小山修三:”北のまほろば”の人とくらし

縄文時代と縄文思想   青森県

     「“北のまほろば”の人とくらし」  

   ヒエ栽培の可能性

  縄文人の集落が500人規模に達していたとすれば、食料はどうしていたか。

  三内丸山遺跡の整理分析が進むに従い栽培植物の存在が大きくクローズアップされてきた。食物を必要に応じて取り出すことと、生産の場をつくりそこで管理育成するのとでは大きな違いのあることが予想できる。

   食料と人口の問題を考える時、最も重要なのは主食料である。食料の流通機構が効果的でない段階では、ある地域で生産・搾取される食品の総量がその地域の人口を決定する。特に主食料は、その量と供給のあり方によって人口の規模や分布をきめる。又、主食料が貯蔵に適したものであったか、どのように貯蔵したかについても考慮の必要がある。

   三内丸山遺跡では、花粉分析やDNA分析から、クリが主食となっていた可能性が強まった。クリは縄文時代にはもっとも一般的に利用されていた食品で、生産量も高いからである。

   また、ヒエが利用されていたことが明らかになったことは注目に値する。穀類であるヒエは栄養的に優れ、貯蔵が簡単で、主食として誠に効果的な食品である。北海道、東北では前期の住居址から炭化したヒエ粒の発見が報じられている。三内丸山遺跡でも、最近、水洗いのときの網のメッシュを一ミリまで下げた結果、イヌビエの粒が大量に出てきたという。栽培されていたかどうかの実証は今後の大きな課題となるだろうが、遺跡での実験では、野生でも栽培とあまり差のないほどの収量があったと報告されている。ヒエは日本の近世では、非稲作地帯の主要穀類であったこと、そして世界のヒエの分布から見てヒエ栽培は日本が起源地であるという。

   トチ、コナラを食べるには、苦味の元になる物質であるサポニンやタンニンなどを除く必要がある。澱粉を取り出す水さらしの技術は前期から始まり、中期には完成されて全国に広まった。中期からドングリ類を出土する遺跡の数が増えることがそれを証明していると言えるだろう。

   かつて縄文時代の人口を試算したとき、中期のピーク時には30万人近い数がでて、これほどの人口を支えた食料は何か。出土資料をしらべ植物の生産量をはかり、堅果類ならば可能であるということになった。木の実は初めはそのまま食べられるマツの実やクリが主体だったが、アク抜きの必要なドングリ、トチなどを利用するようになる。それと共に、目に見えて、人口が増加することがわかった。この遺跡ではヒエが主食のリストに加えるのである。

     祭祀センターをもつ「都市」

 三内丸山で目に付くのは大きな盛り土遺構である。その一端に、しっぽの

ように突き出た部分があり、階段があったように見える。そう思うと、現在は不規則な形の丘も、かつては直線的な構造の、よく手入れされた台状構造物ではなかったかと思えてくる。その壁面は土器で飾られ、守られていたのかもしれない。トレンチ(発掘溝)の断面にあらわれた層位を見ると、時代ごとに表面を平坦に踏み固めたような丁寧なならし作業の行なわれていたことがわかる。

   また土が焼けたり炭素粒が散乱している部分は、盛んに火が焚かれたあとのようだ。祭り、葬送、交易のための宴のおり、 一段高いプラットホーム上に物と人が集められた。周りに捨てられた大量の土器や道具類もそんな行為と関係が深いようである。

   二つの盛り土を貫くように高床倉庫の列がある。ここに納められたのは食料だろうか、遠い地に向けて舟積みをまつ土器や漆器の工芸品だろうか。後方の6本の柱穴については、御柱、トーテムポール状のもの、物見搭、神殿など様々の意見が出ている。

   プラットホームの前には縄文時代前・中期の遺物廃棄ブロック(通称、縄文谷)がある。湿地の中で原形を失う事無く保存されていたクリ、クルミ、ニワトコなどの野生植物、ヒエ、ヒョウタン、ゴボウなどの栽培植物、魚や獣の骨といった食料残飯、壊れた土器、木器、漆木などの道具類などが大量に発見され、かつては不潔なゴミ捨て場であったことが間違いない。又ゴミと一緒に人間の骨が出ていることは、これほど整然としたマチにも潜在していた残虐な一面を垣間見るような思いがする。

   南東の住居址の集中している地区は1500年もの間繰り返し重複して家屋が建て替えられた結果、規則性が読み取り難いが、環状或いは列状に多数の家屋が配列されていたことは確かだろう。川に面した斜面には土を入れて家屋を建てるために、住宅造成をおこなった場所がある。それほどにこのマチは混み合っていたらしい。また住宅地の東には粘土の採掘坑がある。聖なるこの地の土は特別の土偶や容器のために使われたのだろう。

