神居古潭・上川盆地と石狩平野

「日本の古代遺跡 北海道  野村 祟」抜粋

 神居古潭 かむいこたん 北海道旭川市西部、石狩川上流にある峡谷。上川盆地と石狩平野の間を横切る山地を石狩川が浸食してできた峡谷で、古生層の変成岩をうがった奇岩や断崖(だんがい)、洞穴、深淵(しんえん)が約10kmにわたってつづく。名称はアイヌ語の「カムイ・コタン」(神の居所)に由来するといわれる。

 

コタン アイヌ語で村を意味する。アイヌ文化期の伝統的な社会の単位。コタンコロクルとよばれるコタン内の宗教的、社会的権威者であり代表者である長老を中心に、血縁からなる集団が複数あつまって生活する。

河川や河口付近に数戸から十数戸の家で構成され、コタンの中には、食料保存庫、子グマ飼育の檻(おり)、祭壇、共同墓地、水くみ場、船着き場などがあった。

また、狩猟をおこなう場所、海の漁場、川の漁場、衣服や敷物などの材料にする植物を採集する場所、建築用の木材、山菜の採集場所など、食料や資源をえるための場所も、コタンごとにきめられた一定の場所があり、これをイオルとよんだ。イオルをでて、ほかの領域にはいるときびしい罰をうけた。

江戸時代、和人(アイヌの側から日本人をよぶときの言葉)との交易がすすみ、松前藩による漁場の経営がおこなわれるようになると、和人は、アイヌを労働力として確保するために、コタンごと漁場の近くに強制的に移住させるようになり、伝統的なコタンの組織は大きくかわっていった。

急流と深淵が連続する奇勝の地で、河床にも甌穴(おうけつ)や奇岩が豊富にみられる。峡谷の右岸を函館本線が通じていたが、1969(昭和44)の神居古潭トンネルの開通により路線が変更され、線路跡は約19kmのサイクリングロード、旧神居古潭駅の駅舎は市郷土博物館の分館となった。峡谷の左岸に国道12号が通じ、旭川近郊の景勝地として春、秋の観光シーズンにおとずれる観光客が多い。毎年10月にはコタン祭りが開催されている。

 旧神居古潭駅の西方約2kmの地点に、道指定史跡の神居古潭竪穴住居跡があり、擦文文化期を中心とする200個以上の竪穴の遺構や、壕をもつチャシ(アイヌの砦:とりで)跡と思われる遺跡がのこっている。


 チャシ アイヌの人々によってつくられた砦状(とりでじょう)の遺構。柵(さく)、柵囲いを意味するアイヌ語を語源とする。北海道全域、千島列島、サハリンなどに広く分布し、道内では現在500カ所以上が確認されている。

海、湖沼、河川などに面した急峻で、見晴らしのよい丘陵の頂部や先端部を深さ23mの壕(ごう)でくぎったり、土塁でかこんできずいている。規模は1001000m2のものが多い。チャシがきずかれた年代は、遺跡から出土する駒ヶ岳、有珠山、樽前山(たるまえさん)、雌阿寒岳などの火山灰の降灰年代や、近世の文献、外国人の探検記の記録などから、1618世紀ごろとされる。しかし、もう少し古いとの説もあり、起源や初現年代についてはいまだ不明な点が多い。

発掘調査では、壕や柵列跡、掘立柱建物、橋状遺構や、近世の陶磁器や鉄製品、内耳土器(ないじどき)、漆器などの遺物が発見されることが多い。砦としての機能だけではなく、ほかに漁労や狩猟の見張り場、儀式や談判の場、英雄の居館とする説もある。

チャシは、北海道東部の根室、釧路、日高、十勝に多く分布し、海岸部にはとくに大規模なものが集中する傾向がある。これを1669(寛文9)のシャクシャインの戦と関連づける見方がある。チャシは本来、さまざまな機能をもっていたが、アイヌと松前藩との緊張関係が生じるにつれ、砦としての機能が強化され、発展していったものと考えられている。

