北方日本の原始古代文化・稲作の北進を巡って!
(田辺 昭三)
呪術の支配した縄文社会
ここ十年ぐらいの間に、本州最北端の青森県から稲作の遺跡、つまり水田遺構、或いは土器の底に稲の籾の痕跡がついているものなどが発見されている。
東北地方が過去の歴史の中で一番輝いた時代は、縄文時代です。特に縄文時代の後・晩期、縄文の最終末の段階の東北、特に青森を中心として発展した文化は、有名な亀ヶ岡土器に代表される亀ヶ岡文化です。西の方に影響を与え、近畿地方は勿論、西は中国・四国から九州辺りまで影響が及んでいました。縄文時代の最終末の段階における日本全体の文化を考えるとき必ず取り上げられます。
縄文後・晩期といえども、縄文社会は狩猟、漁労、採集という自然経済を土台にしての成り立ちです。人間が生きていく上で自然に強く依存しているので、その自然に立ち向かう人間は大変無力で、巨大な自然に対する人間の無力感が、結局、宗教というか、原始的な信仰を生み出しました。縄文時代は殆ど呪術が支配した世界です。
自然経済を土台にして呪術が支配する北辺の縄文社会の中に、中国で生まれ育った稲作農耕がどのように入ってきたのか。農耕技術だけでなく、それに伴う稲作農耕文化をプラスしたものが、どういうルートを通って、又、いつ頃渡ってきたのか。その技術と文化が呪術の支配する縄文社会の中に浸透していく、つまり縄文社会が中国生まれ中国育ちの稲作と稲作農耕文化を受け入れ、浸透していったのか、どう受け入れられたのか。
そういう経過を辿ることで東北地方の縄文社会の一つの特徴的なあり方、北方日本の原始古代文化の性格や特徴が明確に出来るのではないか。
中国の稲作の起源と伝播 (先史時代・古代中国・古代稲作・稲作の起源・世界最古の稲作農耕・ 7粒のコメに世界が注目)
稲作といえば、中国の江南地方、中国の南部、インド、東南アジア、或いは中国の雲南省あたりがどうも稲の起源の地ではないだろうかと考えられております。
稲と稲作、稲といえば、生物学的な観点で大体説明できると思いますが、稲作にはそれに人間が関ってきますので、歴史的な視点、考古学上の観察、広い歴史全般に対しての研究が必要となってきます。
中国で見つかっている先史時代に遡る稲作遺跡は、今までのところ百箇所近くあります。
日本では最近、農耕遺跡といえば、水田遺跡が出てきますが、水田が発掘調査で明らかにされているケースは世界的に見ても殆どありません。中国ですら水田の発掘は殆ど行われていないのです。ですから、この先史時代の農耕遺跡というのは、農耕に使われた道具や農具の類があるとか、炭化米や栽培したお米そのものが残っているということです。
お米作りの代表的な遺跡として、浙江省の河姆渡遺跡があります。この河姆渡遺跡は、放射性炭素による年代測定で、だいたい紀元前5千年或いは4千年ぐらいの年代で、今から6千年〜7千年前の遺跡であると考えられています。農具なども可也進歩して、動物の肩甲骨のようなものに穴を開けて紐を付けて引っ張る鋤(すき)のようなものとか、骨や木、石でつくった様々な農具があり、とても7千年とか6千年前の河姆渡が中国で最も古い農耕遺跡とは思えないぐらい進歩した農具が大量に発見されています。
中国では、最近、河姆渡を遡る、もっと古い、大体9千年ぐらい前まで遡るといわれている農耕遺跡も発見されています。稲作が生活の基本になっていたということですが、残念ながら、これだけの農具が発見されていながら、田んぼ自体はまだ見つかっていません。そういう意味では、日本の考古学が最近でも盛んに水田跡を新しく見つけていることは、世界的に見ても素晴しいことです。
インディカ、ジャポニカ(古代稲作)という二大品種の外に、ジャワニカという東南アジア系統の稲がありますが、河姆渡から発見された多数の籾はインディカであったということです。ただし、ごく一部、ジャポニカが混じっています。インディカが元々の品種で、ジァポニカはそこから分化したものだったのです。
このジャポニカ種がどんどん北上して、結局、日本の稲になっていくわけですが、長江下流域での南の方にかけてはインディカが圧倒的で、ジャポニカは、殆ど無いと言っていいでしょう。
