北方に花開いた 縄文文化

 北方に花開いた縄文文化(青森県の歴史、山川出版社)

 旧石器時代から縄文時代

 地質学でいう第四紀(更新世)の後半期―第三間氷期または第四間氷期の中頃―に、北海道と本州を結んでいた陸橋が切れて津軽海峡が成立した。

 この時代を旧石器(又は先土器)時代と呼んでおり、海を隔てて発見される石器の製作技法や形態に相違が見られるなど、海峡を通しての交流は、必ずしもスムーズではなかったらしい。

 今から約一万二千年前に、旧石器時代からの伝統的な石器製作技法、物を貯蔵又は煮沸する容器としての土器が考案された。 中でも津軽半島の中ほどにある蟹田町の大平山元T遺跡では、無文土器や刃部を研磨した石斧(局部磨製石斧・「磨製石斧」石材の一部ないし全体を最終加工の段階で研ぎ磨いてつくった道具。石材を打ち割り,打ち欠いてつくる打製石器に対応する。も発見され、生活の様相は大きく変化した。

 縄文時代初期の時代は草創期と呼ばれる。近年の開発に伴う発掘調査の結果、この草創期の隆起線文ならびに爪形文土器などが出土し、草創期の実態が次第に姿を現してきた。

 細隆起線文尖底深鉢形土器    上北郡六ヶ所村鷹架字発茶沢出土
 この土器は縄文時代草創期のなかでも古い段階に属し、少なくとも10,000年前をはるかに超えるものであると考えられる。現在、草創期の遺物は全国各地で発掘されているが、他の時期に比べてきわめて少なく、本県では十指に達しない状況である。
 本県の歴史を顧みると、旧石器時代から縄文時代へと移行するものとして、蟹田町の大平山元T遺跡出土の無文土器群があり、国内最古の土器として注目されているが、表館(1)遺跡の細隆起線文尖底深鉢形土器はそれに次ぐものであり、完全な形に復元された優美な姿は縄文時代を代表する土器として各種の図録に掲載利用されており、県民の財産として県重宝に充分値する。

 爪形文土器     爪や爪状に先のとがった工具を連続的に突き当てて横方向に文様を描く爪形文土器は、最も古い土器とされる隆線文土器に続いて現れる縄文時代草創期に特徴的な土器です。県内では白河市高山遺跡、会津若松市笹山原11遺跡で隆線文土器が見つかっています。仙台内前遺跡のA地点では爪形文土器と無文土器、2号住居跡からは無文土器だけが出土しています。

 

  草創期に続く早期は、気温も徐々に温暖化の兆候が見え、海進現象(最終氷期終了以降、もっとも北半球の氷床が融けていたため、世界的な海水準が最も上昇していた。この海水準の上昇は日本では縄文海進と呼ばれ、海面が今より3−5メートル高かったと言われている。日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでいたことがわかっている。また、気候は現在より湿潤で年平均で1〜2℃気温が高かった。) もおこって、従来の狩猟・採集のほかに、漁労も新たに加わるようになった。 貝塚の形成もこの時期の半ばから始まり、特に遠浅の海浜をもつ太平洋岸に著しい。但し、この時期の貝塚は、小規模のものが多い。

  縄文時代前期と中期は、東北地方の北半分に円筒土器が、南半分は大木式土器が発達し、両文化は互いに影響しあいながら発展した。

2つの土器圏

 縄文時代前期(約5000年前以前)は気候がもっとも温暖な時代で、植生も東北北部から北が冷温帯落葉広葉樹林、東北南部が暖温帯落葉広葉樹林だったと思われます。この森林相に対応して登場したのが「大木式(だいぎしき)土器圏」と「円筒式土器圏」という2つの土器圏です。この2つの土器圏は、現在の秋田市と盛岡市を結ぶラインを境として二分され、縄文時代中期(約4000年前以前)中葉まで続きました。
 宮城県の仙台湾周辺を中心とした大木式土器文化では、沈線文・竹管文などの施文法に共通性をもって平底の浅鉢・深鉢・円筒形の土器などが作られました。
 一方、青森県を中心に出現した円筒土器文化は、前期を円筒下層式、中期を円筒上層式といい、形はその名のとおり単純な円筒形深鉢の土器で、岩手県北部から北海道南部まで広がっていました。
 松尾村の長者屋敷遺跡は、縄文時代の住居跡が350棟発見された県内屈指の遺跡ですが、土器は両形式が混じり、前期前半は大木式、後半期は逆に円筒下層式系土器が大半を占めます。さらに末葉には再び大木式となり、円筒下層式との融合形式が成立します。このように大木式と円筒式はお互いに影響を受けながら発展していったものと考えられます。

(「古代遺跡・遺物のスライド写真集」の円筒下層式土器スライド写真)

