「夏の家」「冬の家」
(大島 直行 伊達市教育委員会文化財課)
家のかたち
本州では、竪穴住居跡のほかに「掘立柱の跡」が数多くみつかりだしている。
これらは、壁立ちの平屋住居や高床住居、物見櫓や祭壇のような施設の痕跡であるというから、この時代の住居様式がかなり多様であったことが解かる。
それに比べ、北海道で発見される住居は今のところ竪穴形式に限られる。本州と同じように、各種の建物があったかどうかは明らかではないが、土器や儀礼・祭祀に見られる共通様式の地理的な広がりを考えると、いずれ北海道でも竪穴以外の居住施設が見つかるような気がする。
北海道では縄文文化の早い段階から家の構造は竪穴様式に落ち着いたらしい。
函館市の中野B遺跡では、円形を基本とし、30cmほど地面を掘り下げて床が造られるなど、規格性が窺える。546軒という数にも驚かされるが、形や深さのほか、2本、或いは4本の主柱に壁際に巡らされた桁受け用の柱を組み合わせる構造など、ひとつの建築様式が完成されていることのも驚かされる。
ただし、柱の穴は、この後の前期や中期などのように大きなものが規則的に配置されてはいない。かと言って、これが構造的に稚拙であるとは言い切れない。その後の後期や晩期の住居の柱とて似たようなものである。
ところで、炉の付設率が6割程度と少ないのもこの時期の特徴である。これは何故かと言う議論もあるが、住居ではなく倉庫だという説もあるが、「夏の家」「冬の家」の区分も考えられる。
いずれにしても、こうした住居の完成度の高さを考えると、どうも縄文の夜明けと共に、いきなり竪穴構造の住居が出現したのではないと思われる。
縄文につながる旧石器の時代に、既にその前触れがあったのではないか、との疑問も沸いてくる。
これまで全く発見されることの無かった縄文時代草創期や、更に遡って旧石器時代の竪穴住居が、主柱は、たかだか直径5、6mの住居にも係わらず、大きさ、深さとも7、80cmもの穴が掘られている。
恐らく太さ、3、40cmの柱が建てられていたと想像される。
大型竪穴住居。北海道南茅部町・大船C遺跡(南茅部町教育委員会)
この遺跡の住居は、長さ8〜11mと大型で、特に深さが2.4mと非常に深いのが特徴。
この時代のもう一つの特徴は、炉への拘りである。特に、中期には立派な炉が造られる。 ただし、これは北海道に限ったことではなく、東日本に共通した現象である。
道南地方では「ウィング」と呼ばれる装飾のついた石囲いの炉が現れるが、これらは、炉の機能が単に暖房や調理のためだけにあるのではないことが予感される。
そもそも家の中の炉というのは調理や暖房のためにあるのだが、ある意味ではそれが主目的ではなく、家の魔除けなど儀礼的な意味合いの方が強いという見方もある。
炉の装飾を施すのは、土器の表面を魔訶不思議な模様で飾り立てたり、派手な突起をつけたりするのと同じような、実用的ではない意義があるかもしれない。
竪穴住居の文化的意味
竪穴住居は、穴を掘って、柱を立てて、カヤなどで屋根を葺き、中に囲炉裏が作られたもの。
構造的には日本列島全体でさほど大きな差はなかった。平面の形も基本的には円か四角である。
ところが、形だけでなく深さ、柱の数や大きさ、炉の位置や形などを細かく見ていくと、時代や地域によって、その在り方には様々な違いがあることに気づく。 つまり、中期の場合、関東地方では同じ円でも方形に近い楕円であるのに、東北北部や北海道南部では卵型か将棋の駒の形であったりする。
注目すべきは、こうした住居の形の違いが意外にも土器の形式の変化に連動している点にある。
例えば、東北地方の前期や中期の代表的な円筒土器を取り上げる。この土器は津軽海峡を挟んで北海道にも分布する。分布の中心は渡島半島であり、登別、白老あたりを過ぎ石狩低地帯に向かうにつれだんだんオリジナル性が薄れてくる。実は、この現象が、そのまま住居の「形式」の広がりと一致するのである。
住居というものは、単に住みやすさや快適さだけでその形が決まっているのではないようだ。竪穴住居の形には合理的な理由など無いのかも知れない。むしり、精神的に根ざした信仰的な意味合いがあるのではないだろうか。
縄文人には「竪穴住居に住む」という習慣があって、寒かろうが、暑かろうが、とにかく、それによって縄文人としてのアイデンティティを確認し合っていたのかもしれない。
しかも、縄文土器の形式と同じように竪穴住居にも「形式」があり、好き勝手な家の形にすることはタブー視されていた節がある。つまり、円筒土器圏内に土器形式と住居形式の一致はそうした事情を物語っているように思われる。
住居の深さにはそうした規制が無いからますます面白い。南茅部町の大船C遺跡の竪穴が深いのは寒さからと言う解釈もあるが、では、大船Cより北にある住居は皆な深いかというとそうではない。全国的に見ても、住居の深さは様々である。土器形式との一致も見られない。要するに、形は自由に決められないが、深さはそのムラの判断で自由に決めることができたということだろうか。
それにしても、大船C遺跡では、家ばかりかお墓も深いらしい。1mを越える深さの墓が掘られているという。
ところで、墓と同じように、堀くぼめることと、或いは関連があるかと思われることに「環状土?」の竪穴がある。
わざわざ大きな竪穴を掘ってからその中にお墓を造るのである。未発達な縄文社会でのこの無駄とも思える仕業には首を傾げたくなる。やはり、地面を掘り下げるということには、我々現代人の思いも付かない何か凄い意味が隠されているような気がする。
(大島 直行 伊達市教育委員会文化財課)
新北海道古代史―1 旧石器・縄文文化(野村 祟 宇田川 洋編)