北方世界との交流が育む青森(青森県の歴史、山川出版社)
豊かな自然ときびしい気候・豪雪と「やませ」(北東風)の風土
青森県といえば、南部と津軽の抗争の歴史、というイメージを持たれる方も多い。くっきりと異なる風土と気候が育んだ、双方の気質や精神構造の違いが、長年の対立をもたらしたというものである。
青森県の地形は、中央に奥羽山脈があり、これを境として西部と東部では大きく異なる。西部では岩木川によって形成された沖積低地が主体を占めるのに対し、東部では十和田、八甲田火山から噴出した火山灰で覆われた沖積台地が広く分布する。中央には那須火山帯に属する十和田・八甲田火山が位置し、東西の分水嶺となっていて、十和田火山帯に位置し、中央に二重式カルデラ湖の十和田湖を有する。下北半島には、田名部川流域にむつ低地が位置し、西方には那須火山帯に属する恐山火山と?岳(ひうちだけ)火山があり、西部には下北山地が位置する。
このような自然地形の特質にもとづき、八甲田の中央山地を境にして、南部と津軽では気候の面で顕著な違いが認められる。西部の日本海側では冬期に大陸高気圧からの北西季節風が強く吹き、大量の降雪をもたらす典型的な日本海型の気候を示す。津軽半島・下北半島も同様である。それに対し東側の太平洋側地域では季節風が強く、晴天小雪という太平洋型の気候を示すが、夏にはオホーツク高気圧による北東風(やませ)があり、これが冷涼な気候をもたらして冷夏となって、昔から幾度も深刻な凶作を引き起こしてきた。更に昭和46年(1971)には全国最高気温を記録し、酷熱の夏を向かえることもあった。このような青森県の自然と気候を一言でいうならば、豪雪と北東風(やなせ)の風土であり、更に付け加えると酷暑があり、これらに象徴される極めて厳しい気候といえる。
南部と津軽・県民性
太宰治(1909〜48)の代表作「津軽」の中で、弘前の人々を次のように評している。
「弘前人は頑固に何やら肩をそびやかしている」し、又「弘前の城下の人達には何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるようだ」とのべ、太宰自信にもそんな始末の悪い骨が一本あって、不遇をかこっていると告白している。津軽人は、派手・積極的・社交的・強情ばり(ジョッパリ)などの面を持ち合わせているというものであろう。
反面、南部地方の人々は、概して地味・消極的・無口・非社交的面が強いといわれる。
従来、このような気質の相違は、南部は畑作を、津軽は稲作を生産基盤としたことにあると言われてきた。端的にいえば、稲作の津軽では近隣との相互交流や交換が行われにくく、一種孤立的で閉鎖的な独自性を持ちやすくなり、個性的ではあるが、客観的なものの見方が育ちにくい。一方、畑作の南部は厳しい自然条件のもとにあって、畑作社会独得の個人主義的な気質が育成され、人間関係はある程度以上相手の心に踏み込まないようにする傾向が強い。それを内向的と見る向きもあるが、そうではなく、現実的な性格が強いということであろう。
酷寒の冬と短い夏の間に快適な春秋があり、四季が判然としていて、多彩な風土は豊かな文芸を生み出した。棟方志功(1903〜75)の版画、葛西善蔵(1887〜28)、太宰治・石坂洋次郎(1900〜86)らの文学がその例であり、そのほか寺山修司(1935〜83)ら多くの詩人・劇作家・小説家などが輩出し、青森県出身者を抜きにして、近代日本の文学を論ずることは出来ないほどである。
北方世界との交流
昭和19年(1944)、竜飛岬に至った太宰治は、竜飛を「本州の極地」「本州の袋小路」と表現した(「津軽」)。津軽海峡を前にした太宰の感情は、分断と閉鎖、そして貧窮感との混ぜ合わせた、いかんともしがたい屈折した気持ちであった。
ところが、津軽海峡は分断の象徴ではなく、歴史の各時代において人・もの・情報の交流、交通の大動脈あったのである。
平成6年(1994)の夏、青森県が大いに沸きたった時期、三内丸山遺跡発見による「国内最大の縄文集落」が発見された。
三内丸山遺跡の景観(青森市) 中央に広がる円形の区域内に780棟を超える住居跡、廃棄された多くの遺物が埋没している。現在、竪穴住居跡6棟、高床式掘立柱建物3等のほか大型掘立柱建物を復元している。
大型掘立柱建物の柱穴、6本の柱穴の中心点で計測すると柱の間隔は正確に4.2mを測り、縄文尺の存在も想定されている。柱穴の底にクリの木の柱が残存し、中には径1.03mを有するものもある。
この遺跡からは巨大建築物の発見にとどまらず、貴重な出土品の発見が相次いだ。北陸系糸魚川産のヒスイ製玉類のほか北海道産の黒曜石を用いた石鏃、岩手県北部の久慈産と見られる琥珀、秋田県八郎潟付近の産と推定される天然アスファルトなどの発見が続き、約4500年前の縄文人たちによる交易範囲の広さに驚かされた。
アジア大陸と密接に関係した、このようなダイナミックな北方世界との交易・交流の中から、青森県の歴史や文化が原始時代から形成されてきたのであり、そのことこそが青森県の歴史の最大の特徴といえよう。
加えて、青森県は列島の南北から多くの人・もの・情報が交差する地域であり、本州から蝦夷地・北海道へ向かう出口であると共に、北方世界から本州への入り口でもあった。