 この円筒土器は、バケツを長くしたような形状を示し、前期の土器を円筒土器下層式、中期に位置付けられる土器を円筒上層式と称している。

 一般に円筒下層式土器は、土器を製作する過程で原料の粘土の中にイネ科植物を加え繋ぎを強くし、円筒上層式土器は、上半部に粘土の紐貼り付けて器面を豪華に飾っている。

 このように前・中期に繁栄した円筒土器は、予想を越えた範囲に広がりを見せ、北は津軽海峡を渡って北海道に上陸し、渡島半島を北上して現在の札幌市を通り、北端の宗谷岬や、海を隔てた礼文島にまで達している。

 又、南は岩手県中央部から西へ向かって奥羽山脈をこえ、秋田県北部の米代川流域か、ないしは八郎潟の付近にまで達している。更に円筒土器の系統を引く事例まで加えると分布範囲は拡大し、南に波及した一部は日本海を南下して、遠く富山湾沿岸から能登半島にまで到達している。

 縄文時代後期は洗練された土器を用いた時代であり、弘前市十腰内遺跡出土の土器を標識として十腰内土器文化時代とも呼ばれている。

 縄文時代後期には、大小様々な石を環状に配列した環状列石(ストーンサークル)が、主に東北北半分から北海道にかけて築造されている。秋田県鹿角市の大湯遺跡をはじめ、岩手県北上市の樺山遺跡(かばやま)、北海道深川市の音江や小樽市の忍路遺跡(おしょろ)などの環状列石が知られる。

 青森市の小牧野遺跡環状列石は、三重に配列された石の輪が整然と縦横交互に積まれ、その形状が石垣の積み方に類似するなど、環状列石でははじめての方式であるとして小牧野式と名づけられる。なおこの種類の遺跡(環状列石)は、他の事例から墓地とされる。

 三内丸山遺跡は「三内丸山遺跡」と「スライド写真集」参照

 三内丸山遺跡は青森市にある。この遺跡の発見は古く、弘前藩の諸事項を記した「永禄日記」(館野越本)元和9年(1623)正月2日の条に記載が見られる。又、寛政8年(1763)4月14日には菅江真澄も訪れ、発見された縄文土器や土偶を実見して、「栖家の山」なる紀行文に詳しく述べているように江戸時代から知られている。

 平成4年(1992)からの県営野球場建設に伴う緊急発掘調査によって、おびただしい遺構や遺跡が発見され、県は野球場建設を中止して、三内丸山遺跡の保存並びに整備へと軌道修正を行った。

 亀ヶ岡文化の世界

  縄文時代の最後を飾る晩期の亀ヶ岡文化は、三内丸山遺跡での円筒土器文化が豪放で男性的な表現を示すのに対し、繊細で優美な感じを抱かせる土器文化である。

  この土器文化の標識となった亀ヶ岡遺跡の発見は古く、上記「永禄日記」によると、近江沢の地に築城の工事を始めたところ、江戸幕府の一国一城制により中止せざるを得なくなるが、この工事の際に沢山の「奇代之瀬戸物」なる縄文土器が出土したので、この地を亀ヶ岡―甕の出る岡、瓶岡とも書く―と称した方がよいだろう、と記されている。

 又、菅江真澄も寛政8年(179672日には、亀ヶ岡で掘り出された土器類を見分し「外が浜奇勝」に見解を加えて論じている。更に江戸では、文政7年(1824)から滝沢馬琴ら12人の文人による耽奇会において、各自が収集した亀ヶ岡出土の土器・土偶類などを持ち寄って品評会が催されるなど、亀ヶ岡の遺物は珍品として、当時の人々の収集欲を燃え上がらせていたのであった。

 明治12年(1879)頃、岐阜県出身の土岐源吾が亀ヶ岡遺跡の発掘を開始し、多数の遺物を掘り出してその一部が学界に紹介された。

 明治19年には左足を欠いた遮光器土偶―目を雪の反射から保護するためのメガネ状用具からその名がおこる、この土偶の発見当初は瓦偶人と言われていた―が出土して学界上をにぎわすと、東京大学をはじめ、在京の研究者による発掘調査が盛んに行われてきたのである。

   

 亀ヶ岡式土器は、大方の想像を超えた広い範囲に分布している。現在までに知られる分布範囲は、土器の形式によって異なっているが、北は津軽海峡を越えて初期の段階には、渡島半島の南部に広がり、次の段階では北上して石狩低湿地帯に達し、更に次の段階に入ると分布の範囲は若干後退するが、遺跡数は前の段階よりも数倍増加する。晩期後半の段階になると、一部は遠く北海道北端の宗谷岬の大岬や、道東では釧路市においてもその存在が認められている。

