津軽海峡から噴火湾へ・縄文のクニと海のネットワーク
津軽海峡の両岸に、豊かな縄文の地・クニが広がっていた。
北の縄文の旅は、津軽海峡から!
今から約10年前、津軽海峡を望む青森市の県営野球場建設予定地の発掘現場から、驚くべき遺跡が発掘された。
「三内丸山遺跡」である。(「三内丸山遺跡」)
約5.500年前から1500年間に渡って続いた集落、巨大な柱構造物、長さ30mという日本最大級の竪穴住居(竪穴住居)。縄文のイメージを塗り替えたといってもいい。 工事によって消失する予定だった遺跡は保存され、県営球場は建設が中止となった。
三内丸山遺跡は、日本一有名な縄文遺跡となった。
その数年後、今度は津軽海峡の対岸の道南各地で、驚くべき発見があった。
函館市郊外から、三内丸山遺跡を遡ること2.000年の中野B遺跡から、縄文時代早期としては日本最大級の約550基の竪穴住居を持つ集落跡が発見された。
中野B遺跡(函館市・縄文早期)
更に噴火湾に面した南茅部町では、三内丸山遺跡と同じ頃に約600基を越える竪穴住居の存在が推定される大船C遺跡など、大規模な集落が幾つも存在することが明らかになった。
大船C遺跡(南茅部町・縄文中期)
三内丸山遺跡に匹敵する遺跡群が、北海道側にも存在したのである。 大船C遺跡と三内丸山遺跡は、同じ円筒土器文化に属している。平底で、筒型を中心とした土器であり、この文化圏は津学海峡を中心として北は石狩平野、南は秋田、盛岡付近に至る北東北一帯に及んでいる。
津軽海峡の両岸に、豊かな縄文のクニが広がっていたことになる。
かつて北海道に渡った開拓者達は、この海峡を越えることを「しょっぱい川をわたる」と表現した。しょっぱい=塩辛い川、津軽海峡は、常に北海道と本州を隔絶し、一つの国境として位置しているかに見える。しかし、実は津軽海峡全体が一つの文化圏とでも呼べる関係にあることは、意外と知られていなかった。
例えば、江戸時代から昭和まで、ニシン漁全盛期には松前・江差には多くの出稼ぎの漁民たちが対岸からやってきた。 今も双方で縁戚同士にある人は多い。
遡れば、北前船は海の路に豊かな産物を運んだし、安東氏が支配した14世紀頃の津軽半島十三湊(とさみなと)には、多くの京船、夷船が出入りしたという記録があるように、アイヌの祖は交易の民としてアクティブに津軽海峡を行き来している。
(安東氏 あんどうし 鎌倉〜室町時代の津軽地方の豪族。安藤とも書く。本姓は安倍氏で、前九年の役でほろんだ安倍貞任(さだとう)の子孫という。
鎌倉時代、北条氏の代官として津軽の北条氏領を支配し、蝦夷との交易も統轄した。十三湊(とさみなと:青森県五所川原市)を本拠に日本海海運でさかえたが、鎌倉末期に一族の内紛で安東氏の乱をおこし、幕府の追討をうけたこともあった。15世紀初め、南部氏に圧迫されていったん蝦夷島(北海道)にのがれた)
その交易の路は、既に縄文時代から始っていた。
本州最短の岬
函館市内から東へ車で約30分、戸井町の汐首岬に出る。ここは海峡がわずか20`と最も狭まり、本州との最短の地点である。
戸井の縄文時代後期の遺跡である戸井貝塚からは、舟形土製品が出土している。舟をかたどった土の模型とおぼしきもので、線が刻まれた舟べりのかたちは、まるで波除けの板材に見える。
舟形土製品(戸井貝塚・後期初頭)
丸木舟を板材で補強し、海峡を行き来し、何を運んだのだろうか。
その重要な「交易品」のひとつが、山を越えた噴火湾側の南茅部町で見つかっている。 豊崎N遺跡と磨光B遺跡から、アスファルトの大きな固まりが出土しているのである。
戸井町と恵山と南茅部町
戸井町から南茅部町へは、恵山のふもとを山越えして、さらに北へ向かう。
道路のない昔は、舟で恵山岬を一周りしたのであろう。
この町で縄文の遺跡が見つかったのは、海岸段丘の上である。
町内には約90ヶ所の遺跡があり、出土した遺物は350万点以上にのぼる。
