大船C遺跡

大船C遺跡・南茅部町

   大規模集落の出現

   円筒土器文化とトッピックス資料

(阿部千春 南茅部町教育委員会埋蔵文化財調査室長)

   大船C遺跡の発掘・縄文時代中期の集落

 平成8年1214日、北海道新聞朝刊第一面「縄文時代の大規模集落発見」

縄文時代の集落跡として国内最大級

  大船C遺跡は北海道側の拠点的な大規模集落のひとつとして注目を集めた。

 北海道側というのは、大船C遺跡が栄えた時期には津軽海峡を挟んだ東北地方と北海道南部に、円筒形の土器を用いることから名づけられた「円筒土器文化」という共通の文化圏が広がっていたことが知られているためである。

三内丸山遺跡の円筒上層式土器  三内丸山遺跡の円筒下層式土器

 北海道における集落遺跡の発掘例を見ると、この円筒土器文化が北海道南部に広がりを見せる縄文時代前期の中頃(約5.500年前)から竪穴住居や集落規模が飛躍的に大きくなり、その傾向は円筒土器文化が終焉し、北海道南部に発生した「大安在B式土器」という土器文化が、渡島半島を中心として発達する中期末頃(約4.200年前)まで継続することがわかっている。

 同じ土器文化といっても、津軽海峡を挟んだ南と北の地域に画一化された生活や文化があったわけではなく、そこには独自の文化や伝統に根ざした集落が営まれていたと考えられている。

 このような観点から住居構造や集落の構成、集落の様子や食料資源、更に精神文化についても検討を続けている。

 集落遺跡の発掘調査と分析・検討が進むにつれて、円筒土器文化という共通の生活エリアにありながら、北海道という独特な自然環境の中で安定した集落を営み、地域的な文化を保ちながら生活する縄文時代の人々の姿が見えてくることと思う。

  大規模集落の構成

  三内丸山遺跡の発掘は、まさに従来の縄文観を一気に覆すセンセーショナルな出来事であった。出土遺物がリンゴ箱で4万個という膨大な量にも驚かされるが、居住空間や子供の墓、大人の墓、又廃棄ブロックという計画的な集落構成や、巨大な6本柱構築物に代表される高度な土木技術の存在は、縄文集落のありかたを見直す契機となった。

 そもそも、縄文時代の集落を構成する主な機能には、居住の場となる竪穴住居や死者を埋葬するお墓、又食料を貯蔵するための施設や、生活の中から出てくるゴミを廃棄する場所などがあり、これらは遺跡の時期や立地、またその性格によって様々に構成されていることがわかってきた。

  縄文時代前期の集落―ハマナス野遺跡  (円筒下層式土器)    円筒上層土器

 今から約5.5005.000年前の縄文時代前期後半に営まれた集落の遺跡で、円筒土器下層式a〜d2の時期に相当する。

 昭和48年以来17度の調査で13.750uを発掘しており、これまで竪穴住居190軒、墓坑や食料貯蔵穴のための土坑260基以上が見つかっている。

ハマナス野遺跡の竪穴住居は、「日ノ浜型住居」と呼ばれ、円形の竪穴に五角形のベンチ上段構造を内部に持つことが特徴です。規模が大きく、深さが2m近くあるものもあります。

 居住の場となる住居群は、一見すると平坦部を中心として環状に広がっているように見えるが、同じ時期に造られた竪穴住居の配置を見ると、広場のような平坦部を中心として東西両側の2群に区別されていることがわかる。

 上記の地図では土器の一形式を区分の基準としているため、4050軒が同時期に存在しているように錯覚を受ける。しかし、試算では515軒、恐らく最大でも20軒を越えることはあまり無かったと推測されている。

 お墓は、集落の東側に形成された盛り土遺構につくられるものと、廃棄された竪穴住居跡の窪みにつくられる廃屋墓があるが、いずれも住居群と近接している。この盛り土遺構には、集石帯と呼ばれる円礫の集積や焼土が認められる。

 大船C遺跡の発掘・縄文時代中期の集落

  大船C遺跡は縄文時代中期の集落跡で、最も栄えたのは今から約4.5004.000年前の中期後半である。

 土器形式的には円筒土器が衰退した時期にあたる。遺跡の総面積は約71.000uで、その中心部は25.000uほどである。

 平成8年に発掘調査を実施し、大規模な集落跡であることが確認されたために、一時的に埋め戻し、保存を前提とした遺跡の確認調査を継続している。

 調査した面積は4.000uで、発掘された住居は112軒である。縄文時代の一般的な竪穴住居は大きさが4×5m、深さ0.5m程であるが、大船C遺跡では非常に大きな住居が多く、中には長さ7×9m、深さ2mを越す大型住居も10数軒発掘されている。