 南に対する広がりは、東北地方一円をベースに遠く近畿地方まで達して、最西端は兵庫県の神戸市、最南端は和歌山県の紀ノ川流域のようである。但し、近畿地方に広がりを見せる亀ヶ岡式土器は、前半期の古い形式の類が多く、大洞A・A式土器のような後半のものの出土は少ない。恐らく、後半期の頃は、近畿地方は既に弥生文化の時代に入っていたのであろう。

 今日、多くの人々に亀ヶ岡式土器として理解されているものは、土器を作る際に十分吟味した細粒の粘土を用いている精製土器と煮沸を主目的に作られた粗製土器がある。

 その比率は圧倒的に粗製土器が高く、精製土器は出土土器の1015%程度に過ぎない。粗製土器の器形は鉢、深鉢、甕が多く、中には底に台の付いた土器も見られる。(「太古から眠りの覚めた土器」参照)これに対し、精製土器は浅鉢、皿、壺、注口、香炉などの器形があり、又深鉢には台の付いた土器も見られる。恐らく精製土器は食事における盛り付け用であろうが、中には赤色顔料や漆の塗布されているものもあり、これらは祭祀に用いられた器物であろう。一般に精製土器は器面が丹念に磨かれ、注口土器の中には光沢を持つものも多い。

 亀ヶ岡文化期の遺跡は泥炭層を伴う例が多く、そのため三内丸山遺跡と同様に、植物を利用した遺物が発見されている。中でも大正末期から昭和初期にかけて調査された、八戸市の是川中居遺跡是川中居遺跡は、青森県八戸市の新井田川左岸の台地に形成された縄文時代晩期の遺跡である。本遺跡は、多量の縄文土器や石器と伴に漆塗りの弓、藍胎漆器、太刀、櫛などやオニグルミ、トチノキなどの植物遺体が出土した低湿地遺跡として知られ、出土遺物の多くが重要文化財に指定されている。平成1112年度には中居遺跡南部のCD区の泥炭層の調査が行われ、人口遺物のほかにトチノキ種皮やオニグルミ内果皮の植物遺体や獣骨、魚骨、貝などの生業に伴うゴミが多量に含まれていた。この泥炭層は北西から南東にのびる北の沢と南の沢内に形成され、北の沢では厚いところで約2m、幅12m以上の規模をもつ。遺跡周辺の生態系の復元と生業を解明するために、年代測定や花粉、大型植物化石、木材の植物化石群の調査が行われた。「古代の森」http://www.kodainomori.jp/korekawanakai.htmより)  は、出土遺物の優美な点から、縄文時代の代表的な遺跡として有名であった。 特に木製品は逸品が多く、縄文人の技術とは信じられない、との声も聞かれるほどである。 弓・二弦琴(箆・へら状木製品と称している)・赤漆塗りの台付き皿や太刀状木製品などであり、先の円筒土器文化期と同様に、漆が塗料又は接着剤として利用されていた。 又樹皮を用いた編み物の技術も素晴しく、笊(ざる)をはじめ、中には雪国のカンジキに類似したものも発見されている。

 津軽海峡を巡る文化交流

 縄文時代における本州と北海道との交流は、自然の障害である津軽海峡を越えて想像以上に盛んであり、その交流は既に早期の段階で始まっている。中でも約600棟にも達する竪穴住居跡が発見された函館市の中野B遺跡

中野B遺跡

中野A遺跡・中野B遺跡 縄文都市連絡協議会

http://www.aomori-net.ne.jp/~jomon/index.html
  函館空港遺跡群の一つで、縄文時代早期前半から前期初頭頃(9,000年から6,500年前)の大規模な集落跡が見つかっています。中野B遺跡からは600軒を超える竪穴式住居跡が見つかり、国内の縄文時代早期の遺跡では最大級の集落跡といわれています。遺跡からは、網のおもりとみられる石錘が大量に見つかるなど、漁業を生業としていたことを物語っています。また、津軽海峡を挟んだ下北半島の遺跡などに見られる貝殻で付けられた幾何学文様の尖底土器や北海道東部地方の平底の土器と同様なものが見つかるなど、遠方との数多くの交易の姿を知ることができます。

 本州の貝殻沈線文をもつ物見台式土器(青森県の物見台遺跡から発見されたものを標識土器とし「物見台式土器」と呼ばれています)が多く、約7000年前の頃には海峡を挟む同一文化圏であったろう。

 円筒土器や大木式土器をはじめ、十腰内式並びに亀ヶ岡式などの土器は、本州側から渡道した状況を示し、北海道の堂林式土器が下北半島や津軽半島で発見されるなど、土器のみで見ても予想を超えた交流の存在を感じることができる。 更に土器を除いた各種の遺物にも交流の証拠は多く、鋭利な刃器となった北海道産の良質な黒曜石(黒曜石産出地)が本州に運ばれ、本州の新潟県糸魚川小滝ならびに青海町橋立産の硬玉(翡翠・古代遺物スライド写真集)が、海をこえて北海道の縄文人の身辺を飾っていたのであった。