アスファルト
アスファルトが出土した状況(磨光B遺跡)
我々では、道路の舗装材として有名なアスァルトだが、当時の縄文人たちも大変重宝したらしい。
割れた土器を修理したり、釣り針にみち糸を付けたり、鏃を矢に固定するときにも使われている。
当時の天然アスファルトは、秋田県や新潟県などの石油鉱床地帯でしか取れなかった。
アスファルトは、土器に入れられて、このような産地から運ばれた。
南茅部町の豊崎N遺跡からは、土器の中にびっしりと詰まったアスファルトがそのままの形で見つかった。このアスファルトは、分析の結果、秋田県昭和町槻木から運ばれたものだった。
磨光B遺跡からの出土は、更に想像力を掻き立てるものだった。作業場と思われる建物跡の中に炉のように掘られた穴の周りに二つの大きな固まりがセットされるように置かれていたのである。穴の中では火を焚いた痕跡があったところから、この場所がアスファルトを熱で溶かしながら加工していた工房だったと考えられる。
つまり、約3.500年前、秋田県から津軽海峡を越えてアスファルトの交易の路があったということと、恐らく、希少で高価であっただろうそのアスファルトを加工した、専門的な工房と工人が存在したこと。それは狩猟採集による自給自足のムラというイメージを大きく変えてしまう。
縄文工房(ファクトリー)という言葉を使うとすれば、もう一つ町内の遺跡からは、「青竜刀形石器」が136点出土している。 他の遺跡では1、2点が通常だから、これも南茅部の特産だった可能性もある。
青竜刀形石器
青竜刀形石器は、用途が不明で、恐らく祭祀に使われたのではないかと思われる。 縄文人の精神文化と関るものだとすると、それが何故南茅部町から多く見つかったのか、一つの謎だといえるだろう。
大船C遺跡は、大規模な集落であり、大型の竪穴住居が多い。大量のクジラの骨、オットセイやマグロなど、海の幸を存分に味わった跡も見つかっている。驚くのは、石皿が2.000個も出土したこと。
無造作に積まれた石皿
南茅部町の遺跡については、1975年、町内の農家の婦人が畑の中で見つけたひとつの土偶がある。
高さ40pと大型で、しかも美しいフォルムを持つこの土偶は、内部が空洞になっているから中空大土偶と名づけられた。国の重要文化財。
日本の縄文の美を代表する遺物といってよい。
垣ノ島B遺跡で出土した縄文時代早期の漆製品が、放射線炭素による年代測定によって約8.000年前の副葬品であることがわかった。
世界最古の漆製品の出土状況
これは世界に例がない、文字通り世界最古の漆製品である。漆の肩当てなどと思われる出土品は、中空大土偶の文様を思い起こさせる。
かくして我々の縄文イメージは、またまた大きく修正させられた。
南の海からやってきたもの・虻田町と伊達市の貝塚から出土したもの
噴火湾の北、虻田町の入江貝塚から、沖縄以南の南の海でしか採れないオオツタノハ製の貝輪が見つかった。
この貝輪は、装飾品として縄文人を美しく飾りたてたのでしょう。或いは精神的権威の象徴であったのかもしれない。
時代は少し下がるが、今から約1.800年前の続縄文時代の遺跡である伊達市・有珠モシリ遺跡からは、イモガイ、ベンケイガイなどの貝輪が多量に見つかっているが、これらも南海の貝である。 遥か南の海の民が交易の旅の末にたどり着いたのか。それとも列島を次々と交換されて、ついには北の地の民が飾ったのか。
北の縄文の旅は、縄文時代に、交易のための海のネットワークが存在したことを、我々に教えてくれる。
そのネットワークが運んだものは、南の海の貝や、糸魚川のヒスイや、秋田県のアスファルト、北海道各地の黒曜石、サハリンのコハク、専門的に作られた石器や土器など極めて多様なものだった。
その広がりも、列島の南北三千`に留まらず、北はシベリア共和国から縄文をもつ土器が出土したこともあった。