上川盆地 かみかわぼんち 北海道中央部石狩川上流域にある盆地。東西約20km、南北約30kmの広さをもち、東は大雪火山群( 大雪山)、西は天塩山地と夕張山地にかぎられ、丘陵地を境にして北は名寄盆地、南は富良野盆地につらなる。旭川市が大部分を占め、道北の拠点である。

石狩川、忠別川、美瑛川(びえいかわ)など多数の河川が四方からながれこみ、東から西へ緩やかにかたむく扇状地を形成している。諸支流をあつめた石狩川は北東から南西に盆地をながれ、石狩平野へ流出する際に神居古潭の渓谷をきざむ。盆地底の標高は100200mで、砂礫質(されきしつ)の沖積地が広がる。西部には粘土質の堆積物(たいせきぶつ)をのせる近文台(ちかぶみだい)や神楽台(かぐらだい)などの台地が分布している。気候は典型的な内陸性をしめし、気温の年較差や日較差が大きいことで知られる。旭川市は8月の平均気温が21.1°C1月の平均気温が-7.8°Cで、年間に約30°Cの気温差が生じる。

北海道開拓の先駆的地域のひとつで、1891(明治24)から3年間で約1200戸の屯田兵が配備されている。ちょうど屯田兵の応募対象を士族のほか平民にも拡大した時期で、永山地区は最初の平民屯田兵入植地であった。北海道の平地ではめずらしく泥炭地の少ない、農耕に適した土地のため、98年の函館本線(当初は上川線)開通後は土地の払い下げが早急にすすみ、明治末期にははやくも水田単作地帯となっていた。現在も北海道有数の水田地帯で、トマトやジャガイモなどの野菜、花卉(かき)、果樹の栽培も盛んである。工業は食品加工業のほか、周辺の森林資源と豊かな水資源を利用した家具や木工、製紙工場があつまる。

石狩川 いしかりがわ 北海道中央部から西部にかけてながれる河川。石狩川水系の本流で、1600本におよぶ支流をもつ一級河川。長さは268kmで日本第3位、流域面積は14330km2で第2位である。

石狩岳(1967m)の西側にはじまり、北流して大雪連峰を反時計回りにまいて上川盆地にいたる。旭川市内で美瑛(びえい)川と合流し、神居古潭の峡谷をけずって石狩平野北部の空知(そらち)低地帯にでる。滝川市の北方で雨竜川、南方で空知川と合流し、江別市で夕張川、千歳市、札幌市北東で豊平川、当別(とうべつ)川の水をあつめ、石狩市で日本海の石狩湾にそそぐ。石狩平野では蛇行をくりかえし、いたるところで三日月湖や分流をつくる。最下流部は海岸砂丘にはばまれるため、しばしば洪水の被害にみまわれた。近年は河川改修がすすんで流路は直線的になり、全長は過去にくらべておよそ100km以上みじかくなった。

流域には北海道の二大都市札幌市、旭川市があり、政治と経済の中心地域となっている。かつて砂川市、美唄市、岩見沢市などは、空知川沿いの赤平市、歌志内市などとともに石炭の採掘でさかえたが、石炭産業は壊滅し、当時の活気はみられない。現在は上流部の大雪ダム、空知川の金山ダム、幾春別(いくしゅんべつ)川の桂沢ダム、夕張シューパロダムなどで電源開発がおこなわれている。層雲峡と神居古潭は観光地として知られる。

層雲峡 層雲峡の中でも、上流左岸の天城岩周辺は豪壮で規則ただしい柱状節理の絶壁として名高い。大雪山からの火砕流堆積物が、石狩川に浸食されてつくられた奇勝である。近年は崩壊がいちじるしく、1987(昭和62)に岩石崩落事故が発生して犠牲者を出した。現在は監視員の指導のもとで見学がおこなわれている。

