噴火湾沿岸 縄文文化

噴火湾沿岸の縄文文化と北海道の植生

内浦湾(噴火湾)沿岸の縄文文化と北海道の植生

 北海道に人が暮らし始めたのは、遺跡で確認される限り、凡そ二万年前と考えられている。石器による狩猟生活旧石器時代を経て、一万年前ころになると、石器に加えて土器を使う縄文時代にはいる。凡そ一万年間も続くこの時代の遺跡は、全道で一万箇所以上も発見されている。当時の北海道はよほど住みやすかったのでしょう。気候も今よりずっと温暖で、海にも山にも食料が豊かな楽園だった。

 植生図と海流図

 縄文時代で最も暖かい時期は約六千年前の縄文時代前期の初め頃で、平均気温が現在よりも12℃程度高かったと推測されています。 この温暖化の影響を受けて植物の分布も大きく変わり、北海道では西半分の地域のほぼ全域と十勝平野にはオニグルミやミズナラなど落葉広葉樹林が進出し、北部・東部地域にはエゾマツなどの常緑針葉樹林が進出しました。

 温暖化とほぼ同時期に暖流(対馬海流)も勢いを増して北部の海流に流入しました。 この変化は地上の気候にも少なからぬ影響を与えたのです。又、津軽海峡の海流は8の字に回っていて、北海道と北東北のどちらからでも海を渡ることができ、この地域の文化を繋ぐ交流の道となったのです。

  太古の世界への思い!(南茅部町と伊達市など)

 山裾の深い森が迫る海岸段丘に集落が点在する。それぞれには、地面を掘り下げ、クリの木を切り出した柱にヨシで蓋った竪穴住居が集まって、20戸ほどの家族が寄り添うように住んでいる。男性は、石を磨いて道具を作り、弓や落とし穴でシカやイノシシを狩り、石銛やシカの角から作った釣り針で海獣や魚を捕り、家族のもとへ運ぶ。女達は、幼い子供を連れて裏山に入り、クリやトチの実や野草を採ってくる。それらは縄目文様の土器に入れ、囲炉裏で煮て、家族団欒の食事となる。

 水は集落の側を流れる小川からいつでも得られる。海岸へ下れば、貝や海草はいくらでもある。 海の向こうからは、丸木舟を操って遠くの人々もやってくる。 ヒスイの勾玉や道具作りに使うアスファルトも、保存しておいた食料と交換で手に入れた。必要な土器は、近くの沢にある粘土を成形し、野焼きで作る。鍋や壺だけでなく、食器や急須、時には人形も作る。特によくできたものは漆を塗って長く使う。

 こうして縄文人は、四季の営みの中からほんの少しの恵みを貰い、自然に逆らわず、自然を畏怖しながら、何千年も変わらず、暮らしていた。

 南茅部町の大船遺跡や伊達市の北黄金貝塚に立って、縄文時代の風景を空想してみたい!

 太古の森の緑と海の碧さが鮮やかによみがえり、文明の洪水の中で忘れていた人間の原始の記憶が呼び覚まされたような、不思議なタイムスリップ感覚を体験したい。

 そして、現代人は太古の人々の精神世界から学び取って、わずかばかりでも人間の本来の姿を取り戻すべきではないかと思えてくる。

(北海道人=http://www.hokkaido-jin.jp

 縄文人の住居・集落(南茅部町と伊達市)

南茅部町大船遺跡の竪穴住居跡です。特徴的なのは深さが2.4mと他の遺跡のものと比べ際って深いのです。

(三内丸山遺跡の竪穴住居跡=

http://bunarinn.web.infoseek.co.jp/sannaimaruyama/tateana.htm)

  深さが増すほど内部の温度が一定に保たれるので、冬の寒さとの関係や二階建てだった可能性も考えられます。又、これらの住居跡は単独で発見されることはなく、複数の家が集まって、集落を作っていたと考えられます。

 規模は道内では比較的大きな大船遺跡や、ハマナス遺跡でも一時期に生活していたのは多くても20軒、100人程度の規模だったと考えられます。

 竪穴住居の屋根の材料は草や小枝、木の皮、土などが使われていました。当時の技術は可也進んでいたようで、傾斜地に建てられた住居の床面がほぼ水平に作られたり、家の各部屋の長さ・高さが一定の数値の倍数で作られているものがあります。物差し(縄文尺)が使われていたのかも知れません。

伊達市北黄金貝塚の竪穴住居付記復元

  縄文人の精神

 6.500年前の遺跡から、幼児の足型をつけた土版が見つかっています。 紐を通すためと見られる穴が開けられています。子供の成長を願ったり、不幸にして亡くなった子供の形見としてこのようなものが作られたと考えられます。

南茅部町垣ノ島A遺跡の足形付き土版

次の写真は秋田県鹿角市の大湯遺跡資料館での写真です。



  伊達市の北黄金貝塚の水場遺構

 湧き水を中心とした遺構は、自然石のほかに石皿や察石といった調理具がぎっしりと敷き詰められていました。しかも、不思議なことにそれらの道具全てが破損していました。これらのことから、この場所は単なるゴミ捨て場ではなく、使わなくなった道具を道具を自然に帰して、再び恵みがもたらされるように願う儀式の場所だったとも考えられています。又、この貝塚からは、クジラの骨で作られた刀(骨刀)も見つかっています。武器としての実用性が乏しいことから祭祀・儀式のときに使われたものと考えられています。

伊達市北黄金貝塚

骨刀

水場遺構の復元写真

「日本の古代遺跡 北海道  野村 祟」抜粋

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