   北東部の墓域には列状に墓が並んでおり、中には他に較べて優れて大きい物が見られる。また、土器に入れられた者、穴に葬られた者の別がある。その明確な差は社会階層を示すのだろう。

   以上で、1994年までの発掘の結果であり、その8倍近くもある未発掘の部分にはまだ巨大な盛り土遺構やストーンサークル、貯蔵穴群、墓域などがあることが試掘によってわかっている。中央に祭祀センターをもつ大人口の「都市」の姿が蒼然と浮かび上がってくる。

      髪型へのこだわり     

  このような都市的環境の中に住む人々の様子はどうだったのか。

   おしゃれや装飾という視点から見れば、縄文谷からの出土品の中に赤いクシの断片が見つかっている。同じ時期の例としては鳥浜貝塚(福井県)の朱漆塗りの完成品が、二つ森貝塚(青森県)からは透かし彫りのある鹿角製のクシが出土している。後・晩期になるとさらに精巧なつくりのクシが各地で作られている。クシは縄文時代の一般的な装飾品だったのである。

   縄文のクシの特徴は幅が狭く歯の長いことである。クシの歯を揃えるのは大変な作業で、世界的にも古い出土品は殆どがタテ型である。鳥浜貝塚のクシは1枚板から削り出しており、鋸のない時代にも歯を整然としょうとした縄文人の美に対する情念を感じる。今日見るような歯の多いヨコ型が出来るのは、鋭利な金属の利器が普及し、専門的な工人が現れる文化においてである。日本では奈良時代から見られるようになるが、これは明らかに大陸からの影響による。

   髪にかかわる道具としては他にカンザシやピンが知られている。三内丸山遺跡のピンは骨角器で矢羽ねのようなかわいい飾りが付けられているものもある。

   これほど多様な整髪具はザンバラ髪の原始人というイメージにはどうもなじまない。髪を具体的に表した資料としては土偶がある。土偶は殆どが女性だといわれるが、尾関清子氏は頭部の観察で、断髪、巻き上げ、結い上げの三つの基本型にまとめている。

   こう見ると、縄文時代は髪を巻き上げ、作りたてるという点では江戸時代と双璧をなすほどに女性の髪型の発達した時代だったことに気付く。社会が豊かになると女を飾り立てて宝物扱いする傾向がどの民族にも見られる。そんな現象が縄文時代にすでに起こっていた。それが特定の階層だけのものかどうか、或いは儀式などのハレの場に限られていたのかが問題になるだろう。

    運搬されたアクセサリー素材

  

   縄文人は髪ばかりではなく、全体に飾りたてを好んだようだ。それは過剰なまでの土器装飾からも伺えることである。まず耳飾である。

   楔状耳飾りは前期に表れ、その原形は大陸にあるという。ドーナツ状の輪の一部を切り取った形をしていて、素材には白、緑、黒色の綺麗な石が選ばれている。耳たぶに穴をあけ、端を差し込んで半回転して着装したであろう。

   中期には鼓形の直径1cmくらいの耳栓と呼ばれる耳飾が普及する。後・晩期には、直径7cmを越える車輪状の大きな耳飾が現れる。

  こういう装飾具の素材を手に入れるのに縄文人は労をいとわなかった。ヒスイは日本では産地が新潟県の糸魚川上流の姫川にしかない。そこから原料、半製品、完成品が中部、関東、東北地方へと運ばれているのでる。

   オオツタノハやゴホウラなどの貝も同様である。太平洋上の御蔵島、八丈島など、伊豆諸島には前期から縄文人の活発な進出が見られるが、その要因の一つはオオツタノハだったといわれる。彼等は黒瀬川と呼ばれる流れの激しい黒潮を突ききる高度な航海術を開発したのである。晩期には南西諸島産のゴホウラの製品が北海道に運ばれている。

   三内丸山ではヒスイが新潟県から500`以上、秋田県のアスファルト、岩手県のコハク、北海道の黒曜石がそれぞれ100`以上の距離を運ばれてきている。

     皮素材の衣服

    四季の温度変化の激しい日本では衣服が必需品だった。湿地から発見される編み製品には繊細で高度な技術が示されている。編み布、手織りの布も発見されている。繊維の素材としてはアサ、ポシェットの素材に使われたイグサ、シナノキ、フジ、クス、オヒョウなどがつかわれていたことが民俗例から推測できる。

