縄文の道

縄文の道・樽前山の噴火

「日本の古代遺跡 北海道  野村 祟」抜粋

      縄文人の道

   動物形土製品

 千歳川と苫小牧市の境を流れる美沢川左岸の美々遺跡から、1976年(昭和51)に出土した特異な土製品。

動物形土製品  千歳市美々4遺跡

縄文時代晩期 高さ31.5p

 美々遺跡は縄文時代後・晩期の墓地を主体とした遺跡で、墓坑からは人骨、玉類、櫛、耳飾り、石棒、石斧、土器などの副葬品が多数出土している。遺体の上に他所から持ってきた火山灰を盛り上げた径10mを越えるマウンド状遺構(墳墓)が7基発見されている。

 動物形土製品は、径10mをこえ、高さ1.2mほどのマウンドの直下から押しつぶされた状態で発見された。 体部などの文様の特徴から墓の副葬品と同じ時期のものと考えられる。高さ31.5p、最大幅16.2p、胴及び上下股をもった中空の土製品である。

 頭部には二個の突起を持ち、眼と思われる窪もある。胴部には一対の前肢、それぞれの先端には、四つの窪みで指か爪に対応する五つの小さい山が作り出されている。 後肢の突起は見たれない。しかし、胴体の下部が三角形の透かしで分けられており、一部は欠損しているが、右側の透かしは、他に胸部と背の上及び下に円形のものがある。文様は三又文に入組文、磨消帯によって構成され、一部にベンガラがついている。

 動物を模したものである。 どんな種類のものか決めるのに困難である。カモなどの水鳥、海峡、亀などという説もある。(千歳市教育委員会での保管)

    縄文の道

 人類が誕生して以来、ヒトが歩いた道は無数にあった。しかし、後代の都市遺跡を除いて、道そのものが発掘された例は極めて少ない。

 美々4遺跡は、稀有な例の一つで、人間の道ばかりでなく、動物が行き交ったケモノ道まで残されていた。これは、遺跡の背後にある樽前山の噴火により、瞬時に火山灰が遺跡を覆ったために残されたものである。

 道の跡は1985年(昭和60)の調査において、約2.300年前(縄文時代晩期終末)に噴火した樽前Cと呼ばれる火山灰を除いたところ、わずかの窪みが点々と、また線状になって火山灰が残っていたために、見つけることができた。

 人間が歩いたと見られる道の跡は、幅が40p、深さ4pで、延長145mも踏み固められ、美々4遺跡の中ほどから東西方向に美々3遺跡にまで続いていた。

千歳市の美々4遺跡では、縄文人が歩いてできたわずかな窪地を樽前山の火山灰がそのまま埋没して、晩期の“道”が一`以上にわたって残されていた。縄文人たちは、何処から来て、何処へ行ったのだろうか?

 動物の足跡は、大きさが10p、深さ2pで、並び方や大きさなどから、ウサギ、キツネ、シカと考えられる。

 ウサギはピョンピョンと飛び跳ねて、二つ単位の後ろ足が付き、キツネは長円形で先に爪の跡がある。シカはキツネより細長く、ひずめの跡が二つ向かい合っている。

 動物の道と人間の道が、遺跡のなかほどで交差しているところもある。

足跡が残ったのは、当時のこの地域の土壌が、地表から2,3pの部分が柔らかくなり、その下が硬化していたときにつけられたものである。硬化の原因は凍結によるものであり、その下が硬化していたときに付けられたものである。硬化の原因は凍結によるものであり、その季節は融雪後であると、動物の生態学の門崎氏は推定している。

 美々4遺跡

 環状土籬は、北海道の縄文時代後期後半に見られる集団墓地である。直径数mから30mをこえる円形の竪穴を掘り、その土を周囲に土手状に盛り上げ、なかに個々の墓をつくる。その数は1基から20基以上のものまで様々で、櫛や玉、石棒、石斧、土器などが副葬されている。

 土を巡らすことから「周提墓」ともよばれる。渡島半島を除く全道に分布し、北海道の縄文時代の特色ある墓制の一つである。

 チャシ 

  チャシ アイヌの人々によってつくられた砦状(とりでじょう)の遺構。柵(さく)、柵囲いを意味するアイヌ語を語源とする。北海道全域、千島列島、サハリンなどに広く分布し、道内では現在500カ所以上が確認されている。