 今のところ集落のごく一部を発掘したに過ぎないが、ハマナス野遺跡のように、中央の広場を挟んで2群に分かれるような双方的な構成にはなっていない。

 ただし、住居の方向を見ると、南東向くものと、北東を向くものの2群に分かれていることがわかる。

90度開いて住居を建てるこの傾向は、同時期の川汲遺跡や臼尻B遺跡にも見られる。

 食料貯蔵のための土坑は、住居群と共に70基ほど見つかっている。

 お墓は、僅か8基と極端に少ない。これは、縄文前期は住居群と密接な関係にあったお墓が、中期には集落と離れた別の場所に墓域を造り始めるためと考えられる。

 縄文時代の大規模集落といわれる、前期のハマナス野遺跡と、中期の大船C遺跡は、いずれも全部発掘すると1.000軒以上の住居があると考えられている。しかし、道南を代表するこの両遺跡だから、一時期に20軒、100人を越えることはあまり無かったのではないだろうか。

 大規模集落のイメージを膨らませた人にとって、この数字は意外に少ないと感じるかも知れない。しかし、狩猟・採集を基盤とした縄文時代の生活を考えた場合、100人というのは非常に大きな集落であることは疑いもなく、縄文文化の華やかさを決して色あせさせるものではない。

 むしろ、双方的な集落を構成することやその集落を安定させるためのシステムの中にこそ、縄文文化の大切な本質があるように思える。

   集落の拡張と安定

 最初は小さかった集落が次第に大規模になり、その集落を長期間維持していくためには、@ 集落構成員の食料を確保すること、A その食料を貯蔵するテクニックを持つこと、 B 毎日出るゴミの問題を如何に処理するか、の三点が重要なポイントとなることが考えられる。C としての食料や交易品などを輸送する物流システムが整っていることを大規模集落を維持するための必要条件とも考えられる。

   食糧の確保

 縄文時代の生活基盤は、自然の中から有用な動物・植物を選択して獲得する、狩猟・採集であるが、一方で、人が手を掛けないと(管理)すぐに駄目になるヒエやソバなどの簡単な栽培も行っていたことが知られている。

 ハマナス野遺跡では、縄文時代前期のヒエとソバの炭化種子が竪穴住居の中から見つかっている。又、中期の臼尻B遺跡ではヒエの大きさが増大することから、栽培化によってヒエの粒が大きくなったという研究もある。

 大船C遺跡の調査で解かった代表的な食料として!

   動物―クジラ・オットセイの捕獲

 動物では、勿論、シカなどの大型陸生動物の骨も出土するが、大船C遺跡で驚くのはクジラの骨が多い。

 クジラと共に多いのは、オットセイで、この傾向は伊達市の北黄金貝塚でも同様である。

北海道大学の南川教授は縄文時代の人骨に含まれる安定同位体の分析によって、北海道、特に噴火湾の縄文人はクジラやイルカ、オットセイなどの海獣類を主に食べていたと指摘される。

 魚類は、マグロ、サケ、ニシン、アイナメなどの他に、意外なことにマダラの骨が多数見つかっている。タラは100mほどの深海にいる魚であることから、様々な魚種に対応した発達した漁法があったことが窺える。

   植物―クリ・ヒエの利用

 平成11年度の調査で、竪穴住居の覆土から炭化したクリの実が200粒ほどまとまって出土し話題となった。

 又、住居の柱材を調べたところ、約80%がクリ材を使っていることが解かった。クリはドングリよりも美味で栄養価も高く、しかもアク抜きなどの加工する必要がない。その幹は堅くて腐りにくく、住居の柱材としても利用価値が高いことなどから、縄文時代の人々にとって非常に重要な植物であった。

 北海道と本州の間には津軽海峡があることや、ブナに比べてクリの北上が異常に早いことから、クリは円筒文化の伝播とともに、縄文人が北海道に持ち込んだものと考えられている。

 クリを新たに持ち込むということは、そこに、若しくはその周辺に、定住のできる安定した集落をつくるということが大前提である。

 「モモ・クリ三年」という言葉があるが、クリは少なくとも植えてから3年間は実を付けない。しかも、住居の柱材として利用できるまで生長するには、よほどの年数が必要だからである。だが、一度根付くと比較的安定した食料の確保が可能となることから、集落維持の長期的な計画のもとに持ち込まれ利用されたと推測される。

 縄文人の酒といえばニワトコが有名である。

 大船C遺跡の調査で出土したトピックス的な資料である。

   貯蔵と廃棄

  収縮したクリ

  大船C遺跡から出土したクリの実を観察すると、現在のクリと比べて非常に小さいことにびっくり!