 最北の弥生文化

 弥生時代

 この弥生時代は、稲作による水田経営によって人々は土地と深く結び付き、やがて広い土地を有し、収穫の多い人が支配するような社会構造を生ずるに至ったこと、石器よりも鋭利な金属器(青銅・鉄)が使用されるようになったこと、織物が作られるようになったこと、ガラス玉などの装飾品の出現などを、先の縄文時代にかわる特色として考えられてきた。

 縄文遺跡でのコメや穀物類の発見

  弥生時代における農耕の中心であったコメは、近年の調査・研究によって次第に遡り、青森県では、平成3年(1991)に八戸市風張遺跡の第32号居住跡から、縄文時代工期末の土器(十腰内V式)と共に炭化した6粒のコメが発見され、又亀ヶ岡遺跡でも、縄文晩期の土器(大洞A式)に伴って籾や炭化米が出土している。少なくとも縄文時代の終末に近い頃には、栽培の問題は別としても、コメを知っていた可能性は高い。

  風張遺跡8回目 八戸市風張(かざはり)(1)遺跡(縄文時代後期)

 この遺跡は八戸市の南方の是川地区にあり、国史跡の是川遺跡とは新井田川をはさんだ対岸にあります。調査は八戸市教育委員期が昭和63年から平成3年まで継続して行い、縄文時代から平安時代にかけての遺跡であることがわかりました。
 発見された竪穴住居跡や土坑などのほとんどは今から3,500年くらい前の縄文時代後期のものとわかりました。住居跡は253軒も発見され、ほとんどが円形の形をなし、直径5mほどのものが普通だったようです。地面を掘りくぼめたお墓も発見され、東西の2つのブロックに配置されていたようです。集落の構成にも特徴があり、真ん中に広場があり、その外側に集団墓地、掘立柱建物群、竪穴住居群が環状に配置されていたようである。
 出土遺物としては、両手を組んだまさに「合掌」している様を表現したような土偶などが出土しています。

   

   青森県では縄文人が栽培した食用植物として、三内丸山遺跡を除くと、キビ、アワ(風張遺跡)、ソバ(亀ヶ岡遺跡)、ヒエ、ゴマ(六ヶ所村富ノ沢遺跡)があり、北の北海道では縄文前期にヒエが存在し、前期末にはソバの花粉も知られている。

 稲作の伝来

 我々の主食であるコメは、東南アジアないし中国の雲南地方か、或いは長江流域が原生地と言われ、中国の華南地方で広く栽培されたのちに、恐らく朝鮮半島を経て九州北部へ伝えられ、やがてこの地に新しい弥生文化が発生した。

 稲作を伴った遠賀川式土器で代表される弥生文化は、日本列島を東進して近畿地方に入り、さらに東進北上して各地に稲作の技術を伝え、ついには東北北部の到達して、縄文土器の余韻を残す砂沢式土器と混合するのである。

  垂柳遺跡・砂沢遺跡の弥生水田

 東北北部への稲作の早期伝来については、昭和28年代から東北大学の伊藤信雄教授が、学界の批判をうけながらもその可能性を主張していた。たまたま昭和30年(1955)から翌年にかけて、田舎館村内で行われた田圃整備事業において、垂柳地区を中心とする一帯から多量の土器と共に炭化米も出土した。それらを丹念に収集した地元中学校の工藤正教諭は、伊藤教授の指導を受けて調査・研究に励み、昭和330年秋には東北大学による垂柳遺跡の発掘調査も実施され、その成果を元に、稲作農耕が弥生時代中期後半の田舎館式土器期には成立していたことを証明した。その後、昭和56年の国道102号バイパス工事に伴う試掘調査で、弥生時代の水田跡が10面ほど発見された。更に、翌年57年と58年の二回の調査で、656面の水田跡が発掘された。

垂柳遺跡の弥生水田跡(田舎館村)  国道102号バイパス関連調査で計656面が発見された。水田跡は畦畔によって整然と方形又は長方形に区画され、一面の大きさは平均10u内外である。又水田跡面には弥生人の足跡も発見されている。

砂沢遺跡の弥生水田跡(弘前市)  江戸時代に建造された砂沢溜め池内にある。発掘調査で6面が発見されたが、農耕地に供給する溜め池の水位を維持するため完掘していない。畦畔は垂柳遺跡よりも幅広く、丹念に築造されている。

  砂沢遺跡は、青森県一の高さを有し、別名津軽富士と称する岩木山の北東麓に延びた丘陵の突端部に位置する。現状は藩政時代に築造された灌漑用の砂沢溜め池内にあって、秋の一時期を除くと常時水没している。

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