 海、湖沼、河川などに面した急峻で、見晴らしのよい丘陵の頂部や先端部を深さ23mの壕(ごう)でくぎったり、土塁でかこんできずいている。規模は1001000m2のものが多い。チャシがきずかれた年代は、遺跡から出土する駒ヶ岳、有珠山、樽前山(たるまえさん)、雌阿寒岳などの火山灰の降灰年代や、近世の文献、外国人の探検記の記録などから、1618世紀ごろとされる。しかし、もう少し古いとの説もあり、起源や初現年代についてはいまだ不明な点が多い。

発掘調査では、壕や柵列跡、掘立柱建物、橋状遺構や、近世の陶磁器や鉄製品、内耳土器(ないじどき)、漆器などの遺物が発見されることが多い。砦としての機能だけではなく、ほかに漁労や狩猟の見張り場、儀式や談判の場、英雄の居館とする説もある。

 チャシは、北海道東部の根室、釧路、日高、十勝に多く分布し、海岸部にはとくに大規模なものが集中する傾向がある。これを1669(寛文9)のシャクシャインの戦と関連づける見方がある。チャシは本来、さまざまな機能をもっていたが、アイヌと松前藩との緊張関係が生じるにつれ、砦としての機能が強化され、発展していったものと考えられている。

   支笏洞爺国立公園

支笏洞爺国立公園 しこつとうやこくりつこうえん 北海道南西部、石狩、胆振(いぶり)、後志(しりべし)3支庁にまたがる国立公園。さまざまな種類の火山地形を主体に、支笏湖とその一帯の温泉群、有珠山と昭和新山をふくむ洞爺湖周辺、羊蹄山の3地域からなる。1949(昭和24)に国立公園に指定された。面積は993.02km2。

支笏湖は水深と水質の高さで名高いカルデラ湖( カルデラ)で、周囲には樽前(たるまえ)山、恵庭(えにわ)岳、風不死(ふっぷし)岳などの火山がそびえる。樽前山の山頂には1909(明治42)の噴火で形成された溶岩ドームがのり、特異な外観をつくっている。

洞爺湖もカルデラ湖で、中央に中島などの火口丘をもつ。湖の南には火山活動を盛んにおこなう有珠山と昭和新山がそびえる。蝦夷(えぞ)富士の異名をもつ羊蹄山はうつくしい円錐(えんすい)形の成層火山で、山麓(さんろく)には地下水がわきだしている。

昭和新山

194345(昭和20)、有珠山(うすざん)の火山活動によって突然出現した火山岩尖(かざんがんせん:ベロニーテ)。現在も溶岩塔の間から噴気ガスがたちのぼり、赤茶けた岩肌とあいまって自然の脅威をみせつける。手前には昭和新山の観察と調査に半生をささげた三松正夫(みまつまさお)の銅像がたつ。Encarta Encyclopedia田中正秋/JTBフォト

支笏湖

支笏湖は、北東を恵庭岳(えにわだけ)、南東を風不死岳(ふっぷしだけ)にはさまれた繭(まゆ)形のカルデラ湖である。周囲は急崖(きゅうがい)で、千歳川の流出口のある東岸に道内有数のモラップキャンプ場など、観光施設が集中している。写真正面にみえる山は風不死岳()と、溶岩ドームをいただく三重式火山の樽前(たるまえ)山。Encarta Encyclopedia世界文化フォト/黒田績生

豊富な温泉地も魅力のひとつで、豊平(とよひら)川上流域の定山渓温泉、倶多楽(くったら)湖周辺の登別温泉(登別市)とカルルス温泉、洞爺湖岸の洞爺湖温泉が代表的である。

札幌、室蘭、苫小牧などの都市に近く、空港や高速道路も整備されており、交通至便な北海道有数の観光地となっている。

樽前山(北海道)

1041m 北緯42度41分26秒 東経141度22分36秒 (樽前山)(世界測地系)

安山岩(SiO2 5661%)の火山。支笏カルデラの南東壁に生じた火山で、山頂部に直径南北1.2q、東西1.5qの外輪山があり、その中に低い中央火口丘がある。その火口を埋める形で1909年に溶岩ドームが生じ、今も噴気・地熱が認められる。有史時代の噴火は全て山頂で起こっている。

最近1万年間の火山活動

 樽前山の火山活動は約9000年前に始まり、プリニー式噴火で、大量の砕屑物を噴出した。その後、6000年あまりの休止期の後、約3000年前に再び短い時間間隙をおいて2回の爆発的なプリニー式噴火が起こり、砕屑物や火砕流、火砕サージが噴出した(Ta-c1、Ta-c2)。その後、約2500年間の休止期があり、江戸時代になって噴火活動が再開した。