石狩平野 いしかりへいや 北海道西部の平野。石狩支庁と空知(そらち)支庁にまたがり、日本では関東平野についで広い。

北を天塩山地、東を夕張山地、西を暑寒別(しょかんべつ)火山群、南を支笏湖周辺の火山群でかぎられる。石狩川が多くの支流をあつめて北東から南西に蛇行しながらながれており、各地に三日月湖(河跡湖)や分流をつくっている。かつて太平洋にながれていた石狩川は、火砕流によって日本海側に流れをかえるようになったと考えられる。平野は、上流部の空知低地帯と下流部の沖積平野にわけられる。各河川は氾濫をくりかえし、その背後に湿原ができ、泥炭層が厚くつもっている。

明治初期に屯田兵が入植して開拓がはじまったが、湿原と泥炭地、きびしい気候がわざわいして開発はすすまなかった。初めは畑作が中心だったが、大正期にはいって大規模な土地改良と用水の確保、品種改良がおこなわれ、稲作が可能になった。現在では、耕地面積の3分の2あまりを水田が占め、農家1戸当たりの平均耕地面積も全国有数の経営規模をほこる稲作地帯となっている。

旭川市 あさひかわし 北海道中央部、上川盆地のほぼ全域を占める都市。札幌につぐ北海道第2の都市で、上川支庁の所在地。気候は大陸的で、夏は気温が30°Cをこえることもあり、冬は-20°C以下になることがよくある。大雪山連峰を水源とする石狩川、牛朱別川(うししゅべつがわ)、美瑛川(びえいがわ)、忠別川ほか大小132の河川が市内をながれ合流するため、川の町とよばれる。1922(大正11)市制施行。55(昭和30)神居村(かむいむら)、江丹別村(えたんべつむら)2村、61年に永山町、63年に東旭川町、68年に神楽町(かぐらちょう)71年に東鷹栖町(ひがしたかすちょう)をそれぞれ編入。2000(平成12)中核市に移行した。面積は747.60km2。人口は3665(2004)

観光と歴史

市内には公園が多く、1969(昭和44)にいちはやく歩行者天国を実施し、72年からは道路を買物公園としたユニークな公園がある。旭川大学、北海道東海大学、旭川医科大学、道立旭川美術館、旭川市旭山動物園、スタルヒン球場( スタルヒン)のほか、井上靖記念館や三浦綾子記念文学館など旭川出身の小説家の記念館も開館し、教育・文化施設が充実しつつある。

大雪山国立公園や神居古潭をおとずれる観光客も多い。神居古潭は市西部の峡谷で、景勝地であるとともに擦文文化期の竪穴住居遺跡が数多く分布している(→北海道の「歴史」)。また、「川村カ子トアイヌ記念館」はアイヌ文化を継承する最古の資料館として知られる。

1890(明治23)上川郡に旭川、神居、永山の3村がおかれて、旭川村が誕生した。翌年と翌々年に屯田兵各400戸が入った。1900年には町制が施行されるとともに第7師団がおかれ、軍都として発展した。

屯田兵 とんでんへい 明治期の北海道に開拓と警備・治安を目的に配備された土着の兵団。1873(明治6)の開拓次官黒田清隆の建議で開始された。ロシアに対する国防力の強化と開拓促進のため、東北地方の士族を選抜して家族全員を北海道に移住させた。75年には、宮城県・青森県・酒田県(山形県)を中心に選抜された198戸、965人が、はじめて琴似(ことに)兵村(札幌市)に入植した。1兵村は200戸を標準とし、以降、石狩川流域を中心につくられていった。

屯田兵には移住旅費・家具・農具などが支給され、兵屋と農耕地が用意され、移住後3年間は米や塩菜料もあたえられた。当初は士族にかぎっていたが、開拓に力をいれることになったため、1890年から対象を平民にも拡大し、兵村も内陸部につくられるようになった。やがて北海道への移住そのものが盛んとなり、1900年以降は募集が中止され、04年に廃止された。募集中止までに、士族・平民あわせて37兵村、7337戸、約4万人に達した。

厚岸の太田屯田兵村の一家族

1890(明治23)に山形県や石川県など8県の士族440戸がこの地に入植。この小さな家屋に一家族がすみ、開拓した。この年に平民屯田兵の募集がはじまり、士族屯田兵移住の最後であった。北海道南東部厚岸湾近くの台地上にある太田は現在、酪農業の中心地になっている。