   二頭分の鹿皮を肩と胴部で縫い合わせると袖なしのワンピースになる。立体裁断のように皮を押し付けていくとピッタリした体の線がでる。首のあたりが窮屈なときは襟元にはさみを入れるとVネックの襟ができる。

   土偶にはズボンをはいているようなものがある。ズボン状のものは防寒の効果がある。ところが、今の我々のズボンはかなり難しい。民俗例を探したら、一つは野袴やカーボーイの足宛のように、布を足にあてて部分的に後ろで結ぶ。 

   袖の場合も長い布の両端を縫い合わせて筒状にし、腕を通すと袖だけの着衣ができる。手足の露出部を覆うためには、手甲、キャハン(脚絆)がつくられたであろう。靴は北米インディアンのモカシンのようなものだったのだろう。

     北方型の衣装

   土偶の体部の表現を見ると、縄文の衣服は北方型であることがわかる。最もクマなど大型獣の毛皮や小動物の皮を縫い合わせて大きくし、マント状のものをつくっていたであろう。

   皮を用いて衣装を作る時、一人に二頭或いは三頭分を必要とする事実は重要な問題を含んでいる。そのため、皮衣が大切に扱われたであろうこと、そして親から子へと手渡された伝世品であった可能性が強まるのである。皮の衣装は主としてハレの場で使われ、日常は生産量の多い植物繊維の衣装を使ったと考えた方が良いだろう。

   裁縫具については、皮の裁断にはハサミより剥片が適している。北海道産の黒曜石は特に鋭く、珍重された裁縫具だっただろう。また、様々なサイズの骨針があり、裁縫に便利な糸と通しの穴のあるものが多い。

     基調色は赤と黒

   色彩については、まず、赤が縄文時代を通じて現れる。素材は酸化鉄で、後には水銀朱も使われている。はっきりしているのは葬送で、死者は頭部に或いは全身を赤く染められることが多い。棺や副葬品も同様である。

   しかし赤は日常の場でも良く使われていたようである。例えば赤い漆塗りのクシを湿地のぬかるみの中からとりあげた直後の、目を覆うような艶やかさは、発掘に当たった人が等しく語るところである。

   黒も良く使われ、漆器の他に、黒光するまで磨きこまれた土器があり、赤と対比的に文様を作り出すことが多い。黒色の素材は炭素であろうが、それは身の回りにふんだんにあるものだ。漆に混ぜる場合には粒の細かいススを集めたに違いない。赤と黒は縄文の色彩の基調となっていた。過剰なまでに絡み合った土器の文様もこの二つの色の対比によってより鮮明になるからである。

   白は質の良い粘土や貝ガラを粉にして利用する。意外と発色の難しい色だったかも知れない。

   縄文人は、漆、貴石、貝などの虹色に輝いたり黒光りするような滑らかな面を好んだようである。土器の胎土にも雲母や滑石を混ぜてそのような効果をだしたものがある。このような嗜好は美的センスであるとともに、精神世界にかかわる。

   「正史」の再構築

   日本古代史のなかに本州の北端、青森県の姿を見ることは殆どない。大和朝廷のシンボルとされる前方後円墳は岩手県の角塚までしか存在せず、征夷大将軍坂上田村麻呂がはたしてやってきたのかどうか定かでない。弁慶も平泉で討ち取られてしまった。義経はここを通って北海道に落ち延びたのだろうか。

   開発の波が到来したのも遅かった。青森県で遺跡の全容がわかるような大規模な発掘が行なわれるのはごく最近のことである。だから、あれほどの美的感覚と精巧な技術をもつ亀ケ岡式土器をつくった集落がどんなものだったかさえ

まだ明確にされていない状態である。

   北の縄文文化のエネルギーの大きさは、三内丸山のあの1mをこえる直径の柱が出土するまで気付いた人は殆どいなかった。

   例えば、大型の盛り土遺構を例にとるだけでも、青森県の石神遺跡、二つ森貝塚、中の平遺跡、北海道のサイペ沢遺跡などの名がすぐに浮かんでくる。円筒土器文化は青森県を中心として岩手県、秋田県に色濃く、さらに海峡を渡って北海道に広がっている。三内丸山遺跡はその中心だった可能性が強い。この都市は5500年前に姿を現しはじめ、1500年後に突然その姿を消した。ところが、その後この地には亀ケ岡文化と呼ばれる文化が再び花開き、日本列島の半分を制圧するのである。これは邪馬台国の北にあるクニの一つだった可能性が強いのである。

   このような謎に満ちた北の王国の興亡史はこれまで一言たりとも書かれることはなかった。今「正史」に書かれた縄文社会のイメージを一度白紙に還し、事実を見つめながら、北の縄文社会のありようを再構築する必要がある。

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