河姆渡では、二大品種のうちのインディカが主体で、ジャポニカも一部含まれていたことから、稲の品種の中で既に分化が始まっていたと言えると思います。河姆渡を中国最古の稲作の遺跡と考えるのではなく、もっと古く稲作の発祥があって、それが発展、展開していく過度期のある段階を示すものと見るべきだということです。
中国の稲作農耕の文化は、紀元前5千年から4千年の時代、河姆渡を中心とした長江の下流域、杭州湾の周辺を中心として始まり、次第に南北、或いは西に向けて広がっていったと見られます。
稲作の日本への伝来は「長江文明」の「中国古代文明」「古代の稲作」「稲作の起源」を参照。
東北日本への稲作波及 (東北最古の稲作・青森県・秋田県・津軽市・沢内村・太宰と外ヶ浜)
稲作は北部九州に始まって、主に海路を通じて日本列島を東北方向に向かって広がっていく、或いは九州の南の方にも広がっていく。最初は海の道を通ったのではないだろうかと想定されています。考古学では一応稲作の開始を弥生時代の始まりのメルクマールとして決めていますから、もしこれまで縄文式土器といわれていたものが稲作を伴っていたと言うことがわかれば、その縄文式土器は弥生式土器と名前を変えなければならない。
弥生時代の前期、一番早い段階の代表的な土器の形式に遠賀川式土器があります。遠賀川の河口付近の遺跡から発見されたので遠賀川式土器という名前で、弥生前期の代表的な土器の形式名です。
「鎌倉、室町時代ぐらいまでは東北で農耕をする条件はない。稲の生育条件はないから、その時代までは東北地方に稲作はなかったのだ」といっている時代があったようです。
その後、考古学者の努力や歴史家の努力によってだんだん常識的な線になり、ようやく東北地方の考古学を発展させた伊藤信雄先生が初めて、弥生時代には東北で稲作が始まっていると主張されたのです。その後、先生は更に追跡し、土器の底についている稲の籾痕を探って行く内に、東北地方は弥生中期の段階には稲作が行われていたという結論に到達したのです。
これについては、お米だけ南の方から運んできて、お米は食べていたけれども稲作はしていなかったという考え方が非常に強かったのであすが、籾の圧痕が土器に付くという条件を考えると、稲作が行われていたことの完全な証明になる。
稲作というと、やはり稲を作った場である水田が出てくることが決定的な条件になる。
戦後、登呂遺跡が日本で初めて発見された。これは世界でも初めての発見だった。
(登呂遺跡 とろいせき 静岡市にある弥生後期の集落遺跡。1943年(昭和18)軍需工場建設時に発見され、47〜50年にかけて日本考古学協会を中心に全国の研究者をあつめ、大規模な発掘調査を実施した。戦後の日本考古学の出発点の遺跡といえる。その結果、東西250m、南北400mの範囲内に杭や矢板をならべて区画した水田跡が約40面発見された。住居跡12棟、高床倉庫跡2棟なども検出され、弥生農村の実態がはじめて明らかになった。遺物類は弥生後期、2〜3世紀ごろの登呂式とよばれる土器を中心に、木製農耕具や狩猟具などが大量に出土したが、石製品はそれほど多くない。1965年に東名高速道路建設工事で南側がけずられることになり、保存運動がおきたが、調査ののち破壊された。現在は特別史跡となり、市立登呂博物館や公園が建設されるなど、水田もふくめた総合的な見地から保存されている。)
東北における水田遺構の発見 (垂柳遺跡・砂沢遺跡・田舎館村)
炭化米や籾痕のついた土器、或いは農具が発見された砂沢遺跡は、青森県の一番北の津軽平野(津軽市)で、岩木川の左岸、標高20mぐらいの低い丘陵の末端の部分にあります。昭和59年。
この水田遺跡は田んぼの面にしてわずか6枚で、きちんと畔で囲われています。一番大きなものが200平方メートルぐらいで、弥生時代の水田区画としては小区画の方に入ります。
水を引く水路も見つかり、岩木山から冷たい水が流れ出すところですから、冷たい水を田へそのまま直接入れると稲に大変悪いのです。そこでまず冷たい水を溜め池に受け止めて、そこで少し温めてから田んぼへ入れるという施設がつくられています。又、客土の痕跡も見つかっています。
