思議な現象をこれ以上にうまく説明しているかというとそうも言えない。

   縄文の造形は殆どが抽象的であるが、例外的にヒトとヘビ、イノシシ、クマなどごく少数の写実的な動物像が作られている。これらの動物は日本の神話や民話伝承の中でヒトやカミに姿を変えながら人間世界と交流する有様が語られている。日本のアニミズムの根は縄文時代に発していると考えられるのである。

   埋葬は縄文時代を通じて非常に丁寧である。小さい穴を掘り、母の胎内にあるときのように身を屈して死者を納める。死者の住む場所の近くに置いたのも特徴だといえる。縄文人は死者との個人的な感情のつながりを重んじていたことがわかる。

    妊婦と子供の死

  均寿命が短いことと、女性の死のピークが早いことは、妊娠と出産がかかわっているからである。五十嵐百合子氏は縄文人骨のうち女性の腸骨の耳状面前下部に認められる妊娠痕の観察からの意見として、10歳代で既に妊娠痕をもつ個体が現れること、50歳代では88%が妊娠痕をもち、全体的にみて縄文人は早くから子供を生み始め、しかも多産だったことがわかる。

    妊娠、出産に顕著な地域差が見られることである。本州の例と較べると北海道の縄文人は早期死亡率が高く、かつ出産率も高い。北海道の生活環境は厳しく、集団を維持するために条件のよい本州の人々より多くの子供を生まなければならなかった。

    妊娠、出産に関わる損傷率が改善されるのは、現代社会の良質の安定した栄養供給と医学が発達した結果で、それは極最近のことである。前近代社会の例として江戸時代末の過去帳や人別帳による歴史人口学の成果を引いて見る。

   まず死産が10〜15%という多さである。出産に成功したあとも死亡率は20%、さらに2〜5歳までの幼児の幼児の死亡率は14%もある。その後は6〜9歳が4%、11〜15歳が3%と安定を見せるが、出生児10人の内16歳まで生き残るのは5〜6人以下という数値がでている。

   母の損傷率も高く女性の死因のうち産後死、難産死の占める率は25%に達している。しかも若い妻ほど危険が高く、出産経験者の85%が出産後あまり間を置く事無く死亡しているのである。新しい生の誕生に際して、母と子の命はともに大きな危険にさらされていた。

   縄文時代には、乳幼児にかかわると思われる埋葬の遺構や遺物の数が極めて多い。東日本では中期から幼児甕棺、住居内埋葬などが表れる。

   梅原猛氏は土偶の表現や作り方と民族例を比較しながら、土偶は妊娠中に死に至り、子供を産めなかった妊婦の無念を晴らし、この世に生を受けられなかった胎児をあの世に正しく送り返すための葬送と再生の儀礼に関わるものだと考えている。このような、死者に対する縄文人の濃密な感性はその背後に魂の再生を信じるアニミズムの思想があることは間違いないだろう。

    親族のつながりと社会

    世代と年齢の混在

    早婚・多産の社会では世代の回転が速い。女性は16歳で母親になり、32歳でおばあさん、48歳でひいばあさんになる。60歳ともなると三世代にわたる係累を従えての太母となる。また出産期が長いので、同じ年齢層のなかにキョウダイ、オジ、オバという二つの世代が普通に混ざっているのである。

   男から見ると更にその混乱度が増す。縄文時代には住居址内で複数の人骨が発見される例が多い。これは住居の住人が、全員同時に死亡し、そのまま放置されたものだと考えられる。そこで住居の成員は世帯を表していると仮定すると、成年男女一人ずつと子供という構成の核家族以外に、複婚家族や三世代家族があったことが伺える。

   出産年齢が限られる女性と比べ、男性の生殖可能年齢は長い。老人が複婚によって若い女を妻にしたとすれば、同年齢層にオジ、オバのほかマゴまで三世代が混ざることになる。つまり、社会の序列を決める要素となる年齢層と世代が混然となった社会といえよう。

     祖先を祀る

    縄文時代には明確なプランをもつ大きな共同墓地が前期からあらわれる。例えば、阿久遺跡(長野県)では径120m×90m、幅30〜40mの楕円形に約300基の組石墓が発見されている。石の総数は30万個に及ぶという。その外側には住居址と8例の掘立柱をもつ方形の遺構があった。

   中期の例に、西田遺跡(岩手県)がある。ここでは、中央に径約40mの円形の墓地の区画があり、中心から外に向って墓が放射線状に並べられている。その外には掘立柱建物の並ぶ約15mの帯、さらに外側には住居と貯蔵穴の帯がある。ともに集落の中心部に墓地をおいているのが特徴だといえる。

   後・晩期になると共同墓地は、集落の外におかれ、よく整備され形の整ったのもが多くなる。小牧野遺跡(青森県)や大湯遺跡(秋田県)などに代表されるストーン・サークルが東日本に分布している。何れも多大な労働力が投入されていることがわかる。

   共同墓地には家族や親族などが計画的に位置を占めている可能性があり、まるで祖先の社会があるようにみえる。設計図がひかれ、建造には多くの人々が動員され、何世代にもわたって使い続けられた。

   祖先崇拝が明確に表現されているのは縄文時代の集団の大きさと強い統合力が反映されているからである。

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