小山修三:カミガミの縄文

  「カミガミの縄文」

      縄文のイコノロジー

  具象表現と抽象表現

    縄文時代の造形物は不思議な形の雰囲気をもつものが多い。

   小林達雄氏は土器や石器など実用品に劣らないほど出土するこれらの遺物を「第二の道具」と呼んで、呪術的なものの蔓延した縄文社会とその背景を考えている。梅原猛氏はそのような作品を集成し、どろどろとした神秘的な縄文人の精神社会を見事に示した。

   このような遺物のつくられ方や使われ方を観察すると、縄文時代には日本の民俗社会に直接連続するアニミズム的世界があったことが容易に推測できる。もしそうなら縄文人はイコン(カミの姿)をつくる必要は殆どなかったと言えるだろう。何故なら自然界の中に存在する山、岩、湖沼、大木、動物などあらゆるものにカミが宿っているので、カミに特定のイメージはなく、それを具体的に表現することは出来なかったはずだからである。それは神道に於いて偶像が数少ないことや、最初の神像とされる東寺八幡宮の彫像が神木を素材としていることにも通じるようである。

   縄文時代の具象像で、特に興味を引くのはヒトとヘビである。もしそれらが縄文のカミのイメージに重なるとすると、それは縄文人の思想や深層心理にまで及ぶことになる。

     ヒトとヘビの具象像

   縄文時代にひろく分布し、長期間にわたって表れる具像像はヒトである。ヒトの姿はアニミズム的世界でもカミのイメージにもっとも近いものだったであろうことは想像に難くない。

   ヒトの像は前期の中期まで明確な形をとることはなかった。土偶に顔がつくられヒトらしくなるのは前期の中期からである。その後、土偶が多く発見されるのは東日本で、それぞれ強い地域性を持ちながら独自の発達を遂げていくのである。

   最も一般的なのは土器や石器片と混じって捨てられている状態である。出土した土偶には完全なものが殆どなく、故意に破損されているという痕跡のあるものが多い。ヒトの像をつくり、壊し、捨てるというこのような土偶の制作や利用法には、のちのヒトガタ(人形)のように人の代用品として病気の治癒や呪いのために使うという意図がうかがえるのである。

   土偶には増殖を保証する女神の姿という基層があり、その後、葬送(死と再生)及び形代としての用途が付加されていったようだ。

   土偶の顔には写実的なものがあまりなく、殆どが奇怪な表情を持つということで、なかにはネコのような全く人間的でないものさえある。しかしそんな例を観察すると仮面を被っている状態を表していることに気づく。仮面(土面)は後期に広く分布するようになるものである。ヒトや土偶は仮面をつけることによってカミとなったのであろうか。それともカミの容貌は描くにはあまりにも恐ろしいものであったのか。縄文のカミはついにその顔を表すことがなかったのである。

   ヘビも具象像としてしばしば現れる。ヘビは食料や薬として利用されたことは十分考えられるが、それ以上に、儀礼や神話、宇宙観などの縄文人の精神世界に深くかかわっていたと思われる。

   

   縄文土器の装飾の基調の一つになっているのは曲線文である。例えば、早期の椴法華(とどほっけ)遺跡(北海道)の「波打つ押し引き決線文の土器」に見られる口縁部の形と、平行決線文が干渉しあいながら、うねる胴部の文様のなかには、ヘビの姿がふと、浮かび上がって見えるようだ。同じような雰囲気は、前期の土器につけられた渦巻文や波状文にも感じることが出来る。

縄文のカミと日本文化

      アニミズム的造形

  縄文の造形は日本美術史のなかでは特殊な位置を占めている。それは、弥生時代以降の直線的で簡素な、いわゆる日本的な美とは全く異質の曲線的で力強いエネルギーを感じさせるものである。この力強さは縄文人が洗練されない未発達な原始人で、奔放なパワーをもっていたという私たちの思い込みによるものなのかも知れないのだが、やはり特異な狩猟民の精神や世界が映し出されていると見るべきであろう。

   造形物を集めて総覧すると、奇怪で不思議なアニミズム的雰囲気がある。縄文人は日常生活の中で動物を重要な資源として大切に扱うとともに、身近に触れ合うことで、動物にも人間と同じく命と魂の関係があることを鋭く感じとったのではないか。そこにカミの観念の芽生えがあったのではないか。

     動物とその造形

   「ヘビ」、ヘビは食料として縄文人に積極的に利用されたあとはなく、貝塚などで骨が出土した例も少ない。しかし、土器などの装飾には写実的な像があらわれ、縄文人の精神世界に深く関わっていたことを感じさせる。

   「イノシシ」、イノシシはシカとともに縄文人のタンパク質源として最も重要な食料であった。獣骨の出土する遺跡からは必ず両者、或いはどちらかが出るといっていいほどだ。貝塚のデータ―ベースではイノシシの出土するのが最も多い。