従って、砂沢遺跡は可也高度な農業技術の水準を持っていたと考えられます。ジャポニカ種の稲の籾も発見されています。
一方、この砂沢遺跡からは狩猟や漁労に使う石の道具などが沢山発見されています。だからこのムラに住んでいた人達は、西日本の弥生集落のように農業を主要な生産分野として生活した人達ではなく、半分は縄文時代以来の狩猟、採集、漁労という生産活動に依拠していたのかもしれません。
さらに、砂沢遺跡からは、弥生前期の中ごろの時代まで遡る遠賀川系統の土器が出土しています。これは、日本に稲作が到達してから、あっという間に北辺の地である青森県まで稲の技術が行ったということです。
西日本のように支配的な生産分野には成り得なかったものの、高度な内容をもった農業時術を伴う稲作農業が北辺の地まで行っていたのです。
しかし、それに伴う稲作農耕文化を示す遺物は見られません。例えば鉄器や青銅器のお祭りに使う道具、或いは土器の壺、甕、高杯のセットの類、弥生文化を代表するようなもの、或いは、弥生時代の大陸系石器と呼ばれている色々な磨製石器の部類は、殆ど認められません。
即ち、稲だけが来ているという大変面白いことが砂沢遺跡の発見によって分かりました。
砂沢遺跡の発見よりも少し前、昭和56年に一番最初の大発見が、垂柳遺跡です。岩木川の支流に当たる浅瀬石川のほとりにある遺跡で、砂沢遺跡よりも少し新しい弥生中期の遺跡です。(田舎館村資料館)
浅瀬石川の流れている田舎館村は、お米の反当り収穫が何度も日本で一番になったことのある地域だそうです。弥生時代中期にまで遡る遺跡のある地域が現在もコメ作りの中心となっていることは大変興味深いことだと思います。
この辺りは、「やませ」(やませ(山背) 山をこえてふく山背風のこと。また、局地風の一種であり、北海道と、東北地方北東部の海岸沿い一帯で初夏にみられる。親潮やオホーツク海気団によって、冷涼な北東風が数日ふきつづけ、気温が低下する。やませがつづくと低温がつづき、冷害の原因となる)という偏東風が吹き込まないので、急に気温が下がったりすることは無く、特に開花の時期から実を付けるぐらいまでの間に温度が急激に上がると稲の生育には非常にいいそうです。それ以外時期に多少寒くても、その時期に高温であれば稲の生育によいということです。
このように、東北の本州最北端の地の津軽平野(津軽平野 つがるへいや 青森県西部、津軽半島から白神山地にいたる平野。北西部の七里長浜(長さ28km)で日本海に面している。七里長浜にいだかれた内海に、岩木川がはこんだ土砂がつもってできた平野で、全体に低平である。岩木川とその支流の間にはりめぐらされた水路・池が平野をうるおし、津軽米と日本最大のリンゴの産地となっている。リンゴ栽培面積は全国の約40%に達している。南西部に岩木山(標高1625m)がそびえる。JR奥羽本線・五能線、津軽鉄道、弘南鉄道、国道7、101、102、339号が通じる。東北自動車道の開通によって、東京方面との連絡が容易になった。おもな都市に弘前市、黒石市、五所川原市、つがる市がある。弘前市は津軽(弘前)藩10万石の城下町としての歴史をもつ風格ある都市で、津軽平野の中心として発展している。津軽国定公園の一角を占め、観光資源にもめぐまれる)に可也古くから稲作農耕が及んでいたわけです。
ただし、垂柳の弥生中期の段階以降は、突然稲作の証拠がなくなり、水田も見つからないし、籾殻の付着した土器も発見されていません。
蝦夷征伐の話が出てくる7世紀の終わり或いは8世紀の終わりから9世紀の初めにかけてまで続きます。恐らく、その段階まで、又もとの縄文的な生活に戻ってしまったと思われます。
北方日本、本州の北辺の地は、農耕が非常に早く一旦は発達したものの、支配的な生産の分野になることができず、結局、弥生前期に一種の文化現象として稲作が一気に到達したわけですが、それ以降、現代につながるような稲作農耕が定着するには、なお数世紀にわたる歳月を必要とし、それには政治的な要素が強く関っていたのではないかと思われる。