 北海道の寒冷な気候のためかもしれないが、炭化した実をよく見ると、表面に収縮によるシワが著しく残っていることに気がつく。

 又、堅い外皮が付いたものは1点だけ確認できたが、あとは外皮がバラバラになった状態で見つかっている。

 こうした状況が観察できるのは、収穫したクリを「干しクリ」として保存していたためと推測できる。

 関西方面では、クリに糸を通して乾燥させる「かつぐり」をつくり、関東以北では囲炉裏の上にザルを置いて乾燥させ保存食としている。

 燻(いぶ)して保存食を作ることは、クリなどの堅果類場仮ではなく、サケやシカなどの動物性蛋白質の保存にも有効である。

 その他、塩蔵や発酵による動物性蛋白質の保存や、地下室のように掘ったフラスコ状土坑を利用した保存方法もあったと考えられている。

  盛土遺構と竪穴住居の窪み

 食料として利用した後のゴミの処理も、集落の維持するためには重要な課題となる。そのままゴミを放置すると、すぐ腐敗し、虫がわいたり病気が発生するなど、集落にとって危機的な状態に陥ってしまう。移動生活をするのなら構わないが、定住型の集落ではそうはいかない。

 大船C遺跡では、「盛土遺構」と廃棄された「竪穴住居の窪み」がゴミ捨て場となっている。

 

 盛り土遺構とは、食料とした動物の骨や、破損した石器や土器などの道具類を捨てた場所で、廃棄された遺物が盛り土のように堆積した遺構である。

 大船の縄文人たちは、この両方にゴミを捨てるのだが、どうも単にゴミを捨てているのではないらしいことが解かってきた。

 よく観察すると、ゴミの廃棄に伴って、火を焚いているのである。又、鹿の角で作った縫い針などは、きちんと3本に折ったものを並べて廃棄するなど、儀式をしたと理解できる痕跡が認められるのである。

 民族例では、食料となる動物や植物、また自分たちが使っている道具にも精霊が宿っていて、不要になったときには、火を焚いて神に返すというアニミズム的な「送り」の儀式がある。縄文の人々にもこのような意識があったのではないだろうか。

 又、燃やすという儀礼的な行為によって、それが同時に、虫や病原菌の発生などの汚染から集落を守るという衛生上の効果もあったのではないだろうか。

   集落維持の精神基盤

 集落を長い期間維持していくためには、祭祀儀礼など、ムラの人々が共有する精神文化が必要となることは容易に理解できる。

 北海道南部に大規模集落が出現する、前期中頃から中期末までの住居構造を見ると、入り口と反対の位置に土坑状の付属施設が設置されるようになる。この付属施設は、土のマウンドによって住居空間と区画されていることや、青竜刀形石器、或いは石棒などの特殊な遺物が出土する状況から、祭祀に係わる祭壇のような施設と考えられている。

    屋内祭祀の施設

  屋内に祭祀施設が規格的に設けられる事例は、縄文時代前期後半のハマナス野遺跡に見られる。この時期の住居は「日の浜型住居と呼ばれ、円形の住居プランに五角形のベンチ状の段構造を持つのが形態上の特徴である。

 大船C遺跡では、中期後半から末葉の竪穴住居と祭祀施設の変遷が興味深い。この時期の住居は、初めは楕円形プランを基本としているが、次第に卵型から舟型へ、五段階の形態変遷が認められる。

 更に、住居内の祭祀施設の形態によっても分類することができる。希に、明確な祭祀施設が認められない小型住居もあるが、通常の祭祀施設の形態は、柱穴状の小土坑と、皿状の小土坑に大きく分けられる。

 前者は現代でいう大黒柱のような柱、後者はアイヌ民族のイナウのような小型の木幣が立てられていたと推測される。柱と木幣の二種の儀礼があったのだろう。両者ともマウンドで区画し、他の空間と明確な区分けをしている。

 さて、このマウンドは祭祀施設となる穴を掘った土を盛ってつくられるが、マウンドと床面の間に炉から続く炭化物が検出されることから、炉で火を焚いた後に、祭祀施設を設けていることが窺える。

