(三浦 正人 北海道埋蔵文化財センター調査部長)
木の文化の発掘
世紀末2.000年から新世紀2001年にかけて石狩市紅葉山49号遺跡の発掘は、話題続出の調査となった。
粗くブドウ蔓で編まれた杭列と管状の筌(うけ)からなる漁獲施設やたも網の枠、丸木舟の舳(へさき)や石斧柄、灯火用挟み木、大型舟形鉢、漆塗り鉢形容器など、旧河道から検出される縄文時代の遺構や出土品が相次いだ。
これに先立つこと15年、1986、87年には小樽市忍路土場遺跡低湿地部でもやはり、木製遺物や漆塗り製品・繊維製品、木組を設けた作業場、巨大建材と柱穴跡などの遺構遺物が相次ぎ、縄文時代後期の当時の生活を知る上での新資料を提供した。
更にその8年前1978年、江別市江別太遺跡でも、高速道路建設に伴って低湿地の調査が行われ、続縄文時代の杭列や木製品が姿を現しており、一部は1994年に重要文化財に指定されている。
柄つき石ナイフ
所在地 江別市緑町西1丁目38 江別市郷土資料館 |
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木・繊維・漆の製品や技術は、縄文人が使っていた他の道具(土器、石器、骨角器など)との組み合わせ、建築材としての木・繊維・衣料としての繊維や漆工品、副葬品としての製品など、日常生活の営みや精神文化との関わりなどから、縄文人にとっては必要不可欠な文化であったといえる。
加工しやすさや多様性、安定した資源、樹種や部位によって変化する材質といった点で様々に利用され、土器、石器、骨角器との形状や役割の共通性を持っている。
忍路土場遺跡の調査
小樽市街の西方約10km、忍路半島の付け根に位置し、蘭島川支流で西流する小河川種吉川吉沢川の左岸台地(標高18m)と氾濫源にその広がりを持っている、縄文時代後期中葉の遺跡である。
台地部の続き南側緩斜面には、国指定史跡「忍路環状列石」があり、このストーンサークルとは一連の遺跡である。
低湿地は、この小河川の側方浸食で台地端が削られた湾入部に存在、豊富な水分を有する黒色腐植泥と砂の互層が1〜1.5mの厚さで堆積し、約千uに20万点を超える遺物がパックされたような状態で埋蔵されていた。このため土器・石器類は勿論木製品・繊維製品・漆工品や大型種子・自然木などの大量の有機質遺物が発見された。
埋蔵文化財
忍路土場遺跡
小樽市内に確認されている遺跡の数は、平成6年9月現在で100箇所を数えます。遺跡の分布は、その65%が塩谷・蘭島などの西部地区に集中しています。これはこの地域が、農村地帯として開発から免れていたためと考えられます。小樽市では1984(昭和59)年を境として、大規模な発掘調査が始まり、現在まで100万点に及ぶ土器・石器などの遺物を収蔵しています。市内の代表的な遺跡としては、縄文後期(約3500年前)の忍路土場遺跡がまず上げられます。この遺跡は湿地遺跡での大量の木製品を始め漆工芸品、繊維製品などが出土いたしました。特に漆工芸技術の確認はこの時期の北海道では初めてのことです。また続縄文時代(約1600年前)の餅屋沢遺跡では、292個の墓が調査され、この時代の墓制に関する貴重な資料が得られています。 |
出土遺物を紹介すると、木製品では浮き子・やす・たも網枠などの漁労具、楔(くさび)・石斧柄・発火具・台板や割材・板材・丸木材の各加工品などの諸道具類、舟形容器・鉢・脚付皿などの容器類、祭祀具・弦楽器、弓、板類、柱・桁梁(けたはり)材、杭などの建材類、巨木な建材・加工材があり、割材などの加工原材・途上材、炭化材も多い。巨木建材は台地上にあった巨木柱穴と合致するもので、その後の小樽教育委員会のストーンサークル史跡整備調査においても周辺から巨木柱穴が検出され「忍路環状列石」の周りの巨木は柱が取り巻いていた可能性もある。
漆工品には、木胎漆器や櫛、朱漆塗紐・朱漆染?糸玉、装飾品がみられる。
樹皮製品では、漆液を溜めた容器や赤彩した断片があるほか、焚き付けや燈火用として、あるいは繊維材料として用いられたものがある。
繊維製品では、敷物状・すだれ状に編組されたものや縄類とその製品、かご・環状器台のほか、彩色された編布やたも枠に付着した網残片、漆工品で上げた紐・糸などがある。
地形や層序、遺物分布から見ると、低湿地部は川の氾濫と移動の繰り返しによって泥・砂が堆積し、氾濫ごとに幾面もの安定した面が形成された。
これを間氾濫期に生活面とし、木製品をはじめとする多くの遺物が残されていたのである。
この生活面のうち、特に遺物や木組遺構・建材などが集中するスペースがおおよそ三段階で7ヶ所確認され、水を必要とする作業を行う「作業場」として見られている。
作業場は食物を中心とする動植物加工や漆工、繊維製品などの諸道具や墓副葬品作りの場と考えられる。又、小沢や分流を水利工事した水利用や平坦区画造成なども行っていたかもしれない。
巨木材や建材・板などの木製品・繊維製品を作る技術の高さがあれば、簡易的な水利工事を行う技術レベルは十分達成していたものと思われる。
木製品・繊維製品・漆工品は単独で出土するものではなく、単独で使われるものでもないことがわかった。
木製品・繊維製品・漆工品と他の道具(土器・石器・骨角器など)との組み合わせで、縄文・続縄文人の日常生活の営みや精神文化が成立していたもので、「木」があってこその縄文〜続縄文文化といっても過言ではないだろう。
少なくとも低湿地の作業場では、まぎれもなく木製品・繊維製品が主役であったのも事実である。
新北海道古代史―2 続縄文・オホーツク文化(野村 祟 宇田川 洋編)