   イノシシは単なる野生動物だったとは言い切れない面をもっている。八ケ岳南麓にある山梨県金生遺跡は、広い範囲にわたる石組遺跡をもつ祭祀色の強い晩期の遺跡であるが、住居址の傍らに作られた土坑から、138体のイノシシの骨が火をうけて灰白色の変色した状態で発見されている。特に幼獣(全体の83%)の下顎骨だけを選び、穴の壁や底面が焼けただれるほどに強い火をかけていたにである。このような遺跡は関東地方を中心にひろく認められる。

   又、金生遺跡のイノシシの下顎骨からは犬歯が除去されているという。この事実は、イノシシの家畜化がはじまっていた可能性をうかがわせる。

    

   東日本でのイノシシの家畜的扱いは、時代を通じて野生獣としてシカと共に日常食にしていたらしい西日本とはやや趣を異にしていたようである。しかし、多数のイノシシを供え物として神前に捧げる伝統は、弥生時代の西日本につながっている。佐賀県菜畑遺跡や奈良県唐古・鍵遺跡からは多数のブタの下顎骨が出土している。

   イノシシの脂身は栄養があり、寒い地方ではことさら好まれたようだ。

    カミの変貌

   「野生のカミ(縄文時代)」、狩猟採集社会には、カミと動物と人が混沌として一体となったアニミズム世界があった。縄文人は動物と共に生き、その神性を認めていた。動物は精神世界の中でそれぞれ独自の位置を占めていたが、次第に上下や強弱の相互関係が生じていったのであろう。

   縄文時代中期の関東、中部地方では人口が飛躍的に増加した。大集落がつくられ、社会・経済のネットワークが整備された。そんな社会的エネルギーの高まりの中で、ヘビを頂点とする宇宙観が体系化され、それが日本全体にひろまり、縄文精神文化の基調が出来たと考えられる。しかし、環境条件に左右され易いこの社会は、地域性が強く、例えば、北海道や山岳部ではクマ、海辺ではシャチやサメ、平野、山麓部ではイノシシなどを中心にすえた宇宙観や部族創世観が各地に残ったのであろう。

   縄文時代には同心円状のプランをもって作られたストーンサークルや環状土裡、木柱列など大規模な共同祭祀遺構が数多く発見されている。また時代を通じて埋葬や葬送は手厚く、多様で充実しており、祖先や生と死にかかわる独自の精神世界が構成されていたことが伺える。そんな社会では、宇宙をつくり、生命をつくり、人をつくり、部族をつくった創造主があり、それを祀るための特別の装置がつくられ、人びとが集まったのであろう。祭りのときに創世神話を演じるための歌舞音曲も当然、発達していた筈である。

   「カミの相克(弥生時代)」、弥生時代に入ると、水田耕作を基盤とする農耕社会が成立した。これを支えたのは大陸からの移民で、彼等と共に天にある太陽を祖神とする新しい宇宙観が持ち込まれた。新しいカミの姿は具象像にされなかった。唯一造形された動物はトリである。天にカミや魂の住む国があるという考えは、弥生時代に農耕文化の一要素として大陸から持ち込まれたものである。渡り鳥が種蒔きの頃、穀霊を運んでくるという信仰は朝鮮半島に今も残っている。

   西日本に成立した農耕社会は東に向ってその勢力を伸ばす。その過程で、地方の諸民族との間に激しいきれつが軋轢(あつれき)がおこる。摩擦は当然、精神世界にも及び、結局、新来のアマツカミ(天神)が土着のクニツカミ(国神)を服従させた。そのため、土着のカミであるヘビの聖性を否定し、邪悪なるものとして、神話世界から抹消しょうとする姿勢を神話の中に読み取ることが出来る。しかし、ヘビは中央の舞台から姿は消したものの、かえって地方に定着して根強く生き続け、再び地方から全国へじわじわと勢力を伸ばすのである。出雲、諏訪、金毘羅など地方有力神社の神体がヘビであるという伝承は多い。

    精神文化の継承

   八世紀に書かれた日本神話にはカミの性格をもった動物があらわれる。そのうちヘビとワニ(シャチ)は縄文中期(約5000年前)に、イノシシ、クマは縄文後期(約4000年前)にすでに具象像が表現されている。縄文時代には写実的な表現が殆ど見られないのだが、特定の動物だけがリアルに描かれたことは、それらが精神世界に深く関わっていたことを考えさせられる。その背後にはアニミズムから発する宗教観があり、それは少なくとも6000年の時代深度をもっているのである。

   精神文化は、時代の変化につれて不要なものは捨てられ、新しい要素が付加されて変形しながらも、語り継がれ、習い覚えられていくのである。日本列島という器のなかで、形成され、継承されてきた日本文化には、今も基層に生じた根がその姿をとどめるものがある。その一つが縄文のカミであった動物だと言えるだろう。

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