 この手順は全ての住居にも見られることで、このことは、竪穴を掘った後に、まず炉の位置を決めて火を焚き、それから住居を作るという一定の手順、或いは儀式が集落内にあったことを物語っている。

 又、この施設周辺からは儀式に使ったと思われるクジラの骨刀や青竜刀形石器、小型の石棒などが出土する。皿状の祭祀施設からは、ヒエの炭化種子が検出されている。

 興味深いのは、この祭祀施設は、初めは柱穴状の形態が圧倒的に多いながらも、皿状の形態も同時に存在し、時期が新しくなるに従い皿状の施設が優勢になり、柱穴状の施設が次第に消滅することである。

   竪穴住居の拡張

 ある時期、又は、ある契機によって、決まり事のように家を建て替えるのである。その際に、住居内で使用した土器や、石皿なども盛り土遺構へ廃棄するようで、そのため発掘調査の時には石皿の出土量が膨大な数になる。又、ハマナス野遺跡など前期の石皿に比べて、中期の石皿があまり窪んでないのもこのためである。

   大規模集落の解体

 縄文海進とともに出現した大規模集落は、中期末までに、集落を維持するための食料確保や、精神文化も独自の発達をしてきた。しかし、縄文時代後期になって気候が冷涼化してくると、集落規模は縮小し、居住する場所の選択も、平坦な台地から小河川の斜面に移動するなど、環境に適応した新しい戦略によって集落を営むことになる。

 竪穴住居は小型化し、屋内の祭壇など直接的に生活に必要ない施設は一時的に消失する。この住居の小型化は、適地を求めて移動するという面ばかりでなく、冬期間には暖める空気の量を減らして熱効率をよくするというメリットがある。

 土屋根の竪穴住居も、この時期一般的になる。又、屋内祭祀の施設が無くなる一方で、後期にはストーン・サークルが作られたり、精巧な土偶が製作されるなど新たな精神文化が形成される。

 集落規模の収縮化は、一見すると縄文文化の衰退のように感じるが、堅果類のアク抜きをした水場遺構に代表されるように、環境に適応した技術が発達し、一方で新潟県糸魚川のヒスイや、秋田県産のアスファルトなどの、日本海を経路とした物流も盛んになる。

 又ヒスイの加工や、とくに、南茅部町磨光B遺跡のアスファルト加工工房のように、特定の技術集団の存在や職業分化も想定されるなど、社会的な基盤も大きな変化を見せる。

 更に、千歳市周辺の周提墓のような巨大な墓の造成など、階層社会の確立の兆しも見え、縄文の社会にこれ以降、新たな展開を遂げていく。

(阿部千春 南茅部町教育委員会埋蔵文化財調査室長)

新北海道古代史―1 旧石器・縄文文化(野村 祟  宇田川 洋編)


縄文中期 大船遺跡出土

大船遺跡(縄文時代中期、今から約5,0004,000年前)

 大船川左岸、大船小学校を見下ろす海岸段丘上に位置しています。総面積72,000uのうち、これまでに約4,000uを発掘し、100軒を超える竪穴式住居が発見されています。深さは最大で2.45m、長さは最長で約11mという規模の大きさが特徴で、遺跡全体では1,000軒を超え、最大で100人前後の集落であったと推測されます。この他に食料貯蔵用の土坑約70基、お墓が8基発見されています。住居と比較してお墓の数が極端に少ないので、これまでに発掘した範囲は、集落の中心部であることがわかりました。 出土した土器・石器は20万点以上にのぼりますが、石器は盛土遺構(もりど)から大量に発見されました。盛土遺構は、食料とした動物の骨や破損した土器・石器を捨てた場所ですが、そのなかには火を(た)いた跡があり、廃棄に伴う儀式を行っていたと推測されます。また、廃棄された住居の窪みから、炭化したクリ・クルミ、動物や魚の骨が出土しますが、火を焚いた炭の層から発見されます。このことから、道具だけでなく食料の食べかすを捨てる際にも火を焚いて儀式をしたことがうかがえ、火を焚いて神に返すというアニミズム的な儀式があったのではないと思われます。縄文時代中期後半になると、土器は上部がくびれ、胴が張り出し、底部がすぼむ形に変化します。文様は東北の影響を受けた渦文、剣菱(けんびし)状の渦巻文、また、道南特有の粘土紐の上に縄目の線を付けたものが多く見られます。

(執筆 小林 貢 氏)